三章 噂 2P
町には有名なパン屋がある。奴隷商人と繋がる者が多いなら、潤っているところから順番に疑うのは当然だ。
ホーカーは優れた勘でクルミルクの看板をくぐると、当分のパンを用意するように頼み込んだ。
「わたくしどもは卑しい商売人でございます。うちではパンを扱っているので、その注文を聞かない理由はございません」
老獪な皴を刻み始めた年の女店主は、商売用の笑顔で答える。
「この店では何が自慢の品なんだ?」
「ええ、ええ。どれも自慢にしております。蜜のたっぷりかかったもの。切り込みを入れて緑牛の肉を挟んだものなどがございますが、どういったものがお好みですか?」
ホーカーは真剣に考え込んだ。
毎日注文する手間を惜しむなら、同じものを毎日用意してもらうのがいい。甘ったるいものも脂っこいものもこだわりなく放り込む口でも、毎日同じものが続くなら飽きないものがいいだろう。
ホーカーは商人ではないから思ったまま告げる。
「それではミルクパンなどいかがでしょう?」
即座に答えるのは熟練の商人だからか、それとも最初からそれを勧めるつもりだったのか。女店主はパンを一つ手に取ると、ホーカーによく見えるよう商品の説明を始める。
「このように、とても柔らかいパンでございます。使っているミルクは日によって違いますが、わたくしはどんなミルクもおいしいパンにすることができます」
ホーカーは手渡されたパンを一口かじって、すぐに気に入った。
毎朝来ることを告げて銀貨を十枚ほど取り出すと、こだわりなく女店主に手渡す。
金に興味の薄い散歩屋は、銀貨一枚でどれだけパンを買えるのか知らないのだろう。
笑顔で銀貨を受け取った商人が多すぎる代金の意味に気がつくまで、もうしばらく。
クルミルクのすぐ近くに建つのは肉の家。ハットたちが営む肉屋だ。
隊長から渡された情報。奴隷商人の仲間の一人はこの肉屋。なんとホーカーはそれを町に来る前から知っていたのだ。
彼がすぐに肉屋を訪れずに数日も過ごしたのは、そこに子供がいたから。
今日こそはと思い切れずに通り過ぎ、向かうはクルミルク。それはいつしか習慣になっていた。
「ねぇ! そこの……砂の人!」
思わず怪しげな笑みを浮かべてしまったのは、運命に抗えない無力さを覚えたからだろうか。
フードを外して真正面から対峙する。端正な顔は少年とも少女とも判別できず、その白磁の肌を貴族が見れば鏡にため息をつくだろう。
その大粒の黒曜石が悲しみの色になってしまうのかと思うと、ついそれを後回しにするのも仕方ないことだ。
「俺はホーカー。散歩屋のホーカーだ。残念ながら今は、パンの口だ」
名乗ったのはハットにつられたわけではなく、自分を打ち滅ぼす者の名くらい知っておきたいはずだ、と思ったわけでもない。
人のことが大好きで、嫌いでもある。自分が人間に対して持つものと同じ。
平和をこよなく愛し、平和に生きる人も愛する。そして平和を少しでも壊す人間をひどく憎んで、取り除きたいという衝動が垣間見える。自分たちの存在を否定するもの。
ホーカーも鳥の言葉を知る者だ。そして鳥の言葉を知る者は必ず呪われた眼を持つ。彼に見えるのは人の性質。
名を名乗り散歩屋であることを明かしたのは、その眼で見たものに強い親しみを覚えたからだ。
彼が誘われるまますぐに肉屋へと行かなかったのにも理由がある。
数日も店の前を通り過ぎるだけで終えていたはずがなく、ホーカーは肉屋のことを詳しく調べていた。
肉屋は昼食会を催して客を確保する。その奇妙なシステムを知っていたから、行くなら昼のほうが話を聞きやすいと考えたのである。
昼を待つ間にさらなる情報を求めると、何度も帽子屋の話を耳にした。
肉屋は元々肉ではなく、帽子を売っていた。動物の皮や布、ここでは珍しい藁を編んだ品々を並べる店は、まさに藁の家のようにあっさりと倒れたらしい。
彼らが帽子にどれほどの思い入れを抱いていたのか。それは自分たちの子の名にするほどのものだった。
今は栄えている肉屋。その二階は集団で食事するためにほとんどの空間を使っており、肉屋の三人とホーカーだけでは閑散として見える。
料理が並び終えるまでにホーカーは店主たちを観察した。
店主は正義感に満ち、頑固で慈悲深い。とてもじゃないが、奴隷商人と繋がりそうにない性格だ。妻のほうも曲がったことは嫌いで、面倒見のいい清々しい性格。
情報が間違っていることもある。ホーカーはそう期待せずにはいられない。
だが食後の一言で、あながち間違いでもないと察する。
「さすが、帽子屋の肉! この町一番の味だぜ!」
俺はお前たちのことを知っている。と言う程度のカマかけ。
帳簿を覘かれて気にしない商人はいないが、店主の動揺はもう少し大きいものだった。
不健康とは無縁そうな顔が紙のように白くなり、やはり自分の眼は役に立たないなと思う。彼はやりたいことだけを行う人間が少ないことを知っている。
もしその眼を完全に信用していたら落胆しただろうが、ホーカーはやっぱりかと思うだけだった。
店を訪れたのは単に話をしに来ただけではなく、どちらかと言えば釘を刺しておきたかったからだ。
任務のために冷徹で無慈悲でいられるほど、彼は完璧ではない。
店を後にしたホーカーは後味の悪さを感じつつ、あれだけ衝撃を受けたなら手を引くだろうと楽観的に考えた。
それが大きな誤算だとその場で気がつけば、後に大きく落胆せずに済んだだろうか。




