1-1. 定時後の職場の二人
更衣室に通じるドアが開き、閉まり、足音がこちらへ近づいてくる。今日、定時を過ぎ、他の職員もいなくなり、手持無沙汰になってから久しいが、それを隠そうと、殊更、パソコンの画面と手元の書類に目をやった。我ながらわざとらしいのではないかとも思えるが、重要な機会を逃さないためには仕方がないし、それに、今の私の立場、つまりは次長という役職になれば、何をやってもわざとらしさからは逃れられないものだろう。
顔を書類に向けながら、ずっと聞き耳を立てた。もっとも、他に誰もいない事務室ではそんなことをするまでもなく、一挙手一投足が音になって伝わってくるのだが。更衣室の廊下からこちらの方へ向かってきた歩みは、私の席の前にある事務机の島の向こう側を通り過ぎたあたりで一度止まり、もったいつけるように静寂がしばらく続いた後、再び当人の席へと向けて、遠ざかっていった。
デスクの引き出しが、一つ一つ、時間をかけて、順番に、ゆっくりと開け閉めされる。その音の起伏で、机の縁にかけられたしなやかな指の形や、動作の隅々まで思い浮かべることができる。表情のほとんどない、しかし冷たさよりも穏やかさを感じる顔も。
またしばらくの静寂、あるいは沈黙の後、緩やかな足音がこちらに向かってくる。私の集中力は、耳から、手元と目に移った。つまり、間近に迫っている言葉のやりとりに備えて、自分の所作を取り繕うために。
しかし、足音が間近で途絶えた時、向こうから声が発される前に、私は顔を上げてしまっていた。その瞬間、失敗したかとも思ったが、すぐに、別にそんなこともないだろうと思い直した。実際、目の前に立つ彼女は、全く予想通りの、穏やかで自然な表情と様子で、それに相対する私の方も、きっと同じように自然な収まりの中にいるだろうと、はっきりと感じられたのだから。
――すみません次長、そろそろ失礼します。
ほんのりと微笑みながら、彼女は言った。予想通りの言葉だ。声の調子や表情に、残念そうな感情がにじみ出たようなその言葉に、私も同じような感情を込めながら答える。ただし、あえて意識して、いくらかそれを強めながら。
――ああ、お疲れ様。ふう……でもこれで、本当にお別れか。寂しくなるなあ。
――すぐに慣れますよ。後任の方が埋めてくれるでしょうし。
――それでも、小夜さんほどの人がいなくなるのは惜しいよ。
――大丈夫じゃないですか? きっと私より優秀ですよ。今の若い子はすごいですから。
彼女は朗らかにそう言ったが、私はため息をつくのを抑えられなかった。思わず、と言うよりは、言葉以外の方法で、感情を伝えようとした結果だったし、おそらく、表情もそこに伴っていたのだろう。実際、言えるものならもっと直接的な言葉を使いたかったが、そうも行かないというのは分かりきっていた。正確に言えば、今更そんな言葉ではどうにもならないのだと。もっとも、内心では、私がそうではない可能性を信じていたことは、否定できなかった。
短めの髪と控えめな化粧――実のところ、化粧をしているはずだという認識抜きには、そう見えないほど自然な化粧――という外見にそのまま表れているように、彼女は屈託なく、しかしさりげなく微笑んでいた。暗い灰色のスラックスに白いカーディガンという服装は、職場の制服のタイトスカートとブラウスの組み合わせという見慣れた姿とは、だいぶ感じが違っていたが、それでも彼女の印象は、これまでの記憶とぴったりと重なっていた。何より、その内側にある、肌、体温、滑らかで柔らかい存在感が同じものなのだという確信によって、彼女はただ一つの変わらない存在としてそこにいた。今でも直に目にすることができる頬や唇が、その感触につながっていた。
行き場を失った視線を落ち着かせてから、いくらか思い切った気持ちで、私は言った。
――いや、前に小夜さんが離れた時も、大変だったから。あれはまだ、半年だったから良かったけどねえ。
――そのときの反省を生かして、ちゃんと引き継ぎはしましたから。今回は大丈夫ですよ。
――今度の満期の時には、無期転換できたと思うんだよ。みんなの声もあるし、採用の計画も変わってるから……
――ありがとうございます。私もそうできれば良かったんですけど……
何かまだ続く言葉が発されそうな様子ではあったが、彼女は口を閉じた。そこで留められた言葉が何だったのかはわからないが、あるいは別離を惜しむものだったのかもしれない。いや正直に言えば、私はそう確信していた。




