109.花の庭、緑の中、繰り返す時間
五月。
萌える草木のにおいと可憐な花の香りが、ぼくたちの鼻をくすぐる。
日の光が明るく空気の中できらめいて、刷毛で描いたような白い雲が高い空に輝いて見える。
中央駅から学校に向かう大通りの緩やかな坂道をさらに登っていくと、山際にちょっとお高い大型ホテルとやや寂れたショッピングモールが見えてくる。
その横から観光用のゴンドラリフトで山の中腹にある公園まで上がれるようになっていた。
そこには街を一望できる展望テラスと大きな植物園があった。
遠くに街と海を望む芝生の上に、ハンモックが設置されている。
ぼくたちはそれに体を預けて真っ青な空を仰いでいた。
春と夏の間の爽やかな乾いた風が吹き抜ける、心地よい連休の朝だった。
「人違いで消してしまうことはないの?」
「それはないわ。確実な場合にしかやらないから」
そんなことがあったりしたら、かなり困るけど。
気にはなっていたから聞いてみた。
「箱庭世界というのはやっぱり実感が湧かなくて、そうだとしたら外の世界の誰かが空の向こうからぼくらを覗いているのかな」
「手を振ってみれば?」
空に向かって手を振ってみる。
もちろんなにも起こらない。
「シカトされました」
「照れ屋さんなのよきっと」
この世界が箱庭だったとして、それがどうなのだろう。
どんな世界だったとしても、限界というか世界の果てがあるわけで、あらゆる世界が箱庭と言えるかもしれない。
限界のありなしというか、外部世界のありなしだろうか。
「ここって金魚鉢の中なの?」
「そうね」
「だとしても特に不満はないんだけど」
「わたしだって箱庭なのが嫌なんじゃないよ。ただ平和に穏やかに過ごしたいだけ」
ぼくもそう思う。
「この世界がどうだったとしても、わたしがなんだったとしても、納得というか満たされたものを感じることができるのならそれでいいの」
◇
遊歩道を歩きながら、色とりどりの花が咲く広い庭を抜けていく。
水色のネモフィラと青紫色のコーンフラワーが澄んだ青空と白い雲と共に目に映える。
今日の水菜月も白いブラウスに水色のジーンズだった。
「写真撮ろうか?」
いまさらなのだが、ぼくは水菜月の写真を一枚も持っていなかった。
とある女子生徒の額装肖像写真はあるというのに。
これまではそんな仲だとは考えていなかったので、撮るのを躊躇していたのだけど。
「いいよ」
笑顔で返事がくる。
花の庭の前でお互いの写真を撮っていると、公園のスタッフさんが声をかけてきて二人の写真を撮ってくれた。
もちろんそんなのは初めてだ。
二人並んで撮ってもらうのって結構恥ずかしい。
「スマホの壁紙にしない?」
水菜月がさらっと言ってくる。
いやそれも恥ずかしいのだけど。
「人に見られたら恥ずかしくない?」
「どうして?」
う〜ん。
同級生に見られたら?
いまさら隠すことでもないか。
ぼくが水菜月と仲良くしているのは、同級生の間でも少しずつ知られるようになっていた。
北山が大沢にふられて桂川に乗り換えた。
一部でそんな話になっているのは不本意な気がしないでもないが、でもきっとぼくが有希葉にふられたことにしておいた方が収まりがいいはずだ。
有希葉のファンは多い。
ぼくがふったとなったら気分を害するやつもいるかもしれない。
それよりも、こういうことは隠さず堂々としている方がいいとは思う。
そうしないと水菜月に失礼だし、有希葉も困惑するだろう。
スマホの壁紙設定を変更。水菜月は満足そうにしている。
ぼくは慣れるまで少し時間がかかりそう。
◇
レストランのテラス席の円いテーブルに並んで座る。
視界の両側には山の緑。
その彼方にはぼくたちの街並みと、その向こうにきらめく海が見える。
春の海らしく、水平線が曖昧にかすんで見える。
植物園で採れたハーブをふんだんに使ったランチメニュー。
鴨のローストと完熟トマトのパスタと魚介類のサラダ。
さらにデザート盛り合わせ。
お昼ごはんにしては盛りだくさん。
「いまわたしたちは何年生?」
水菜月が唐突に質問してくる。
「二年生」
「三月以前も二年生だったよね?」
何気なく答えたぼくは、水菜月の意外な指摘に思考が一瞬、停止する。
言われて初めて気づく。確かにそうだった。
四月になり新学期になったのに、進級していない。
三年生は卒業していないし、新入生も入学していない。
あまりにも不自然なことなのに、誰もなんの違和感も感じていない。
ぼくも含めて。
「…」
「気がつかなかったでしょ?ずっとそうなの。わたしたちはずっと高校二年生。わたしたちだけじゃない。誰も歳を取らないの」
歳を取らないということは、過去において子供だったことはなく、未来において大人になることもないということではないのか。
「そういう世界なの。ここは」
理屈ではおかしいはずなのに、それを当然のように受け入れていることが、誰もそれに疑問を感じていなかったことが驚きだった。
「永遠にこの歳を繰り返す?」
「うん。そうみたい。わたしが知る限りだけど、少なくともこれまではそうだった」
そういう世界。
そうでない世界もあるのか、それともこれが普通なのか。
ぼくたちには知りようがないのだけど。
「そうか…」
空は青く、雲は白い。
水はいつでも、高いところから低いところへ流れる。
太陽は毎日、東から昇り西に沈む。
月は毎月、満ち欠けを繰り返す。
ぼくたちは毎年、同じ年齢を繰り返す。
そういう世界。
あるがままを受け入れるだけ。
「それがぼくたちの住むところなのか」
右手には鴨肉となにかのハーブが刺さったフォーク。
「あなたとわたしがいるところ」
左手はテーブルの上で空気を掴む。
「きっとこれからもずっと」
◇
公園から麓の駅までハイキングコースが整備されている。
ゴンドラリフトに乗らず、徒歩で帰ることにする。
公園の赤いゲートを抜けると、手入れが行き届いた散策路。
幾筋もの木漏れ日が揺れながら差し込む。
木々の間を二人、並んで歩く。
「手を繋いでいい?」
「いいですよ」
「なんで敬語なの」
彼女の少しひんやりとした指先が、ぼくの手のひらに触れる。
それを軽く握り返した。
緑の中の石段を降りていくと、森の奥から水の音が聞こえてくる。
やがて視界が開けて、大きな岩肌とそこを流れ落ちる大きな滝が見えてくる。
その下にある円いプールのような滝壺が、青く澄んだ水をたたえていた。
汗ばんだ首筋に水面を抜ける風が気持ちいい。
すぐそばに見学用の広場があってベンチが並んでいる。
腰をかけて、涼しい風に吹かれてながら水の音を聞く。
どこからか野鳥の声も聞こえてくる。
静かで穏やかな時間。
これも毎年繰り返せばいいのに。
だけどそんな、心地よい時だけが続くことはなかった。
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