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どんな行事においても必ず問題というものは付きまとうものだ。
厄介なことにこの手の問題は一つ解決すると、必ず別の問題が浮き上がる。計画性のない行き当たりばったりといえばそれまでだけど、その不満が全て実行委員の私の方へ向けられるのは少々憂鬱だ。もちろん、立候補した以上はそれを受け入れるし、責任を押し付けられても構わない。しかし、お腹が減っただとか夏休みの補習のせいで練習出られないだとか準備のせいで恋人とデートできないだとか、どうでもいいような問題までわざわざ提言しないで欲しい。勝手にしてと流石に言い返しそうになった。
そして問題は問題でも特に厄介なものが、クラスを蝕んでいた。
――哀川さん、調子乗りすぎじゃない?
そう、人間関係。
殺伐としたクラスではないとはいえ、誰もがみんな仲良しということは決してない。それも夏休みを通しての学園祭となると、普段以上にクラスメイトを多面的に知ることになる。哀川さんは不思議と私以外にはその仮面を崩しておらず(私の知らないところでガンを付けていたりするのかもしれないが)、男女ともに高評価を受けていた。
しかしそれも夏休み前半までの話。八月に入り、部活組も積極的に参加し始めた時期にもなると、それに曇りが見え始めた。それもそのはずだ。
だって哀川さんは、一度たりとも練習に参加していないのだから。
仕事がない時、あるいはそれが始まるまでの間はきちんと学校に来て、教室の隅に椅子を引っ張り出して座っている。しかし台本は膝の上に乗せたまま。ただ窓の外を眺めたり、教室を観察したりしているだけ。時折携帯をいじったり、次の仕事のためと思われる別の台本を読んでいたりはするが、絶対にクラスに溶け込もうとはしない。
話しかけられれば愛想よく応えるが、練習しようと誘うと頑なに拒む。そんなことが何回もあってか、次第に彼女に対して不満感を抱く者が増え始めた。監督からも何とか言ってと何度も言われた。文句を言っていた人の大半が女の子だったから、ぼんやりと可愛いから嫉妬しているのかなあと感想を持った。遙に言ったらのんきだねーと呆れられた。ポジティブな彼女から見ても哀川さんの行動は目に余るものがあるらしい。
最近では花火大会のライブのためか彼女が来る回数もだんだん減っていた。そのためか、彼女がいるだけでクラス全体がどこかピリピリするようになってしまった。
そして、今もまたその張り詰めた空気と化していた。
当の本人はゆったりと脚を組み、何かを憂れいるように寄せた机に腕をつき、窓の外を眺めていた。その様子はさながらに深窓の令嬢。大変に絵になっていたがその悠然とした姿がまた一部の生徒の神経を逆撫でる。
そんな教室の中、大道具は舞台装置を組み立てていた。その色は真っ白。一度は原案に従って塗られた絵ではあったが、すぐに満場一致で却下された。あの絵――彩葉くんの絵から、どうしても離れてしまうのだ。
誰も納得せず、だから白で塗りつぶす。そしてそのまま放置され、数日が立っていた。
そして、今大道具が行っているのは、舞台装置とは別の小道具。その組み立て作業がうまくいかないご様子。係りが悪戦苦店していると。
――――――すればいいのよ。
哀川さんが不意に声をかけた。
その助言にしばらくの間大道具は沈黙。そしてしばらくの思考の後、得心したようで大げさまでに哀川さんに感謝してから、作業に戻った。
大道具にも精通しているのかと思わず感心する。アイドルをやっていると舞台裏を見ることも多くなるのだろうか。
私のように単純に賞賛する人間がいる一方で、それが引き金になる者もいた。
哀川さん、私たちを馬鹿にしてるのっ?!
それは役者グループの一人……山本さんだ。役はお姫様の従者の一人だったか。そのヒステリックな叫びにクラスメイト達の視線が集まる。そして山本さんの怒りの対象となった哀川さんは腕を組み、なんてことのないように受け止める。
私が馬鹿にしてるですって?
その言葉こそ小馬鹿にしている調子を含んでいた。彼女の顔はこの場に似つかわしくないまでの笑顔だった。
そうよ! 山本さんが噛み付く。主役なのに一度も参加しないでッ! 可愛いからって調子乗りすぎなんじゃないのッ?! 推薦で選ばれたら何してもいいの?! みんなの分の責任を背負ってんのよ?! あんたはッ!
哀川さんは一瞬目を細め、その仮面からわずかな毒を滲ませる。
調子に乗っているのはあなたでしょ?
どういうことよ、と山本さんが動揺する。
二十一ページ。ト書き。四行目。
え?
言えないの?
哀川さんは微笑みながら挑みかける。それは姫が王子と初めて出会う場面。王子が右そでから現れる、だったはずだ。哀川さんはそのト書きの次の従者のセリフを言った。不審な何奴どこから現れた姫様後ろに下がってください。それで山本さんは、はっとした表情になり、気まずそうに目を逸らし、唇を噛み締める。
まだ自分のセリフも覚えてないのね。呆れたように溜息をつく。
今日はもう行くわ。哀川さんは立ち上がり、教室を去ろうとする。
に、逃げるの?
人に文句言う暇あったらセリフ覚えたら?
彼女は冷たく言い放つ。
哀川さんさすがに言いすぎですよ。
割って入ったのはクラス委員長。彼女の真面目な気質が見過ごせなかったのだろう。
善人ぶるのは楽しい?
え? とその言葉にクラス委員は怯む。
いい人でいたって、いいものは生み出せないわよ。
それよりも、大切なものはあります。
哀川さんの言葉に言い切ったクラス委員。その答えに哀川さんは興味を失ったように、そう、と言葉を漏らし、立ちふさがるクラス委員を押しのけ出て行ってしまった。
一瞬だけ、こちらに視線を残して。
その目。確かな敵意。
クラスメイトの誰にも向けられなかった、感情が発露したもの。
どうして私だけ。という疑問と、彼女をこのまま行かせてはいけないという強迫観念から私は椅子を蹴った。有姫? と驚いた遙の姿を目の端に捉えつつ、追いかける。といっても教室から出て数メートルのところに哀川さんはいた。
哀川さん。止まってくれないかと思ったけれど、彼女は足を止め、視線だけこちらに向けた。口元がなに、と私に止める動機を求める。
呼び止めたはいいけど何を言っていいか分からない。どうしてあんなこと言ったの。練習しようよ。実行委員として言うべきことはたくさんある。でもそのどれもが喉まで出かかって、そのまま消えてしまう。これじゃない。彼女への言葉はこんな言葉じゃ駄目だ。なぜかそう思ってしまうのだ。
あんたはあれはあれでいいの? 言い淀んでいると向こうからアプローチをかけてきた。オブラートに包みきれていないトゲトゲしした言葉。
あんたは本気じゃないの?
みんな本気だよ。咄嗟に言い返す。
あんたは、って聞いたつもりなんだけど。
私は……。
まああんな自己満足な話書いてるんだからお遊び当然か。
………………。
彼女は分かっていたんだ。あのお話が単なる自己陶酔でしかないことを。……そうか。
彼女は誰よりも私を見ているんだ。
見えているからこそ、こんなにも私を嫌っているのだ。
哀川さんは、本気なの?
私はそんな分かりきったことを聞いた。このまま立ち去られるのが嫌だったのだ。彼女が本気じゃないわけがない。
――葵祭なんて、くだらない。
嘘だ。だから私は、はっきりと目を見て言う。
なら、哀川さんは、どうして毎日学校に来ているの?
葵祭が好きからじゃないの。
その声はきっと小さかっただろう。かすれた声だっただろう。どもっていただろう。それでも私は言わずにはいられなかった。
自分でも驚くほどに――怒っていた。
哀川さんは私の言葉が癇に障ったのか、振り返りこちらにつかつかと近寄る。
くだらないのよ。
吐き捨てるように、彼女は言った。
ああ。どこまでも彼女は一生懸命なのだ。一生懸命だからこそ、一人で空回りする。
なんて不器用なのだろう。本当に、あのお姫さまにぴったりだ。
あのお姫様はいったい誰がモデルだったか。なんとも皮肉な話だ。作者が誰よりも登場人物のことを分かっていないのだ、これ以上におかしな話はない。
あんたなんかに、分かるわけないじゃない!
哀川さんは取り乱す。
そう、分からない。何一つ分かっちゃいないのだ。
ねえいつまでもヘッドホンつけてふざけてるの?!
クラスではあれだけのポーカーフェイスを保っていた彼女が、いとも簡単にその沸点に達する。私の首 元のヘッドホンを掴み上げる。抵抗するよりも前に引きずられてコードがポケットからこぼれ落ちる。
彼女の表情が固まった。
その視線はヘッドホンへ向けられ、しばらくの口を閉じる。そして能面のような無表情で私を見据える。
あんた。
彼女は何か察したようだった。
分からない。分かるはず、ないよ。
だって私は、知ろうともしていないんだから。
自分の口から洩れたのは、そんな言葉。
すると、そう、と哀川さんは息を漏らしながら言い。
同情なんかしないわよ。
その一言に彼女が分かってしまったことを悟った。私の隠し続けてきた秘密を。あるいは罪を。
人に知られないように隠した秘密は罪と大差ない。どちらも罪悪感があるし、何より嘘をついている。 いい嘘悪い嘘について考えてみたところで、私の気分が晴れない以上、それは罪でしかないのだろう。
いや、私の場合、罪そのものか。
それも、怠慢で傲慢な代物。
そのことを知ったというのなら、彼女はどうするのだろうか。罪を裁くのだろうか。みんなに言いふらすのだろうか。こいつは嘘つきです、と後ろ指を指すのだろうか。
そんなことをする価値も私にはないと思うのだけど。
どこかの誰かと違って、期待も幻滅もされたことのない私は、そう思ってしまう。
同情なんかしない。だから、
哀川さんは続けた。
あたしはあんたを対等に見てあげる。
私を、見てくれる。
それは決してプラスの言葉ではないだろう。むしろマイナスだ。
でも私にとってはこれ以上になく特別なことだった。
じゃあね、有姫。
その真意を聞くよりも前に彼女は立ち去ってしまう。私はその背中を追いかけることができなかった。追いかけることが、どうでもよくなるくらいに放心してしまったのだ。
私の、名前……?
果たしてそれはどういう意味だったのか。
恋歌、ちゃん。
妙な気恥ずかしさと、それ以上に彼女に対する反発がせめぎ合い、唇を噛む。
私はポケットの中でヘッドホンのコードを強く握りしめた。
彼女には、負けたくない。
なぜか、そんな想いが私の胸の中で生まれた。




