17.頭突きだ
「ぅあ暑うぅーーーっ……」
またしてもキッチンの床に手足を投げ出しながら、日牧は呻いていた。今日は母は仕事なので1人だ。とは言え1人でも暑いものは暑い。
昨日は久しぶりに木崎の家を訪れた。部屋でひたすら抱き合ってはぶっちゅぶっちゅと飽きもせず、キスばかりして見つめ合っていただけの2人。何だか段々と気持ちが良くなってきている気がするのがヤバい。木崎も日牧と同じくらい蕩けた顔をしていたし。このままどんどん2人とも気持ち良くなっていっちゃったらもう、このあと一体オレたちは何をどうしたらいいんだろう。
まあ先の問題にはとりあえず目をつむって先の自分に丸投げするとして、しかし日牧は今この瞬間の問題もまた別に抱えていた。今日は土曜日なのだ。
「木崎の試合、もう終わったかなあ」
天井の人の顔にだけ聞こえるように、日牧は呟いた。応援して欲しいと木崎は言っていた。そうしたら頑張れると。だけどなあ、怖いんだよなあ。情けないなあオレは。
熱帯のようなキッチンで何時間無駄な汗を垂れ流していたのだろう。気がつくと時計はとっくに正午を回っていた。
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もう試合は終わっているかもしれない。そんな時間にようやく日牧はのろのろと、市民体育館へと向かった。下を向いたまま入口に足を運ぶ。見に行ったけど、覗いたけど、終わっちゃってたゴメンね、と週明けに言い訳できればベストなのだけれど。
ところが、開きっぱなしの扉の縁に日牧がこっそり手をかけるや否や、奥からは大きな歓声と何かを叩きつける音が響いてきた。木崎家の道場からよく漏れ聞こえていたのと同じだ。
白い着物?を着た男が広い畳に倒れ、上には別の男がちょうど膝を押しつけるように上乗りになっているところであった。咄嗟に目を閉じる日牧。あの乾いたようなバンバンという音は、人が畳に倒される音だったのか。そうじゃないかとは思っていたけれど。
ああ、やっぱり無理だ。早々に退散すべく、日牧はそのままクルリと後ろを向く。
「あれ、応援に来てくれたんじゃないんですか?」
しかし穏やかでやさしい見知らぬ声が、突然日牧を引き留めた。畳の上の男たちと同じ白い着物の男が、入口横の壁にもたれて微笑んでいる。着物ではなく、いわゆるこれは柔道着というヤツだろうか。
「見て行きませんか?」
ニッコリとその男は目を細めた。この人も柔道をするのだろうか。とても誰かと争うようなタイプには見えないけれど。それにかなりのイケメンだ。スラリとした細身とサラサラの茶髪にうっかり目を取られてしまう。
「……、あ、えと、ちょっと、やっぱり僕……」
日牧は男の顔から目を逸らせないまま、しどろもどろに答えた。もしここに清楚系女子たちがいたならば、すぐさま狙い打ちにされそうな容姿だ。
「怖いですか?」
男は上半身を曲げ日牧の顔を覗き込み、首を傾げた。うわ、ビビっているのが丸分かりだったのだろうか。恥ずかしい。
「いや、あ、いえ……」
赤くなって日牧は俯いた。そうこうするうちに畳の上では、また別の男たちが取っ組み合いを始めている。周囲には大きな声援が飛び交い、皆楽しそうに笑いながら観戦しているように見える。日牧はまた目を閉じた。
「少しだけ、いっしょに見ませんか? ここからなら距離もあるし、危険はありません。もしも怖ければそうして目を閉じて、耳も塞いでしまえばいい。よろしければ、僕の後ろに隠れてもらっても」
イケメンは日牧に手を差し出した。何だろうこれ、ナンパじゃないよな? いやこちとらナンパされるような顔でもなければ普通に男だし、でも何だか距離が近いというか、馴れ馴れしいというか。
「いいですよ、ほら」
腕を上げ、男は自分の後ろへ日牧を誘導するような素振りを見せた。何故それに従ってしまったのかは分からない。フラフラとイケメンの背後に吸い込まれてしまった自分に驚く。
これって浮気になったりする? いやいや別にほら、やましいことは何も……
「……ひっ」
しかし日牧は畳を打ちつける一際大きな音に肩をすくめ、思わず男の柔道着を握ってしまった。そしてその背中の影に顔を隠す。歓声と拍手が体育館を包んでいた。勝敗がついたっぽいが、どちらが勝ってどちらが負けようが、ものすごくどうでもいい。
「一本勝ちです。きれいに技が決まるとスッキリしますよね。戦っているというよりも、どこか美しい作法のように見えませんか?」
背中の日牧にイケメンスマイルを放ってくる男。作法って、お茶とかお花とかそういうヤツか? そんな優雅なものだとはとても思えないけれど。
「……あ、……じ、柔道って、結構にぎやかなんですね」
精一杯の感想を日牧は述べた。だが彼はおかしそうにカラカラと笑う。
「公式戦や昇段試験はもっと静かですよ。今日は道場同士の親交を深めるためのイベントなので、あえて声かけもおこなっているんです。声援でも野次でも何でも構わないので、良かったら何か叫んでみませんか? ストレス発散にオススメです」
「……や、いえ……」
つい苦笑いをしながら日牧は首を振った。さらに次の男たちが戦い始めたところへ、よくよく聞けば「やっちまえー!」だの「そこだ投げ飛ばせー! 」だの物騒な声があちこちから響いている。ヤンキー共の喧嘩かこれは。どう見てもどう聞いても怖い。
すると日牧に背を向けて男も叫んだ。
「足払えー! 何やってんだ取れたぞーっ!!」
そして目を丸くしている日牧を振り返って面白そうに笑う。
「外野から無責任に大声を出すのはスッキリします」
「……アハハ」
気づけば日牧も笑っていた。彼の柔道着を離さぬままではあるものの、背中から片目だけを覗かせて、畳のほうへ目を向けることもできてしまっている。守られているという安心感のおかげだろうか。
「……あ、見て。次の試合はきっと面白いですよ」
「あっ!!」
イケメンの長い指が差す先には、柔道着姿の木崎が立っていた。片目で確認してつい声をあげてしまう日牧。
一礼をし、木崎はこちらには当然気づくはずもなく畳の上を両足で弾み始めた。何だろうあれは。猫の、やんのかステップ的な?
とは言え相手は木崎よりも1回りほど小さな男だ。あんなの楽勝で捻り潰せるだろう、木崎なら。余裕だきっと。
ところが知らず知らず、日牧は男の柔道着を雑巾を絞るように両手で握り締めてしまっていた。関係無いのにじっとりと手に汗をかいている。
「よく見ろ! 手首固いぞ力抜けーっ!!」
男はまた叫んだ。そして日牧にも「ほら」、とニコニコ促してくる。いや、そんなこと言われても。
畳近くの観戦者たちは、「足止めんなー!」「軸ブレてんぞー!」などと各々声をあげているが、今どういう戦況で何をしているのか、日牧にはまったく読み取れないのだ。
「ああ、良くないな……」
呟く彼の声に日牧の胸はざわめいた。技がどうとか技術がどうとか専門的なことが日牧に理解できようはずも無い。しかしなんとなく、素人目にも押されているのは木崎のほうな気がする。顔がしかめられ、苦しそうにも見える。
え、いや負けないよな? おまえのほうが大きいんだぞ? おまえなんて3年のクソみたいなリンチにも黙って耐えることができるほど、強靭で誇りがあって、誰よりも気高くて……
「気持ちで負けてんじゃねーぞー!!」
すぐそばで男が叫ぶのを、日牧は夢の中、もしくは水の中で聞いているようなぼんやりとした響きとして捉えていた。何人もの声が重なって固まって、何か大きなものでどんよりと耳に栓をされているような。
目を閉じて耳を塞げばいいと彼は言った。だが日牧は今、閉じたくも塞ぎたくもなくなってしまっていた。
「そこで頭突きだ木崎いーーーっ!!」
真っ白な柔道着から両目を、頭を丸ごと乗り出して、日牧は怒鳴り声をあげた。
組み合いながらも吹き出すように、木崎が笑ったのが分かった。
そのあとはよく見えなかったが、人間が1回転宙をグルンと回ったような気がする。そんなわけないよな? そこには大きな畳の音と共に、木崎の対戦相手が仰向けに倒れていた。
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