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がけっぷち新人SE、資産形成を始めたら人生が変わり始めた件  作者: しばたろう


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01未来へ踏み出した夜

 六月の終わり。

 佐藤蓮は、給与明細を三回見直した。


 手取り、十九万二千円。


 ――少ない。


 先月までは、二十一万はあったはずだ。

 額面は二十五万。社会保険料と所得税で三万ほど引かれるのは、入社してからずっと同じだった。そこにはもう慣れている。


 だが今月は、さらに二万近く減っていた。


 明細をよく見る。


 そこに見慣れない項目があった。


 ――住民税 一万八千円。


 入社二年目の六月。

 去年一年間の所得に対する住民税が、今月から徴収され始めたのだ。


 仕組みとしては、説明を受けた記憶がある。

 だが、こうして現実の数字として突きつけられると、まるで別物だった。


「…………」


 蓮はスマホを伏せ、天井を見上げた。


 六畳一間。

 家賃六万五千円。

 築二十年のワンルーム。エアコンは一台。収納は申し訳程度のクローゼットひとつ。


 それでも、不動産屋にはこう言われた。


 ――都内にしては、かなり安いですよ。


 その言葉を思い出しながら、蓮は計算する。


 家賃を引く。

 残りは、十二万七千円。


 そこから食費、光熱費、スマホ代、交通費。


 頭の中で数字を並べる。

 途中で、指が止まった。


「……ほぼ、残らないじゃないか」


 誰に言うでもなく、呟いた。


 貯金は、ほとんどない。

 ボーナスも、気づけば消えている。


 何に使ったのか、よくわからない。


 ただ、生きているだけで、金が消えていく。


 そんな感覚だけが残っていた。


 株式会社トライコード。

 社員二十三名。東京・神田にある、小さなシステム開発会社。


 蓮が就職したのは去年の春。大学を卒業してすぐのことだ。


 職種はSE。

 だが、実態はシンプルだった。


 大手SIerが仕事を受け、二次請けに流れ、さらにその先。

 トライコードは、その三次請け――いわゆる孫請けにあたる。


 蓮の仕事は、仕様書通りにコードを書くか、誰かが書いたコードをテストするか。そのどちらかだ。


 創造性は、ほとんどいらない。

 考えることも、ほとんどない。


 ただ、言われた通りにやる。


 それが、この会社での「SE」だった。


「佐藤くん、このテスト仕様書、昨日のやつと差し替えておいて」


 隣の席から声が飛ぶ。


 三上咲。二十五歳。先輩社員。


 髪をゆるく後ろで束ね、モニターを二枚並べて作業している。

 仕事が速く、後輩の面倒見もいい。


 昼は手作り弁当。

 無駄がなく、きちんとした人だと、一目でわかる。


「あ、はい。わかりました」


 蓮は背筋を伸ばして答えた。


 咲のことが、好きだった。

 ただそれだけのことを、蓮はまだ誰にも言えていない。言える気もしなかった。


 自分には何もない。

 貯金もない。

 スキルもない。

 話すネタもない。


 そんな男が先輩に好意を伝えるなど、蓮には想像すらできなかった。



 その日は、トラブルが起きた。


 販売管理システムにおける、請求金額の誤り。


 金が絡むトラブルは、重い。


 蓮は急遽、客先に駆り出され、リカバリ対応に入った。


 現場では、大手SIerのブロックリーダー、山下が指揮をとる。


 金額修正。

 データベース更新。

 請求書の再発行。

 外部システムへの再送信。


 やることは山ほどあった。


 徹夜だった。


 解放されたのは、翌日の夕方。


 ほとんどのメンバーが帰った後、最後に残ったのは、蓮と山下だけだった。


 疲れているはずなのに、妙に頭が冴えている。


 帰り際、山下が声をかけてきた。


「佐藤さん。最後までありがとう。助かったよ」


「いえ……お役に立てたなら」


「このあと、どう? 飯でも。奢るよ」


 居酒屋。


 座敷で向かい合い、グラスを合わせる。


 最初は当たり障りのない話だった。


 だがやがて、話題は“これから”へと移る。


「実はね、俺、もうすぐ会社辞めるんだ」


「え?」


 思わず声が出た。


 山下は五十代前半。現場の中心にいるベテランだ。


「早期退職制度があってね。応募した」


 上司には止められた。だが、家族と相談して決めたという。


 それだけでも驚きだったが、さらに驚くべきことがあった。


「再就職はしない。このまま引退するよ」


「……引退、ですか?」


「いわゆるアーリーリタイアだね」


 蓮は言葉を失った。


 まだ五十代前半。

 家のローンも残っており、

 下の子はこれから大学生。しかも理系で下宿予定とのこと。


 どう考えても、金がかかる状況だ。


「この先やっていける見通しは立ってるよ」


 山下は、淡々とした口調でそう言った。


 気負いも、誇張もない。


 だが、その一言には確かな余裕があった。


 蓮には――どこか現実味のない話に思えた。


「……すごいですね」


 蓮は正直に言った。


「おれなんて、ほんと、お金なくて」


 ぽつりと、こぼれた。


 山下は、わずかに目を細める。


「若いころは、みんなそんなもんだよ。俺もそうだった」


「……そうなんですか?」


 意外だった。


 今、目の前にいるこの人は、どう見ても“余裕のある側”の人間だ。


 そんな人にも、そんな時代があったのか。


「俺の若いころはね、“就職氷河期”って呼ばれてた時代でさ。不景気で、まともな会社に入るのも大変だった」


 山下は、どこか懐かしむように笑う。


「最初に入ったのは、佐藤さんと同じようなもんだよ。三次請けのシステム会社。給料も安いし、仕事もきつい」


「……」


 思わず、言葉を失った。


 今の自分と、同じだ。


「そこからですよね……?」


 気づけば、自然と口をついて出ていた。


「どうやって、今みたいな状態まで来たんですか?」


 知りたかった。


 できることなら、この生活から抜け出したい。


 毎月ギリギリの暮らしから。


 何も積み上がらない感覚から。


 もっと稼ぎたい。

 スキルもつけたい。


 できれば、

 ――彼女も欲しいし、結婚もしたい。


 ふと、三上咲の顔が浮かぶ。


 笑った顔。

 弁当を広げる横顔。


 だが――


 今の自分では、隣に立てる気がしない。


 そもそも、未来のイメージができないのだ。


 どうすればいいのか、わからない。


「知りたい?」


 山下が、静かにこちらを見る。


 試すような視線だった。


「ぜひ!」


 気づけば、身を乗り出していた。



「いいだろう。今日のお礼だ。少し話そう。参考になるかは分からないけどね」


 山下はビールをぐっと飲み干し、静かに口を開いた。


「でもね――急には、何も手に入らない」


 その一言は、やけに重く響いた。


「何事も、ゆっくりなんだ。焦っちゃいけない。焦って一気に手に入れようとすると、だいたい失敗する」


 そこで、言葉を切る。


 山下の目が、少し遠くを見るように細められた。


「……そうやって失敗するやつを、何人も見てきたよ」


 実感のこもった声だった。


 軽い忠告ではない。経験から滲み出た言葉だと、すぐに分かった。


「そのうえで、佐藤さんがまず自覚しないといけないのは――君は今、すでに“二つの宝物”を持っているってことだ」


「宝物……?」


 思わず聞き返す。


 そんなもの、持っている覚えはない。


 訝しむように顔を向けると、山下は小さくうなずいた。


「ひとつは、“サラリーマンという立場”だよ」


「……え?」


 予想外だった。


「今の会社に不満はあるだろう。給料も高くはないし、仕事だって楽じゃないだろう」


 山下は淡々と続ける。


「でもね。それでも、毎月、必ず給料が入る。これは大きい」


「……」


 言われてみれば、そうだ。


 どんなに嫌でも、働いてさえいれば金は入る。


 当たり前だと思っていた。


「それに、社会的な信用もある。ローンも組めるし、保険でも優遇される。サラリーマンっていうのは、思っている以上に“守られている立場”なんだよ」


「……そんなもんですかね」


 正直、ピンとこなかった。


「今は実感なくていい。でもね、その“安定”こそが、これからの武器になる」


 山下は、少しだけ前に身を乗り出した。


「例えば、何かやりたいことがあるとする。副業でも、起業でもいい。いきなり会社を辞める必要はない。土日で試せばいい」


「……ああ」


「失敗してもいいんだ。生活費は給料で賄える。だから、何度でも挑戦できる」


 その言葉に、少しだけ視界が開けた気がした。


「なるほど……」


 確かに、それなら怖くない。


「そして、もうひとつの宝物」


 山下は続ける。


「それは、“若さ”だ」


「若さ……?」


「そう。二十代っていうのは、それだけで価値がある」


 山下は、はっきりと言い切った。


「正直に言うよ。若いうちは、何もできなくても許される。むしろ、周りが勝手に教えてくれる。面倒も見てくれる」


 思い当たる節があった。


 咲や、他の先輩たちの顔が浮かぶ。


 確かに、自分は助けられてばかりだ。


「でもな、三十を過ぎたらそうはいかない。“できて当たり前”になる。誰も丁寧に教えてはくれない」


「……」


「だから、二十代は“甘えられる最後の時間”なんだよ」


 その言葉は、胸に刺さった。


「若さは、時間と同じだ。使えば減る。でも、使い方次第で、大きく差がつく」


 静かに、だが確実に響く言葉だった。


「サラリーマンという安定と、若さ。この二つを持っていない人は、世の中にいくらでもいる」


「……」


「そういう人たちが何かを始めようとすると、もっと厳しい状況からのスタートになる」


 山下は、まっすぐに蓮を見た。


「だからまず、自分が“恵まれている側にいる”ってことを、ちゃんと自覚することだ」


「……」


 言葉が出なかった。


 今まで一度も、そんなふうに考えたことはなかったからだ。


「そのうえで、その宝をどう使うかを考える」


 山下はグラスを手に取り、軽く揺らした。


「それが、資産を作るってことの第一歩だ」


 しばらく、沈黙が流れた。


 そして蓮は、小さく息を吐いた。


「……それが宝物だなんて、考えたこともなかったです」


 それは、正直な言葉だった。


 だが同時に――



 ――だが、まだぼんやりしている。


 時間がかかることは分かった。

 自分が思いもしなかった“宝物”を持っていることも理解した。


 でも――


 今、一番知りたいのは、もっと具体的なやり方だ。


 何をすればいいのか。

 どこから始めればいいのか。


 その答えが、欲しかった。


 そんな顔をしていたのだろう。


 山下が、少しだけ口元を緩めた。


「まあ、あんまり抽象的な話ばかりでも退屈だろうから――ひとつ、すぐに実践できる方法を教えようか」


「待ってました!」


 漣は、思わず身を乗り出した。

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