これから
何かに突き動かされるまま足を動かし、森の中を駆けて行く。景色は流れているはずなのに姿を変えていない。それは木々の違いを見分けられないからなのに、あの場所から一歩も進んでいないような錯覚を抱いてしまって、走ることを止められずにいた。
〈……そろそろいいんじゃねぇの? このままだと国境にぶち当たっちまう〉
ヴィーノの声に我に返り、歩く速度へと少しずつ変えていく。せせらぎが聞こえるようになった時には既に目の前がいくらか開けていた。
〈随分と走ったな。あと数十キリム進んでたら関所に駆け込んでただろうぜ〉
「……キリムって何?」
〈耒のとこで言うキロメートルだと思っとけ〉
ぞんざいな言葉にそれでいいのかと思いつつ、開けた箇所に目をやる。踏み均された獣道が奥へと続いているが、それがどこに繋がっているのかは木々に隠れて見えない。彼の言葉通りならこの先に関所があるのだろう。その向こうに何があるのかは分からないが、そんなことはさしたる問題にはならない。そう思いながら、近くに生えていた根に座り、太い幹に体を預けた。
〈随分とのんきだなぁ、おい〉
「急いだって意味ないもの」
〈さっきまでビビってた奴の言葉とは思えねぇな〉
ヴィーノはくつくつと笑い出す。嫌な笑みに眉をひそめたが、口を開くことはしなかった。
〈まぁ、それぐらいがちょうどいいんだけどよ。んで? これからどうする?〉
興味なんて欠片も抱いていない問いかけに私は無言を返した。もう後戻りはできないのだということ以外が不鮮明なこの状況で、選ぶことすら億劫だ。
〈このまま西の国境を強行突破するか、東にある街に入るか、南の国境を越えるか、この森で過ごすか。選り取り見取りってな〉
だというのにヴィーノはつらつらと選択肢を並べていくから、結局は選ぶしかなくなるのだけれど。
〈ほら、早くしないと夜になっちまうぞ〉
「……おすすめは?」
〈森に留まることだな。あの黒ずくめが誰に雇われたか分からない以上、どこかの国に腰を落ち着けるよりは、追っ手が来ないことを確認する方が有意義だ。国境越えは面倒くせぇし〉
「ならそれで」
〈投げやりすぎねぇか?〉
「考えたくないの」
ぶっきらぼうに言葉を吐き出せば、喉から搾り出したような、押し殺した笑い声が脳内に響く。癪だが聞き慣れてしまったその音に、私は静かに目を閉じて膝に顔を預けた。暗闇の中で銀色がちらりと光っている。
〈随分と疲れてるみてぇだな〉
「当たり前でしょう」
〈体は疲弊していないのに?〉
嘲るような声に私は顔をしかめる。彼の言う通り、あれだけ動き回ったのに息切れ一つしていないのだ。精神的な疲労は感じていても肉体的な疲労は存在しない。また一つ、人としての何かを失った感覚に吐き気がする。
〈順応性が高いとは思ってたけど、ここまでってのは流石の俺も予想外だ。中々の逸材だよ、お前〉
彼の言葉が響く度に、その輪郭がしっかりとした線になっていく。最初に注意を向けた時のような痛みはどこにもなくて、彼の存在が私の中に馴染んできているのだと何となく理解した。
〈その通り。俺の魂と耒の身体、本来なら異物同士な二つがここまで同調することはまず有り得ない。大抵はどちらか弱い方が強い方に吸収されて終いだ。にもかかわらず、お前は自我を保っている。さらにはその上で俺の魂の姿を視認しているときた。あぁ、力に関しては除くからな。あれは契約の結果であって、差はあれど誰でも一定の水準まで持っていける。まぁ、これに関しても他に類を見ないぐらいに早いペースで使いこなしてるけどさ〉
べらべらと喋り続けるヴィーノの表情は笑みを形作っているのに冷たい。それも嫌悪や侮蔑などといった負の感情によるものではなく、こちらの根源的恐怖を煽ろうとしているような、性質の悪いものだ。
「それで、何が言いたいの?」
奇妙な圧迫感に負けないように言葉を振り絞れば、彼の笑みが深くなる。魔物染みたその貌に、私は静かに体を震わせた。
〈聞いてて分かっただろうが、これは異例なんてもんじゃねぇんだぜ。あの軸にいるただの人間じゃあここまでいかない。あそこにいる奴らは元から霊的な潜在能力を持ってるから、どのみちこうなったかもしれんが、それにしたっておかしすぎる。俺たち悪魔の器となるように作られた存在と言われた方がまだ納得できるね〉
「つまり私は人間ではないと」
〈いんや、人間だ〉
矛盾した言葉に自然と顔がしかめられる。何を言いたいのかさっぱりだ。そう思っているのが伝わったのか、ヴィーノは続きを口にした。
〈つまりは異常なまでの潜在能力を持った、ただの人間だってこと。あの世界に十人いりゃいい方かな〉
「…………そう」
何と言っていいか分からないままにそう返せばヴィーノは黙り込んでしまった。稀有なものを見るみたいな視線が突き刺さるのが分かる。そんな態度を取られるのは初めてで、ひどく居心地が悪い。何かおかしなことでも言っただろうか。いや、言っていないはずだ。なのに胸に広がるのは理由のない罪悪感。どうしていいのか分からないまま黙っていると、ようやっとヴィーノが口を開いた。
〈…………驚かねぇの?〉
「……事実は変わらないのに、驚いてどうするの」
放たれた言葉に思ったまま返答すれば、またも沈黙が返される。だがそれは一瞬で、私の脳内は彼の大きな笑い声で埋められることとなった。
〈あっははははははははははは! 成る程、確かに耒の言う通りだ! 事実を受け止められるなら驚愕も不安も恐怖も余計なだけだもんなぁ! ははははははははははは!〉
壊れたように笑い続けるヴィーノを、笑う訳も分からぬまま眺めることしかできなくて、それすら嫌になったから何が彼の琴線に触れたか考えようとしたけれど思い付くはずもなく、結局は黙って笑い転げる彼を観察することになった。
しばらくして落ち着いたのか、はたまた笑い続けることができなくなったのか、ヴィーノは笑うのを止めた。苦しげな息遣いが静かな空間に響く。私は妙に達観した気分を抱きながら、蹲る彼を見ていた。
〈ぐっ、げほっ、がはっ、はー……。腹痛ぇ〉
「そう」
〈冷たすぎねぇ?〉
「笑う理由が分からないのに同意しろと?」
〈……それもそうか〉
ふぅ、と静かに吐き出された息が消えていく。銀と紫のコントラストに魅せられかけて、慌てて意識を逸らした。
〈まぁいいさ。そのうち分かるだろ。にしても打たれ強くなったもんだ〉
言葉の意味が分からずに整った顔を見つめていると、この話は終いだとばかりにヴィーノの手が振られた。
〈さっきの話だけど、ぶっちゃけて言えば可能性の一つにしかすぎねぇんだよ。てかあんな無作為な方法で六億分の一の当たり引くとか現実味なさすぎ。それだったらたまたま波長が合ったとか、環境による影響だとか、この世界に来た経緯だとかの方がまだ説得力あるね。ちなみに可能性高いのは最後のやつな。俺がお前を送るために使った魔方陣と、俺を強制的に喚び寄せた魔方陣が干渉し合った際、何らかのバグが生じてこうなったってのが一番説明しやすい〉
「なら最初からそう言えばいいのに」
〈それじゃつまらねぇだろ。煽ってこそなんぼだ〉
「…………性格悪い」
〈悪魔だからな〉
くつくつと笑うヴィーノを睨みつけるが、これといった反応は返ってこない。知っていたことだがそれでも心が苛立つ。波打つ気持ちを抑えるために深く息を吐けば、愉悦を孕んだ表情と目が合った。
〈でもよ〉
「……何?」
〈策に嵌った姿を見るのもいいけど、こうして予想外の返しが来るのも楽しいもんだぜ。相手が耐性ついてきた頃が特にな。あぁ、悪趣味だなんて言うなよ? そんなん自覚済みだ〉
「じゃあ捻くれ者」
〈はは、違いねぇ〉
彼は綺麗に笑いながらそう言った。どぎつい言葉を吐き散らかしているはずなのに、そんなことを感じさせない顔は卑怯だと思う。視線を逸らしていれば楽なのだろうが、それだと何だか負けたようで、私は正面からヴィーノを見据えた。切れ長の瞳が細められる。以前の、こちらに来る前の私ならそれだけで顔を赤くさせていたかもしれないが、今はもう何も感じなくなっている。騙されないという面では良いことなのだが、何だかそれが寂しかった。
しばしそうしていたが、これ以上見つめ合う必要はないと思い、私は目を開けた。長く目を閉じていたからか、光が刺さる。真っ青に染まる視界に眉をひそめ、周囲の明るさに慣らすために何度も瞬きを繰り返す。目を閉じる前までは薄暗く陰気な雰囲気を醸し出していた森が、まるで光溢れる癒しの空間のようで、違和感に頭を振った。
〈さぁて、どこに行く?〉
「どこだろうね」
ゆっくりと立ち上がり、強張った足を揉み解す。足首と膝を軽く回し、問題がないことを確認して、私は生い茂った木々の中に身を投じた。
* * *
何かのスイッチを押した時のように、唐突に意識が鮮明になる。目の前に広がる木の葉はとても高い位置にあり、隙間から青空が覗いている。上半身に伝わる固い幹の感触と、下半身に覚える土の感触から、己が木にもたれかかっていると分かるが、この体制に至る経緯が全くといっていいほど思い出せなかった。
俺は四肢がきちんと動くか確認し、ゆっくりと立ち上がった。ずっと同じ姿勢でいたせいか、体の節々が悲鳴を上げている。だがそれも再度関節を動かし、大きく伸びをすることで解消された。首を回すついでに辺りを観察してみる。どうやらあの女操現士を刺し殺した森の一角のようだ。確かあの後雇い主のリーゲルング卿に連絡し、失敗した旨を伝えてからこの森を散策していたはずだ。それが何故こんなところで気絶していたんだろうか?
散策は時折魔物を倒し、奴らの巣を壊滅させながらだったが、低級の魔物に遅れを取るような腕はしていない。何より奴らにやられたとしたら俺はもうこの世にいないだろう。では野盗だろうか。そんな高級の奴らがここらを徘徊しているという情報は聞いていない。第一、野盗に遅れをとるような腕ではないと自負している。
そもそも襲われた記憶がぽっかりと抜けているという点がおかしい。何かしらの外傷や衝撃によって記憶を失うのはよくあるが、それでも前後の出来事は覚えている。だが俺は何かに遭遇した記憶も、地面に倒れ伏した記憶も持っていない。薬でも使われたのだろうか。そんな物があると風の噂に聞いたことはあるが、目が飛び出るほど高額だとも聞いた。手に入れられるのは金を唸るほど持つ一部の貴族か、その道のプロぐらいか。だとすると同業者に遭遇したことになるが、それだと尚更生かされている理由が分からない。死人に口無し。痕跡は残してしまうが、自身に降り注ぐ厄介事を避けるために殺すのは当たり前だというのに。
俺は困惑する自身を納得させるため、改めて体を触ってみることにした。頭から足までゆっくりと確かめていき、そこでやっと右腕に巻いていた【索敵】と【捜検】が無くなっていることに気が付いた。肌に触れさせていた道具が盗られていたという事実に、全身の血が一気に引いていく。暗殺者ともあろうものが、自らの体に触れられていることに気付かずに、無様にも好き放題させた挙句、嘲笑うように生かされたなんて。これが誰かに知られれば笑いものになるのは目に見えている。廃業も免れないだろう。最悪、路頭をさ迷い、そこらの浮浪者のように薄汚れて死んでいくことになるんじゃないだろうか。
悪あがきと知ってはいたが、それでも俺は胴体から下を確認していった。瘤も無ければ痣も無い。唯一傷と呼べるのは頬にできた切り傷だが、浅かったのか既に血は止まっていた。それが更に惨めさを誘う。目的も犯人も分からないが、そいつの高笑いが聞こえてくるような気がした。
思考を放棄したがる脳を叱咤し、現状を分析しようと試みる。俺の生死はこの際無視するしかない。考えられるとするならば、頬を掠めた刃物に薬が仕込まれていたか、何かしらの術をかけられたかだろう。有力な目的は俺の持つ情報と道具。
俺は腰にぶら下げた【底無し袋】を漁る。ここに入れているのは野営に必要な道具や非常食、金目の物に予備の品といった、重要とは呼べないものばかり。情報は全て頭に叩き込んであるし、今回は何かを運べなんて指示も出ていない。正直、この中の物が無くなっていようと痛くも痒くもない。だがそこらの子どもでも手に入る【索敵】と【捜検】が奪われた以上、他のものも盗られてると考えるべきだろう。そんな俺の予想は的中していて、麻製の【底無し袋】にハイブレーヌの塊が一つ、野営に必要な道具を入れた麻袋、適当に詰め込んだ金品の袋が無くなっていた。
情報を引き出そうとしたが、碌なものがなく、物資補給ついでに機動力を削いでおこうと装備を奪ったってのが妥当な線だろうか。となると雇い主であるリーゲルング卿に関係する人間が雇った奴ってのが一番可能性が高いが、専属でもないのにそんなの一々調べていられない。かといって雇い主への報告を欠かすわけにも行かない。有事の際は連絡を。契約の一部にそう書かれていた以上、破ることは不可能。俺は一度深く息を吐き、左腕の【交信】を起動させた。
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