幕間
深淵が目の前に広がっている。夜の帳も漆黒も、暗闇ですら生やさしいと思えるような深淵を見つめていると、そんなはずはないのに気が狂いそうな錯覚を抱く。事実、普通の人間が暗闇に閉じ込められると、三日で狂人と化すそうだから、俺のこの感覚も、あながち間違いじゃない。だからこそ錯覚と言い切れるのだが。
虚無しかない空間に漂っているような、胎内で羊水に浸かっているような、何とも形容しがたい感触を抱きつつ、俺は静かに目を閉じた。意識を自身の奥の奥、異なる存在が在る場所へと向ければ、途端に色とりどりの感情が溢れ出してきた。
驚愕、困惑、疑惑。歓喜と喪失、安堵と焦燥。光輝く思いの裏に潜む、ヘドロよりも濃厚な負の臭いに舌なめずりを一つ。
感情というものは、どれも色鮮やかだ。限りなく純粋で、美しく、だからこそ滅茶苦茶に混ぜ合わせた時の変化は予想できない。複雑に混じり、もはや元の色すら分からなくなったそれを見る時の興奮は、他に類を見ないと断言できる。
最近は随分と単純な組み合わせが増えてきているが、表現不可能なものを見つけ出した時の喜びは深まるから、それはそれで楽しめる。だが、それでもやはり物足りなさはどこかにあって。だからこそ強く願うようになった。
真っ白な存在を染め上げ、己の思うまま、望むままに造り替えてみたいと。
俺は眼前の光景を注視しつつ、意識を深層へと沈めていく。様々な色が渦を巻き、中心へと集まっていく様は荘厳だ。これを見れただけでも十分だと言いたいが、まだだ。まだこんなものじゃない。これはまだ何も知らない。絶望も、希望も、何一つ知らない、未だまっさらな状態なんだ。そう思うと体が震える。
次は何をさせようか。何を見せようか。白か黒か。善か悪か。こいつはどんな色になる? あぁ、考えるだけでワクワクする。こんな感情、あそこにいたらきっと知らないままだった。万に一つの可能性に賭けてよかったと素直に思える。
そんな、陶酔にも似た思いを味わっていれば、周囲の光景がゆっくりと消えていった。どうやら陽が昇り始めたらしい。名残惜しいが、今日はここまでのようだ。
俺は今一度消え行く渦を視界に焼き付け、後ろ髪を引かれながらも意識を浮上させた。
さて、今日はどんな言葉を紡ごうか。そんな思考と共に瞼を開ければ、この数日で見慣れた、代わり映えのしない風景が目に飛び込んでくる。今日は天気がいいらしい、なんてどうでもいいことを考えているだけなのに、口元が緩んで仕方ない。末期だと自覚しているが、だからといって改善するつもりは更々なかったりする。
つらつらと考え事を続けていると、視界がぶれた。どうやら本格的に動くようだ。俺は笑み崩れた顔をそのままに、次の色を加えるべく、口を開いた。




