予兆
木々が開け、盆地となった空間に太陽の優しい光が降り注いでいる。風は柔らかく、見上げれば透き通った青空が広がっていた。時折小鳥の囀りが響く森の中は、驚くほどに穏やかで、何もしなくとも心地好い時間が得られるだろう。
そんな平穏な風景も、目の前の集団にかかれば、一気に胸糞悪い光景へと変貌するようだ。
図体ばかりでかい肥え太った体に、豚とも人ともつかぬ醜い顔。元より悪臭を放つ緑色の体躯に添えられるのは、やはり悪臭漂うくすんだ何かの皮。精霊の宿る木を名前としているくせに、何故このような生き物がいるんだと聞きたくなるような存在、オークが俺の眼前にひしめいていた。
ふごふごと、鼻息とも言葉ともつかない声を発しながら、ふらふらと定まらない動きをするこいつらに、自然と顔がしかめられる。俺のいる場所は風上なため、臭いは届かないが、それでなくても気分は悪くなる一方だ。依頼じゃなかったら即刻回れ右をしているだろう。今ここに踏み止まっていることすら奇跡に等しい。早く、早く帰りたい。
俺の切実な願いが届いたのか、通信用のイヤリングが振動する。俺は直ぐ様【応答】と呟いた。雑音が脳を震わす不快感に耐えていれば、待ち望んでいた言葉が届いた。
『標的は囲いました。好きなように動いていいですよ』
「言われなくても!」
声に答えるや否や潜んでいた枝を蹴り、【風翔】を使って盆地の真上まで飛び上がる。周囲の風が俺を取り巻くように動くためか、オークたちが俺の存在に気付いた。中には術を発動させようとしている奴もいるが、全ての動きは緩慢としており、俺を阻むには遅すぎた。
「《我が身の内に荒れ狂う焔よ、全てを糧として咲き誇れ【焔華の渦】》」
眼下へと左手をかざせば、手首の魔方陣から生まれた焔が落雷のように盆地へ落ちる。突如として現れた火柱に、オークたちの動きが止まった。火柱は膨れ上がり、拡散してオークを焼いていく。盆地全てを火の海に変えるのに、そう時間はかからなかった。
吹き上がる熱風を体に纏う風でいなしていると、頭に雑音が響く。答えてないのにと思っていたが、そういえば【閉鎖】と言ってなかったことを思い出した。
『暴れるのはいいですが、少しはこちらのことも考えてくださいよ。悪臭がさらに酷くなりました』
「悪ぃ。でもよ、許可を出したのは兄貴だぜ」
『それなら……、いえ、止めましょう。不毛なやり取りになりそうです』
俺が何かを言う前に、雑音混じりの声は消えた。どうやら切られたらしい。言うだけ言って切るなと怒鳴りたかったが、それこそ不毛なので止めた。
瞬間、火の棒が頬を掠める。飛んできた方向を見やれば、投擲の姿勢のまま固まっているオークと目が合った。にやりと笑ったそいつに、こめかみがひきつる。見れば、他の奴らも反撃しようとしている。最後の足掻きといったところだろうが、その反抗心が精神を逆撫でた。
「いい度胸してるじゃねぇか……」
俺は愛剣を引き抜くと、即座に鍔の術石に力を込める。【風翔】のコントロールを忘れかけるほど集中すれば、呼応するように緑の光が増していった。
「《展開。【風斬】》」
呟くように技名を唱え、眼下のオークに斬撃が届くよう、力を込めて一度だけ剣を振る。刹那、刀身から鋭い刃にも似た風が幾重も生まれ、俺の前方にいたオークを刻み尽くしていった。同時に俺の中にあった苛立ちも霧散していく。無残を通り越していっそ清々しいとすら感じてしまうほど見事に全身を分断され、物言わぬ緑色の肉塊と化した奴らを眺めていれば、俺の周囲を取り巻いていた風が唐突に消えた。
どうやらさっきの集中のせいで弱まっていた【風翔】が完全に解けたらしいと理解した時には、既に炎目掛けて落下していた。先程自ら放った術は収まる様子を見せない。このまま落ちていけば、間違いなく焔の餌食となるだろう。自分の術で自殺なんて冗談じゃない。だが、体勢を整えるために術を放つには集中力が足りない。オーク討伐で死ぬことになるぐらいなら、あんな攻撃に怒るんじゃなかったと思った瞬間、落下していたはずの体がふわりと浮いた。
「相変わらず後先考えない行動をしてくれますね」
操現具越しではない声にそちらを見やれば、怒ったような呆れたような顔の兄貴と目が合った。どうやら俺は、兄貴の【風翔】で一命をとりとめたらしい。助かったと安堵の息を漏らせば、兄貴の双眸が鋭く光った。
「自分の行動がどれだけ愚かか分かっていますか? 私が少しでも遅かったら、貴方は死んでいたのですよ。相手の力量に関わらず油断をするなと再三言ったにも関わらず、自分の命を投げ捨てる真似をするなんて、馬鹿を通り越してただの間抜けです。救いようがない」
淡々と紡がれる言葉は反論を許さない。静かに放たれる威圧感から目を逸らしたいのに、逸らしたら死ぬだろう眼力のせいで固まる以外の選択肢がない。下手な拷問よりも手酷い行為に、己の愚行を反省する余裕なんてどこにもなかった。
「ナギ? ナグゼア? 聞いているのですか?」
「聞、いてる」
「ならば言うべきことがあるでしょう」
「……ごめんなさい」
思わずただの餓鬼のような言葉を返せば、兄貴は深いため息をひとつ吐いた。眼光から鋭さが消え、威圧感が霧散する。どうやら説教は終わりのようだ。
「これぐらいの責め苦で根を上げるぐらいなら、最初から無謀な真似をしないでほしいものです」
俺にとって拷問以上の威力を持つ説教は、まだ軽い部類だったらしい。その事実に悪寒が走る。もしも下手に言い返していたら……、なんて考えたくもない。そんな俺の思考を感じ取ったのか、冷たい視線が向けられる。俺は慌てて意識を兄貴の方へと戻した。
「一応確認しておきますが、まさか本命を相手する余力がないなんて言いませんよね?」
綺麗な笑顔と共に尋ねられた問いは、確かに断定の響きをもっていて、俺は黙って頷くことしかできなかった。説教が終わったからと気を抜いていた俺は、兄貴が言うように相当の間抜けなのだろう。それを肯定するかのように、兄貴の笑みが深くなる。
「なら、一人でも大丈夫ですね?」
「ちょっ、番を一人では流石にきつ……」
「大丈夫ですね?」
「いや、だからさ……」
「大丈夫ですね?」
「…………勿論」
兄貴の全身から発せられる無言の圧力は凶器になると思いつつ、了承の返事をする。自業自得な結果なのだが、だからこそ余計に恨めしい気持ちになった。
「幸か不幸か、標的を囲った【地竜の籠】は壊れていません。通気孔から入り込んだ熱風により、ダメージを受けてはいるでしょうが、それも微々たるもの。術を解けば、十中八九、すぐに暴れ出しますね」
兄貴の口から淡々と語られる状況は、悪くはないが良くもない。今の俺なら、それこそ油断した瞬間に殺されるだろう。そして、次は助けなどない。
目を閉じて深呼吸を一度。そして両手を頬に当て、勢いよく叩く。
「うし。いつでもいいぜ」
気持ちを切り替え、兄貴にそう告げれば、呆れ混じりのため息が返ってきた。
「普段からそれぐらいの気持ちで臨んでほしいものです」
「それは兄貴の役目だろ」
「好きでやってるわけではありませんよ」
軽口を交わしながら、兄貴の【風翔】で移動する。音も僅かな風の動きもなく静かに飛ぶため、息も絶え絶えな敵を刺激することはない。俺にはできない芸当だ。
そうして滑るように移動していくと、目の前に巨大な卵のような物体が見えてきた。所々から棘のようなものが飛び出し、天辺に竜の頭のような飾りが付いているそれは、兄貴の【地竜の籠】だろう。精巧な造りのそれは、獲物を確実に捕らえることだけを目的としているはずなのに、芸術的な雰囲気を漂わせている。これを瞬時に作り上げてしまったであろう兄貴に感嘆の年を抱いていれば、竜の頭上一メートルほどで体が止まった。
「さて、これを解いたが最後、私は何があろうとも手を出しません。いいですか?」
「おう」
わざわざ確認をとってくれる兄貴に、俺は笑みを溢しつつ、腰に下げた愛剣を引き抜く。柄に嵌められた術石に力を込め始めつつ、眼下の檻を見つめれば、俺の準備が整ったことを察したのか、兄貴が腕を一振りした。途端に檻が崩れ落ち、中に押し込められていた熱気が悪臭と共に押し寄せる。彼ら特有の臭いと、生き物が焼かれた時の臭いが混じったそれは、風で届かないはずなのにはっきりと分かるぐらい酷い。同時に聞こえてくる声は苦悶の色を宿していて、俺は顔を引きつらせた。
「…………なぁ、兄貴」
「何ですか?」
「あれ、蒸し上がってねぇ?」
「えぇ、そうなるように仕向けましたから」
「ならそのまま止め刺しちまえば……」
「愛弟の仕事を奪うほど、落ちぶれたつもりはありませんよ」
「……さいですか」
軽口を叩き合っている間にも【地竜の籠】は壊れていき、閉じ込められていた存在の全貌が顕わになる。三メートルは超えている体躯に、尖った耳と口からはみ出ている牙。皮膚は赤黒く爛れているが、本来の緑色と、額にある二対の角は辛うじて残っていた。
オークキングは何とか立っていたが、オーククイーンは座り込んでしまっている。それだけ痛手を与えたのかと観察すれば、通常のオーククイーンよりも膨れ上がった腹が目に入った。どうやら身篭っているらしい。妊娠時はクイーンは勿論、キングも凶暴になるから、少し面倒なことになりそうだと覚悟しておく。
二対は程度の差こそあれ痛みに足掻いていたが、こちらを睨みつける瞳には殺意が満ち溢れているあたり、雑魚とはいえ親玉なのだと実感する。やはり王の名を冠する固体は一筋縄ではいかないらしい。
俺は愛剣を鞘から抜き放ち、正眼に構える。より強い殺気を飛ばしてくるオークキングから目を離さないまま、今度は柄尻に埋め込まれた術石に力を込めていった。
籠が完全に消え去ると同時に、俺にかけられていた【風翔】も解けた。俺の体は重力に従い、雄叫びを上げる二匹のオークキングの元へと落ちていく。俺と奴らの視線が絡んだ瞬間、二匹は嘲笑うように口元を歪めた。奴らには俺が自ら命を差し出しているように見えたのだろう。空中で身動きも取れぬまま、敵目掛けて落ちていくなんて、端から見れば自殺行為に近い。
オークキングが棍棒を振り下ろす。その先端から生まれた焔が膨れ上がり、俺を飲み込むぐらいの大きさになったところで勢いよく放たれた。ゴブリンやオークが得意とする【炎弾】だが、その大きさはけた違いだ。流石はキングと名の付くだけはあると妙に感心しつつ、俺はその塊に真っ向からぶつかった。焔が刃に当たり、爆ぜながら、俺もろとも飲み込もうと勢いを増した瞬間。
「《展開。【風焔斬】》」
瞬時に術名を紡ぐ。刹那、刃に風が宿り、炎を阻むように広がっていく。【炎弾】よりも薄い色をした、まるで輝いているようにも見える赤は、風と焔が綺麗に混ざり合っていることを教えてくれた。
薄紅色の風は瞬く間に焔を切り裂き、その身に取り込んでいく。風か炎限定だが、切った技の威力を加算してくれるこの術は使い勝手がいい。ついでに相手の術で倒せるとあって、俺の性格にもぴったりだ。
なんてことを考えながら、俺は落下の勢いのままオークキングに突っ込む。奴の頭に剣が吸い込まれるように触れた途端、その巨体が真っ二つに割れた。断面からは焦げ臭い匂いが漂ってくる。やりすぎたと思うのと、切っ先が地面にめり込むのはほぼ同時だった。
どしゃりと重い音を立てて、よく焼けた巨体が倒れ落ちる。辺りが妙な静寂に包まれる中、俺は先程よりも勢いの弱まった風を纏う剣を抜いた。オーククイーンに向き直れば、呆然とした表情でキングの成れの果てを見つめていた。オークでもそんな貌をするのかと妙に感心していると、オーククイーンの顔付きが変わっていく。背筋に得体の知れないものが走った途端、怒りに満ちた咆哮が鼓膜を振るわせた。
伴侶を殺されたことに激昂したからだろう。その双眸は真っ赤に燃えていた。先程まで痛みに蹲っていたとは思えないほど俊敏な動きで立ち上がり、こちらに突進してくる。その手には不釣合いな鉄剣が握られていた。恐らくはどこぞの操現士が所持していたのであろうそれは、何かの血と脂でどす黒く染まり、物を断ち切ることはできないだろう。だが叩き潰すことはできそうだ。
クイーンは他のオークが棍棒を振るう時のように剣を上段に振り上げ、下ろす。たったそれだけの動きなのに、剣は予想以上の速さで振り切られた。風を切る音が耳朶を打つ。クイーンだからでは説明できない動きに、どうやら怒りによって身体能力が底上げされたらしいと考えた。
振り切られた剣は、そのまま地面にめり込むかと思いきや、俺を追うように横へと薙がれた。咄嗟にしゃがめば、頭上ぎりぎりを刀身が過ぎ去る。冷や汗が一筋流れた。
三度目の攻撃は胴体から足にかけてを狙うように、斜めに放たれた。流れるようにとはいかないが、止まることのない動きは素直に感心する。俺は前方に跳び、剣の軌道を避けながら相手の懐に潜り込む。動揺からかクイーンの体が後ろへと動く素振りを見せた。剣を引き寄せようとしているのだろう。利き腕の筋肉が伸縮させている。俺はその様子を横目に見つつ、未だ風と焔を纏う己の愛剣を、太く頑丈な首目掛けて振り抜いた。肉が焼ける音と切り裂かれる音が同時に聞こえ、互いの動きが止まる。僅かな沈黙が辺りを包み込みかけた時、ようやくオーククイーンの首が転げ落ちた。遅れて巨大な胴体が崩れ落ちる。しばしそれを眺め、ぴくりとも動かないことに安堵のため息を溢した。
「まだですよ」
兄貴に終わったと告げようとした瞬間、頭上から術の高まりを感じた。半ば反射的に後ろに跳んだのと同時、オーククイーンの胴体に幾つもの礫が降り注いでいく。容赦のない追撃に、頬が引きつった。
「オークの生命力はどの魔物よりも強いのです。たとえ胎児であろうと例外ではありません。実際に死体から産まれる所を見た人もいます」
兄貴の声が近くから聞こえてくる。気配からするに【風翔】を解いて俺の背後にいるのだろう。
「その話は俺も知ってる。でもよ、産まれた所で生き残れるとは限らないだろ」
「何かあってからでは遅いのですよ」
その言葉に何も言えなくなった。元の形が分からなくなるほど壊された死体を黙って見つめていると、兄貴は俺の横を通り過ぎ、死体の方へと歩いていった。恐らく討伐証明となる角を取りに行ったのだろう。俺は【風焔斬】を消し、兄貴の作業をぼんやりと眺めていた。オークの角は割りと頑丈なのだが、兄貴は小型ナイフでさくさくと切り取っている。
「帰りはどうすんだ?」
「行きと同じく、徒歩ですよ」
「……俺、結構疲れてんだけど」
「奇遇ですね、私もです」
一通りの剥ぎ取りが終わったところで声をかけてみたが、けんもほろろな答えしか返ってこなかった。あわよくば兄貴の【風翔】で戻れないかと思っていたのだが、この調子では無理だろう。まぁ、道中での戦闘に備えて温存しておきたいのは分かるから、食い下がることがしない。
「ナギ」
「んあ?」
なんてことを考えていたせいか、兄貴の呼びかけに妙な声で応えてしまった。注意力散漫なことを叱られるかと身構えるも、兄貴は特に気にしていなかったらしく、言及されることはなかった。その事実に安堵している間にも兄貴の問いかけは続く。
「闘っていて何か気付いたことはありますか?」
「んー、あえて挙げるなら、オーク全体の生命力がやけに強かったってのと、激昂していたのにクイーンの技術が落ちなくなったことぐらいだな」
「成る程」
「けど、気にするほどでもないと思うぜ。これぐらいの奴なら、今までにも何度か遭ってる」
「確かに貴方の言う通りではありますが……」
「何か引っ掛かってんのか?」
「えぇ、少し」
兄貴は考える素振りをしつつ、ナイフの汚れを拭き取り、角と共に仕舞っていた。何について考えているか分からないが、あまりいいことではなさそうだというのはその表情から読み取れた。
「細かいことは後にしようぜ。腹減った」
あえて馬鹿らしいことを口にすれば、兄貴の雰囲気が微かに和らいだ。
「全く、貴方という人は……」
呆れたような口ぶりだが、優しげな視線がそれだけではないと告げていた。その様子に自然と笑みが漏れた。
今度は俺が兄貴の横を通り過ぎ、森へと向かう。背後から衣擦れの音がし、兄貴がついてくる気配がした。足音は聞こえない。
「なぁ、兄貴」
「はい」
「なんで足音消すんだ?」
「何故と聞かれても……、癖としか答えようがありませんね」
「癖って……」
くだらないことを喋りながら森の中を歩く。陽射しは木々に遮られて僅かにしか届かなかったが、それでも暖かく照らしていた。




