真夜中ガクエン1
(2)
夜十一時五十分。
オレは部室棟の南側、端から三番目の窓を開けた。この窓だけ鍵が壊れていることは青嵐学園の生徒なら誰もが知っている。つまり、生徒公認の侵入スポットってわけだ。そして一度校舎内に入ってしまえば、他の棟への行き来に障害はない。
窓から廊下へ飛び降りると、ドスンという音が辺りに響いた。
あたりまえだけど、辺りは静まり返って人っ子一人いない。明かりといえば非常口を示す緑の光だけだ。
「夜の学校って、ホント気味悪いよねえ。ねえ、やっぱり学園七不思議なんてあきらめてもう帰ろうよぉ」
背後から透の情けない声がした。
「帰ろうよぉって、むしろなんでオマエがついて来てんだよ。一人でとっとと帰ればいいだろ」
オレがキレ気味に言うと、透はムキになって反論してきた。
「そ、そうはいかないよぉ! 九郎ちゃん一人でビチ子先輩のところに行かせたら、どんなエロい目に合わされるかわからないでしょ」
まったく、恐怖で涙目になってるクセに。
まあたしかに、白神先輩には『後輩といかがわしい関係を持つ』なんていう妖しい噂がある。食堂で生徒会長の話を聞くまでは、その噂が本当だったらいいとか、先輩に食べられてみたいとか、考えないわけじゃなかった。
でも、今はそれどころじゃない。一刻も早く、預かった封印帳を返さなきゃ。
そっと腹部に手を当てた。オレは身軽に行動できるようジャージにウィンドブレーカーというラフな服装に着替え、肝心の封印帳は落ちないよう腹にガムテでくくりつけてある。なんだかヤクザ映画に出てくるダイナマイト腹巻みたいで、どうにも落ち着かなかった。
でもこの封印帳は、オレにとってはダイナマイトと同じくらい危険なものだ。
盗まれたブツが今ここにあることは、誰にも知られちゃいけない。
それは、透にもだ。もちろんコイツがオレを裏切って密告するなんてありえない。でも万一オレが逮捕されたとき、何も知らなかった方が共犯扱いされる危険がなくていい。
「まったくオマエは平和でいいよ。っていうか、そういうことを考える透の方がよっぽどエロいんじゃないの?」
「あ、あたしはエロくなんかないもん」
「あたしじゃなくて俺、百歩譲ってボク」
「別にいいじゃん、ここにはあたしと九郎ちゃんしかいないんだし」
「そういう問題じゃない。普段から癖をつけておかないと、油断したときにボロが出るだろ。オレだって、二人しかいない時でも透としか呼ばないように努力してるんだぜ」
「えーっ。二人きりのときくらい瞳子って呼んでよ」
「ダメだ」
「ちぇっ」
「ちぇっじゃねえよ。だいたいなんだそのカッコは!」
オレに指差されて、透は慌ててスカートの裾を押さえる。
寮を出たときはたしかにジャージを着ていたはずなのに、透はいつのまにかスカート姿になっていた。学校指定のPコートと、その下から5cmくらいしか出ていないピンクのフレアスカート。ただでさえ寒いのに、はみ出した生の太腿が寒々しい。
高校に入る以前にはよく見た格好だった、ような気がする。まあ、あれからいろんなことがあり過ぎてあんまり覚えていないけど。
「だってだって、ジャージはパジャマ代わりに着てるんだもん。学校に行くのにパジャマ着ていく人はいないでしょ。それに白神先輩はきっとお洒落してくると思うから、ボクだってあんまりダサい格好してるわけにはいかないじゃん」
いったい何と戦ってるんだ、コイツは?
思わずため息をついた。
「あのなあ、白神先輩におまえが女だってバレたらどうするんだよ」
「大丈夫だよ、先輩が来たらボクは隠れてるし、もしみつかっても座志木瞳子の方だっていうから……そんなにヘンかな? 久しぶりだし、髪も短くしちゃったから似合わない?」
そういえば、もともとコイツは髪の毛長かったっけ。おかっぱ頭がハマリすぎて、今となってはあまり思い出せないくらいだ。
窓ガラスに写る自分の姿を眺めて、透はクルリと回って見せた。スカートの裾から覗く白い太腿。思わず見蕩れそうになって、慌てて背中を向けた。
「……似合わないことはないけどさ。もう、行くぞ。あんまり時間もないからな」
保健室のある新館に向けてズンズンと歩き出す。
「ちょ、ちょっと待ってよぉ」
二人の足音が校舎中に響き渡った。青嵐学園に職員当直の制度はないし、守衛さんも勤務していない。校舎内は完全に無人のはずだ。
部室棟から新館への渡り廊下を通り抜けながら、ふと外の景色に目を遣った。
「なんだ、アレ?」
校庭を何かが一直線に横切って行ったんだ。
「や、やめてよ、そうゆうの」
透は驚いて、オレのウィンドブレーカーの裾を握りしめた。
「いやマジだって、なにか黒いモノがピューってスゴイ速さで」
窓に近づいて目を凝らしてみた。だが、黒い影はとっくに校庭を走りすぎたようだ。
「九郎ちゃんってば、またまた脅かそうと思って。何もいないじゃん」
「もう通り過ぎちゃったんだよ。黒くて大きいナニかが」
「近所の人が犬でも散歩させてたのかな」
「犬なんてサイズじゃなかったぞ。軽自動車くらいあったんじゃないかな」
それを聞いた透は、思い出したように手を打った。
「……それって、ひょっとして地獄の番犬ケルベロスかも」
「地獄の番犬? なんだそりゃ」
「青嵐学園七不思議に、『地獄の番犬ケルベロス』っていうのがあるの。『真夜中の校庭に人肉に飢えた漆黒の巨大狼が現れる!』って、図書室にあった昔の学園新聞に七不思議の特集が組まれていたんだ。『月のない夜、我らが学園に侵入したものはきっとそれを目にするだろう。校庭を闊歩する黒い獣。しかし、その獣の正体を知るものはいない。なぜなら、その黒い獣に近づいた人間はたちまち食い殺されてしまうからだ』って。ね、さっき校庭を横切ったのは、この地獄の番犬ケルベロスだよ。食べられちゃう前に早く寮に帰ろう!」
透は半べそをかいている。オレは、その頭をポンと軽く叩いた。
「バカバカしい。もう少し頭使ってよく考えてみろ。その特集記事、メッチャおかしいぞ。正体を知るものは誰もいないのに、なんで地獄の番犬ケルベロスって名前がわかってるんだ? それに、近寄った人間を食い殺す獣の記事を青嵐学園新聞部はどうやって取材したんだよ」
「それはそうだけど、……九郎ちゃん、学園七不思議のこと全然信じてないの?」
「まあ、オレだってこの世の心霊現象全てを否定するつもりはないぞ。でもなあ、オレは自分の目で見たもの以外は信じないって決めてるんだ。人の噂はアテにしない。だから、この学園でそんな怪奇現象がおこるなんてことは到底信じられん」
きっぱりと断言した。じつはオレが自分の目で見たもの以外を信じない主義なのは、四月のホモ騒ぎの他に、もう一つ理由があった。
父親の影響だ。
と言っても「父の現実主義を受け継いだ」なんていうカッコいい理由ではなく、むしろその逆だった。オレの父親が、やれ幽霊を見たことあるだの、やれお化けに知り合いがいるだの、嘘八百を並べる人間だったため、自己防衛ために自然と自分の目で見たことでなければ信じない性分になってしまったんだ。
すると、透は両手で涙を拭いながら不思議そうな顔で尋ねてきた。
「じゃあ、どうして今ここにいるの?」
「えっ?」
「……やっぱり、ビチ子先輩が目当てなんだ、先輩といかがわしい関係を持つ気満々なんだ」
「いや、そうじゃないって」
――その時だった。
突然、渡り廊下の向こうからピアノの音が聞こえてきた。