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虚空の鑑  作者: 直江和葉
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【降臨〔弐〕】

 白く長い指が眠っている女の髪を(もてあそ)ぶ。

深い眠りに落ちている愛おしい者の顔を間近で眺めながら、彼は流れ落ちてきた銀の髪を無造作に後ろへ払った。

『……輪廻のくびきから放たれるには一番じゃと思うたが、思わぬ伏兵がおったといわざるを得ぬな……』

呟かれた言葉は苦笑を含み、白竜はハナの心臓に掌をのせた。規則正しい鼓動が伝わってくる。その手はゆっくりと上へのぼり、首筋、頬へと触れてゆく。――もとより、主の(たま)が入っているからこそ、器とて愛おしい。

彼は、赤い唇にゆっくりと自分のそれを重ねた。



 眠りから覚めるときは、いつも水底から浮上するような感覚がある。

瞼を開くと、珍しい模様の天井が見えた。何度か瞬きし、頭をめぐらすと豪華な調度品が見える。

ハナはゆっくりと上体を起こした。

「……目が覚めたのか」

離れた場所から、聞きなれた声が聞こえた。ハナは扉の横に立っている青年を見つけた。

「光麟! 無事だったんだね! ねえ、3G(さんじい)は? 私どうなったの?!」

「………。とりあえず服を着たらどうだ?」

「あ?」

言われて、ハナは自分の体を見下ろした。

声にならない絶叫を放った彼女は、慌てて掛け布の中にもぐりこんだ。そして、ふと心臓の上を触ってみる。

「……傷がない……」

だが、自分は竜樹の影に刺され、一緒にシュリーマデビイも……。

ハナは何度か瞬きして、溢れそうになった涙を散らした。泣くのは後だ。

 枕元にたたまれてあった着物を広げてみると、どこから袖を通していいのか首を傾げるようなものだった。しかも、どれがなにやらさっぱりわからない。

「……ねえ、光麟。これ、どうやって着るの?」

途方に暮れたように振り返ると、すぐそばに巨大な竜が首をもたげていた。仰天して思わず服を掻き抱く。

『お目覚めか』

竜は低く穏やかな声で言うと、着物のつけ方を教えた。

ハナは四苦八苦のすえ、着付け終わると両手を広げて白竜にみせた。

「これでいい?」

光沢のある白絹にさらさらと鳴る白の紗を纏ったハナに、白竜は銀の瞳を満足そうに細めると、ふわりと彼女をさらいあげた。


 国賓の客間にとぐろを巻く白銀の竜――その(かいな)にいだかれるようにして座る純白の着物の異邦人は、光麟の目にさえ不可思議な光景に映った。……本当のところは白竜がハナを傍から離さないだけなのだが。

 光麟から簡単に経緯を聞いたハナは、

「白竜、助けてくれてありがとう。光麟や3Gたちも助けてくれたんだね」

ぺこりと頭を下げる。耳に心地よい低い声音が笑い含みに返された。

『何を仰るか。わが主が呼ぶのに我が行かずしてどうしましょうや』

わが主――そう言われても、ハナにはどうしても思い出せないのである。

光麟の話では、あの短剣が、シュリーマデビイと自分の心臓を貫いたとき、凄まじい光の爆発があったのだというが――彼女が覚えているのは、溢れるような 『花の香り』 だった。いつか、ターガナーダの前であの香水を嗅いで倒れたが、今回のはそれ以上の強烈さで彼女を襲い……頭の奥で何かが目を開くのが見えたのが最後……気づいたらここに寝ていたのである。

 ――と、扉の向こうで複数の足音と、ざわめく声が聞こえた。静かにノックされ、入ってきたのはターガナーダとその副官、そしてバーダバグニとパドマバラ。その後ろから執政官らが詰めかけた。

バーダバグニはターガナーダの後ろから、ハナたちに一礼した。

「騒がせて申し訳ない。……ハナ、久しぶりだな」

「参謀長官殿! お元気そうで………」

知己の顔を見て嬉しそうにほころんだハナの顔が、すっと強張った。ターガナーダはそれが何に因しているのか察知し、白竜の傍に跪くと、ほろ苦く笑った。

「……シュリーマデビイのことは聞いた。お前が気に病むことはない。あれはあれのやりたいように生きただろうから……あれを、それほどまでに慈しんでくれたことに、心から礼を言う」

静かな声に、涙をこらえる間もなくハナの頬を雫が流れ落ちた。

「あの子は、私を護ろうとして………」

ターガナーダは、解っているというように、頷く。

「シュリーマデビイとは、マルタ王の……?」

「……異界で死んだということか……?」

後方でひそひそとした囁きが交わされた。執政官の多くは、それが前国王の皇女であることをごく最近まで知らされずおり、また一部の者は、シュリーマデビイが異形の姿で生れ落ちたため、ターガナーダとともに水華蓮へと送り出されたのだと知っている。

竜身で生まれた者を忌みながら、ローブミンドラの民は始原の竜に端を発し、この国を治めてきたと自負している――その矛盾に気づいている者は驚くほど少ない。

後方に控えていた執政官のひとりが、待ちきれなくなったのか、割り込むようにして白竜の前に膝を折った。

「恐れながらお尋ね申し上げます。我が国は始原の竜王に端を発し、連綿とその血を受け継いで来ております。昨今の悪政によって国は乱れ、ターガナーダ殿下のお力で復興が進んでおりますが、もしや……白竜王におかれましては、この国の末を憂いてご降臨あそばされたのでは……?」

ターガナーダはじめ真実を知る者は、その言葉に唖然とし、知らぬ者は、さもあらんと頷く。

竜に抱かれたハナは当惑の表情を浮かべ、光麟は無表情にローブミンドラの執政官たちを眺めている。当の白竜はしばし、銀色の目で人々を眺めやっていたが、

『笑止な』

やがて、切り捨てるような低い轟きが響きわたった。突如、その巨体が輝きを発し、一瞬の後、白絹の豪奢な着物を纏った銀髪の美丈夫が姿をあらわした。

「はっ……」

その刃のような鋭く冷たい銀色の眼光に射すくめられ、執政官らは息を飲んで後退さる。

『考え違いも甚だしい。我がこの世界に降りたはひとえに主がため。さらに、そなたらが始原の竜王に端を発するとな? 寝言をほざくもいい加減にするがいい! ――そもそも、そなたら人間は我が同胞に刃を向け続け、国外へ追い払うてきたではないか! あだ光りする石のついた腰掛欲しさに、我が主の名を汚してきた姦賊どもめ!』

白竜の――神の烈火のごとき怒りに、浮き足立っていた人々は雷を受けたように、その場に這いつくばった。

ここに居る人間は少なくとも、王の王たる所以を知っている。白竜の凄まじい威力を身に受けながら、一人の執政官が震える声で叫んだ。

「お……お待ちください、白の君! 小王を国外へ追い払うなどと、そのようなことは……」

『ほう。してはおらぬと? では聞こう。何ゆえローブインバラより生まれし小王たるターガナーダを、水華蓮へやったのか?』

「ロ、ローブインバラですと……っ!?」

悲鳴のような声をあげ、思わず顔をあげた老貴族は、わななきながら白竜王を凝視する。それは、一人二人ではなかった。真王の条件はわずかながらでも代々伝えられてきており、であればこそ、彼らは国王の代理者の横暴を許せなかったのである。さらに、この驚愕が物語るように、事ここに至ってもまだターガナーダの出自さえ、すべての執政官には知らされていないのが現状であったのだ。

白竜王は面白くもなさそうに、

『何がなされてきたのか、そやつらに聞くがよい』

床に這いつくばったまま、体を震わせている数人の高官を顎でさした。






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