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虚空の鑑  作者: 直江和葉
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【邂逅〔壱〕】

 始原の竜――それはこの世界をつくり、命を吹き込んだ原初の「力」である。

 かれは竜王と呼ばれ、竜王には四人の小王――すなわち、「青の君」「赤の君」「白の君」「黒の君」が常に傍らにあり、かれを護り補佐したという。


 はるか昔、竜王は不思議な光を発する円を見つける。さまざまな色、さまざまな情景を映し出すそれに、かれはひどく魅了された。

永く留まるうち、円――水鏡を中心にして、大地が、海が、生物が生まれ、いつの頃からかヒトが住まうようになった。かれを慕う小さき者どもを、かれは慈しんだ。だが、水鏡の濁りに気づいたとき、かれは眷属の一部を残し、その姿を人々の前から消した。嘆き悲しむ人々に、かれは言う。

 お前達を導くために、我の代わりに小王を遣わせよう。小王は人の子に非ず。我が同胞なり。(しるし)として、この世に存在せぬ青蓮華(しょうれんげ)から生ぜしめん。

 それが、聖ローブミンドラ王国のはじまりである。


 白竜王の落雷のごとき怒りを浴びせられた人々は、無言の退出を命ぜられた。国賓の客間に残ることができたのは、ターガナーダとその副官、バーダバグニとパドマバラ、その副官数人だけであった。

 小王の口から、信じてきた彼らの 『民族神話』 が打ち砕かれたのである。幾人かは取り乱すものが出てくることは間違いないだろうと、武官長は部下に目配せしてそれとなく警護にあたらせることを忘れはしなかった。

 人間どもが泣こうが騒ごうが、そんなことは白竜王の知ったことではない。ほんの少しの鬱憤を晴らした銀髪の小王は、激しく発していた怒気を幾分やわらげ、ふん、と鼻を鳴らした。

『……ま、そなたらの勘違いも無理からぬことではあるがな。我が主はヒトがお好きゆえこうして時折、下界に降りられる……』

自分の後方に立つハナへ、白竜は愛おしげな光を宿した目を向け、いまだ呆然としている彼女を、白い着物の袖で包み込んだ。

『ほんに、此度(こたび)の降臨は永すぎましょうぞ。早うお戻り下されませ』

「え――?」

白竜の話を、まるでおとぎ話のように聞いていたハナは、いまだに何がなにやらさっぱり理解できていない。早く戻れと言われても、どう応えていいのかわからず当惑した。

困ったように彼を見上げてくるハナを見つめ、白竜は溜息をついた。

『これはまた……我等のことさえも記憶を封じられたというのか……何事も徹底されるは上様の美徳じゃが、こんなガチガチに締め出されては我でなくとも拗ねますぞ』

白竜の白い指がハナの額をつ、と突いた。途端、ハナは目も眩むような光と、溢れるような花の香りに包まれ、平衡感覚を失ってぐらりと傾ぐ。

「ハナ!」

ターガナーダと光麟が、思わず一歩踏み出したのを横目で見やり、白竜は片手をあげて制する。

しばし――差し出された白い袖に支えられたまま額を押さえていたハナは、やがて、大きく息を吐き、ゆっくりと顔を上げた。

人々は思わず息を飲んだ。

顔かたちが変わったわけでも、何かに変身したわけでもない。だが、あきらかに先の女とは、まったく異なる人物に変貌していたのだ。黒い瞳は、いっそう深みを増し、ヒトならぬ叡智を湛えて炯々と輝く。その、超然とした眼差しが傍らの白い小王に向けられ―――

「……久しいな、(こう)

『ほんに。お会いできず寂しゅうございました……』

艶やかに、嬉しげに笑った白竜王は、ゆったりと優雅な所作で跪いた。

『我が王よ――』



 白竜に手を引かれ、白い紗の裳裾をあざやかにさばきながら、一つの椅子に腰掛けたハナ――竜王は、呆然として立っている人々に微笑を向け、不思議な響きを持った声で語りかけた。

「……お初にお目にかかる、と申すべきかな、新王光竜(こうりゅう)?」

そのひとは、虹の輝きを発していた。鮮やかな青、深い紅、眩しい黄金、煌めくような碧……その声は、声であって声ではない。妙なる旋律のようでもあり、荘厳なる鐘の音のようでもある。

(ひな)。主の御前ぞ。控えよ』

白竜の厳とした声に、呆然としていたターガナーダは、ハッとしたように跪いた。後ろに突っ立っていた面々も、慌てて膝をつく。

「よい。気にするな。我と光竜は既に(よしみ)を通じておる。なあ?」

「は……」

戸惑いながら、返答に窮する若い王を見つめ、竜王は鈴を振るような朗らかな笑い声をたてた。そして、つい、と人差し指を伸ばす。

白く細い指先には、小さな薄青い玻璃珠(ビーズ)……否、一しずくの露が光っていた。指先から落ちてしまえば消えてなくなるほどの雫は、人の世のものとは思えぬほどの芳香を放っている。

竜王はターガナーダを見据えた。

「……そも、これが何ゆえヒトの手にわたっておるのだ、光竜(ターガナーダ)? 本来、そなたのためにあるべき青露(せいろ)ぞ。あますことなく飲み干してこそ、そなたの覚醒は完全なものとなっておったものを……。とはいえ、これのおかげで我は覚醒し、傷も癒えたのだがな。……尤も、皎にとっては誤算であったようだが?」

『はて。何のことやら、白竜にはわかりませぬぞ』

しれっとして小首を傾げてみせた白竜に、竜王はやれやれと呟き、指先の青露を親指と人差し指で挟み、くるりと回す。水滴は透明な青い石になった。その、小さな小さな香る石をターガナーダの掌に落としてやる。

竜王は跪くターガナーダに微笑み、言祝(ことほ)ぎを紡いだ。

「光竜――ヒトに望まれし王よ。そなたとそなたの民に、幸多き治世であらんことを――」

「……私が、望まれて、と……?」

ターガナーダは掌の小さな石を握りしめ、竜王を見上げる。

これほどに疎まれてきた自分が、人々に望まれているとは思えなかった。水華蓮でも、ローブミンドラにおいても、今やっと、幾分かの味方を得たのみであるというのに――。

その内心を鈴の一笑が払う。

「無論だ、愛し子よ。視界を狭めてはならぬ。(そなた)を求める思いが、青蓮華に花をつけさせ、光竜(ターガナーダ)を生んだ。……そなたは、我とヒトとが成した唯一の存在ぞ。――始原の竜たる我が言うのだ。信じよ」

竜王は微笑みながらターガナーダの群青の髪を撫でると、その額に接吻を落とし、袖でふんわりと包み込んだ。


 ――ながく、己の存在を疑ってきた。ローブミンドラでも、水華蓮でも。大風にさらされる一葉が、必死に細い小枝にしがみつくような不安感を常に持っていた。その中で、ひとり、ふたりと己が袖を掴んでくれる者を得はした。だが、それはふとした時に、陽炎のように消えてゆく夢を見せ、彼を深い闇へと引きずり込もうとした。


 ――愛し子よ。

 ――我とヒトとが成した、唯一の存在……


 その玲瓏たる旋律の声が、己を包み込む腕が――


 あたたかな白絹の袖のなかで、ターガナーダの頬を透明な雫が伝い落ちていった。

いま、やっと。彼の足は、しっかりと大地を踏みしめたのである。




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