【青眼】
帆船はまる二昼夜かけて海を走り、北の大陸ホウライヌへ到着した。
船員達は忙しく立ち回り、乗ってきた商人たちも荷物をまとめはじめた。
ホウライヌの港は、水華蓮のように門はなく、緩やかな孤を描く入り江になっている。港から出てきた帆船に乗っていた船員達は、すれ違うとき笑いながら旗を振った。こちらの船員達もそれに応え、腰帯に差していた旗を振る。
それを眺めていたハナにアイオリア・ガナが声をかけた。
「ハナ様、海竜が……」
「え……」
船の後方、はるか沖合いに巨大な柱のように水面に聳え立っているものがいた。海竜はその巨頭を海中からもたげ、まっすぐこちらを見つめているようだった。
ハナは微笑み、海門でしたのと同じように剣を抜き、感謝をこめて大きく振ってみせた。剣から放たれた銀光は海竜の目にも届いたようだった。かれは陽光の中でひときわ輝きをはなち、静かに海中へと戻って行った。
同乗していた商人たちは感嘆の声をあげ、船員達もしばしその光景を目を細めて眺めやっていた。
「親っさん、どうか、お早いお帰りを」
船長として乗り込んでいた男は、アイオリア・ガナに深く一礼する。その後ろに並んでいた船員達も、船上で仕事をしていた船員達も、船長にあわせるように一礼した。
アイオリア・ガナは苦笑をもらし、頷いた。
「わかっている。だが、私のことは気にするな。……お前達も気を抜かずに帰れよ」
「はい。どうか、お気をつけて」
「いってらっしゃいまし!」
船員達に見送られ、アイオリア・ガナはハナたちを促した。
ハナは改めて銀髪の初老の男を見上げた。このひとの帰りを待つのは、あの小さな孫達ばかりではないのだ。一族の者すべてが無事を願っているのである。何としても、元気なまま戻ってもらわねばならないのだ。
ふと、ハナは足を止め、まだこちらを見送っている船員達に向き直ると、深々と一礼した。
船長は、一瞬瞠目し、そして彼女の意思が伝わったのか、目元をほころばせると彼女に軽く一礼を返した。
異邦人と、その両脇に立つ美貌の青年と愛らしい少女、彼らを守護するように佇む自分たちの長の姿は、船長の脳裏に不思議な感慨とともに強く焼きついた。
港のごったがえす人いきれの中に彼らが消えて行ったあと、すぐ後ろに立っていた船員が溜息をついた。
「……しかし、伝説の海竜の姿をこの目で見ることになるとは、思いもしませんでしたよ……」
暗に異邦人のことを語る言に、苦笑した船長は頷き返す。
「俺もさ。……何のためにホウライヌへ来たのかはわからないが、海竜の加護があるような不思議な娘だ。我等の長にもその恩恵を与えてくれることを祈るしかないだろう……」
船長はそう言うと、船へと戻って行った。
賑やかな通りには、早良港と同じくたくさんの店が建ち並んでいた。客を呼び込む威勢のいい声、談笑する声、値段交渉する声……。活気に満ちた通りは歩いているだけで心が浮き立つようだった。
物珍しげに通りを眺めているハナは気付かないようだったが、彼らはこの人ごみの中にあっても非常に目立つ一行だった。すれ違う人々が瞠目して通り過ぎていく。
光麟は淡々とした表情のまま、アイオリア・ガナもまったく気にした様子はなかったが、藍華だけはどうにも人々の視線が気になって仕方がなかった。己の一挙手一投足を観察されているようでいたたまれなくなる。
(……恥ずかしい、私ひとりこんなことを気にしてるなんて……)
藍華が自己嫌悪に小さく溜息をついたとき、ハナの足がある店の前で止まった。
大きな暖簾が垂れ下がった店の扉は開け放たれ、お客が頻繁に出入りしている。
「ハナ様……?」
木の看板を見上げ、手の中の紙片と見比べながらハナはひとつ頷いた。
「ごめん、ちょっと寄ってっていい?」
異邦の女はにこりと笑うと、さっさと暖簾をくぐって店に入って行く。光麟が続き、アイオリア・ガナに促されて躊躇していた藍華も中に入った。
店の中はごくわずかの商品が陳列されているのみで、あとは広い土間と、一段高くなった座敷にたくさんの箪笥が並べられていた。座敷の上がり口に腰掛けた客と、座敷に正座した店員が品物を挟んで商談している。どうやら、ここは客の注文にあわせて品物を出してくるという方法で商売をしているらしい。
時代劇のセットを見ているようだとハナは思った。
「すみません」
ハナは、座敷の奥に座って書きつけをしている番頭らしき男に声をかけた。
見慣れない風体の客を前にしても、店の男は顔色一つ変えず、にこやかに 「はい、ただいま」 と言って出てきた。
「いらっしゃいませ。今日はどのようなご用向きで」
「こちらに地図があると聞いて来たのですが」
「……地図、でございますか。いくつか種類がございますが……」
番頭は、はて、と首を傾げるようにした。
ハナはバックの中から一通の書簡を出し、男に差し出した。
「……このお店を紹介くださった方からです」
番頭はそれを受け取り、目を通しはじめた。途端。
「なんと……! しばらく、しばらくお待ちくださいませ!」
一旦、奥へと走りこんでいった番頭は、ほどなく、つやつやした丸い顔の老人と共に戻って来た。老人はハナの前にきちんと座り、その後ろに番頭も連なった。
「いらっしゃいませ。手前は店の主、喜平と申します。青慧様よりの書簡、確かに頂戴いたしました。どうぞ、奥にお上がりくださいませ」
この店は、店員の着ているものこそ中華風ではあったが、ほかはいわゆる和風だった。
白木の建物、紙を張った障子、廊下の右手は飛び石と小さな池、苔が地面を彩り、松や梅に似た木々が植えられている。
そうして案内されたのは奥の座敷で、ハナには馴染み深い畳張りの一室だった。
「さ、どうぞ」
「失礼します。藍華、ここへ座って」
ハナは一礼して座布団の上に座った。戸惑ったような顔の藍華に、笑って手招きした。
「どうぞ足をおくずしになって、お楽になさってください」
喜平はにこにこ笑いながら言うと、番頭が持ってきた葛篭の蓋をあけた。取り出したのは大小の巻き紙や冊子だった。
青慧の書簡に何が書かれてあったものか、彼は巻かれた紙には目もくれず、掌におさまるほどの冊子を、すっとハナの膝元に押しやった。
「……この国を見聞されるなら、こちらのほうが使いやすかろうと思います」
ハナは冊子を開いた。
「おお……」
アイオリア・ガナが思わず呟く。
折りたたまれた地図には、ホウライヌ全土の街道や町がしるされ、山河もこまかに書かれていた。目指す北は森林と湖が点在しており、町などはないようだった。
そしてもう一つ差し出されたのは、いわゆる世界地図だった。ホウライヌを中心に、国々が紙面に広がっている。国名と首都や諸大都市の名とおもな街道が細密に描かれ、海上にはなんと航路までが記され、距離と日数までが記されていた。
「これで十分です。ありがとうございます。これはおいくらですか?」
ハナは満足そうに頷いて店の主に問うたが、彼は首を振った。
「どうぞ、両方ともそのままお持ちくださいませ」
「しかし、それでは……」
「よろしいのです。……青慧様への、せめてものご恩返しになるのでしたら」
不思議そうな顔をしたハナに、喜平は恥ずかしそうに笑って言った。
「……わたくしが今こうして生きていられるのは、青慧様のおかげなのです」
四十年ほど前、彼の故郷を襲った大きな地震は津波を起こし、多くの人と家屋を土砂もろとも巻き込んでいった。彼もその波にまきこまれた一人だった。目が覚めたとき、どこをどう流されてきたのか、見知らぬ国の船乗りに助けられ、船に乗り合わせていた青慧に手当てを受けていたのである。
船乗り達の喋る言葉はわからなかったが、青慧は喜平の国の言葉を知っていたようで、さまざまなことを教えてくれたという。
「……十年かけて言葉を学びながら、商売の方法も覚えて、三十年ほど前、青慧様が便宜を図ってくださり、この国で店を開くことができたのです」
そうして、喜平は商売の才覚をめきめきと伸ばし、現在ではこの界隈随一の大店として知られるまでになったのである。そうして、彼は笑いながら 「道楽ですが」 と、名を馳せるようになってから、少しずつ己の身の回りを故郷と同じような様式に変えてきたのだと言った。
話を聞くうち、ハナはひとつの懸念を抱いた。このひとはひょっとして自分と同じ国の人間ではないのかと……。おまけにこの純和風の座敷や庭である。だが、頭の中で歴史年表を思い浮かべようとしても、四十年前に多くの死者をだしたという地震があったのかどうか、どうしても思い出すことはできなかった。
喜平は懐かしそうにほっこりと微笑むと、
「光陰矢の如しとはよく言ったものですが……。あのころ三十路そこそこといったお年でしたから、青慧様もずいぶんなご高齢のはずですが、お元気そうでなによりでした。どうか、お帰りになった際には、よろしくお伝えくださいませ」
「はい。伝えます」
ハナはすかさず応え、にっこりと笑った――引きつりそうになる頬の筋肉を叱咤激励して――
早々に旅発つという一行を、惜しむように見送ってくれる店主と番頭に手をふり、四人は一路、北を目指して歩きはじめた。
店主が言うには、この先の町に借り馬屋があるという。その近くには牧場があり、馬の売買もおこなわれているらしい。喜平はわざわざ紹介状まで書いてハナに渡してくれた。
ホウライヌの守人の一族が住む森は、国の最北にある。馬の脚でもどれほどかかるのか、考えると溜息が出そうだった。
であればこそ――。
幼い子供達や港で彼らを見送った船員たちの顔が、ハナの脳裏をよぎる。
(……しばらくしたら……)
心中で呟いたとき、
「……あの商人は、何か思い違いをしているのでは……?」
アイオリア・ガナは訝しげな表情でハナに問い掛けてきた。
「え……」
問いの意味を瞬時に悟ったハナは、誤魔化そうと笑いかけたが、アイオリア・ガナはじめとする光麟や藍華までが自分を注視しているのを見て、溜息をついた。
光麟はともかく、アイオリア・ガナも藍華も青慧を見知っている。一見、三十そこそこにしか見えない青慧が、四十年前にあの店の主を助けたのだとすれば、 「青慧」 という名の別の人物であると思うのが普通だ。あるいは、水華蓮の神祇庁長官は代々 「青慧」 と名乗るのか……
ふと、この世界に再び放り込まれたときに聞いたターガナーダの話を思い出した。
「……たぶん、思い違いではないと思います………ちょっと前に、参謀長官殿が言ってたんですけど、千年前の水華蓮の宰相と神祇庁長官の肖像画を見たそうです。……千年前の神祇長官は青慧さんそっくりで、しかも、「青慧」 というんだそうですよ」
「………………」
遠く、小さな町が見え始めたころには日は傾き始め、空も大地も茜色に染まっていた。




