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第2話 英雄の目を奪うは



 北方ヴォルカ連邦は厳しい冬を前に勝利の確信を得ていた。時間稼ぎのために軟弱な南パルメが弱腰にちまちまと散弾を撃ってくるのは震える子猫の威嚇のようだ。ツァーレラ平野にまばらに掘られた塹壕に上手いこと砲弾を当てて、怯えた兵士が飛び出してくるのは狙撃のいい的になる。白旗をあげて命乞いをする者を捕虜にしてやるか嬲り殺すかを選ぶ時間ほど楽しいものはなかった。



 マルコフ・バリヤーニャ少尉は20歳にして北方ヴォルカ連邦国陸軍東部騎兵隊の第6中隊長補佐を務めている。これは彼が北方ヴォルカ連邦防衛の要となっている東バリヤナ城塞総督の甥であることが大きく影響しているが、彼の軍人としての優秀さや功績、評判はそれに申し分ないものと言えるだろう。

 マルコフは2メートル近い背に分厚い身体、冷たい色の瞳をした礼儀正しく勇敢な戦士である。そして彼は、いまだ戦場で続く無意味な惨劇に心を痛めていた。



 ヴォルカ連邦の勝利は覆りようがないというのに、どうして戦闘を…いや、殺戮を続けなくてはならないのか。戦意を喪失した兵士を甚振ることは、マルコフには許容できない邪悪であった。

 昨日の夕刻、見事敵塹壕を破壊してさあ追撃だ、といったタイミングで霧が出てきたため、同士討ちを避けるという名目で撤退の命令を出せたのは少し気持ちが救われた。生き残った兵士たちがうまく逃げ出せていればいいのだが。



 朝になり霧が晴れ、部下たちに昨日破壊した塹壕の様子を確認させる。恐らく生存者はいないだろう。しかし、戻ってきた偵察班のチェレがいたく興奮した様子でマルコフたちのいる天幕まで報告に来た。

「報告します!生存者なし!しかし白狼が一匹、塹壕に居着いておるようです!」

氷狼の使いです、とチェレは続ける。チェレはヴォルカ連邦の土着信仰である氷狼神話の熱心な信奉者だ。そして彼はマルコフを救世の勇者と見做し、崇拝しているきらいがある。

 実際白狼は縁起物だが、どうすべきか思案していると、隣で黙って話を聞いていたディーチ中隊長がオホンと咳払いした。こういう時、彼はマルコフがなし崩しで部下に甘い決断するのを喜んで受け入れる。

「…では迎えに行くとしよう」

案内しろ、と命じるとチェレは飛び上がって喜んだ。そしてすぐさま天幕の外に飛び出し、待機させていた部下に馬を用意させる。ディーチ中隊長がマルコフの背中をポンと叩き、ぜひ私も白狼にお目にかかりたいな、と笑ってみせた。



 マルコフの愛馬、エカチェリーナは栗毛の牝馬だが、そこらの牡馬よりも立派な体格で愛情深く優しい。気が進まなそうなマルコフを励ますように、軽快な足取りでチェレたちの後を着いていく。塹壕に到着すると、現場に残っていたチェレ班の兵士3人が小さな白い狼を遠巻きに囲んで宥めているところだった。

「なんだ、子どもじゃないか」

少し肩透かしを食らった気持ちでエカチェリーナから降りると、チェレが鼻息荒く寄ってくる。

「ええ、ええ、しかし白狼には違いありません」

 二、三深呼吸をして息を整えたチェレは右手を胸元に当てて深々と子狼に向かい頭を下げる。すると子狼もこちらに気付いたらしく警戒した様子でこちらに振り向き、バウ!と勇ましく吠えた。そしてブルブルと体を震わせてから、兵士たちの隙間をすり抜けマルコフたちの方へ走ってくる。マルコフは身構えたが、子狼はそのままエカチェリーナの元まで走り抜けた。エカチェリーナの脚を咬まれては堪らないと咄嗟に手を伸ばすが、エカチェリーナと子狼は鼻を突き合わせて挨拶でもしている様子だった。後ろのチェレとその部下たちがおぉ!と小さく歓声を上げる。

 エカチェリーナとの挨拶が終わったのか、子狼はマルコフの周りをクルクルと歩き回りながら匂いを嗅いでいる。チェレはやはりやはり…と感心した様子で頷いた。よく見れば子狼の首元には白いスカーフのようなものが括り付けてある。何か書いてあるようだが…と目を凝らしていると、ブルル、とエカチェリーナが鼻を鳴らして前脚で地面をかいて見せた。これは背に乗れ、という意思表示だ。



 マルコフがエカチェリーナの背に乗り手綱を握ると、子狼はどこかへ誘導するように歩きはじめた。地面には断続的にソリを走らせたような跡が残っている。エカチェリーナは大人しくその後ろについて行った。さらに後ろにチェレたちもついて来ているが、馬の鼻息なのかチェレの鼻息なのかわからない荒い息が聞こえ、マルコフはズンと気まずい気持ちになった。

 この展開はチェレにとってあまりに都合が良い。救世の勇者が白狼に導かれる話は氷狼伝説に何編もあるのだ。マルコフはチェレに現人神のように扱われるのが全く本意でなかった。ディーチ中隊長も、マルコフを軍に引き入れた叔父も、軍の同期や中隊の部下たちも、チェレほどではないにせよ、マルコフに英雄のような振る舞いを期待している。マルコフは戦争でのし上がった勇者になど、なりたくないのに。



 幼い頃のマルコフは気弱で内気、庭で花や虫の観察をするのが好きだった。ヴォルカ連邦東部の穀倉地帯で育った彼は祖父母や両親の愛を受けてふくふくと育ち、やがてその体格や利発さを見込んだ叔父の手で軍学校に引き込まれた。もちろんそれは全くの好意であり、だからこそたちが悪かった。

 マルコフが思っているよりも遥かに、彼の英雄としての才覚は確かなものであった。あとは実績を積むだけだと、叔父は彼を様々な隊に入れ、いくつもの厳しい戦況を乗り越えさせてきた。当然これも彼ならできると信頼した上でのことだ。おかげさまでマルコフは満場一致で順調に出世している。だがマルコフの心はいつになっても、幼い妹をおぶって歩いた黄金の小麦畑に囚われていた。



 子狼の案内で塹壕の西方にある小さな森に辿り着いた。子狼はしばらくあたりを嗅ぎ回ると、こちらを振り向きまた歩きはじめる。エカチェリーナがブルルと鼻を鳴らして前脚を折るものだから、マルコフは彼女からおりて部下に手綱を預けた。森の中は低い枝や太い根が張っていて、エカチェリーナの体躯では満足に歩くのは厳しいだろう。マルコフ、チェレ、チェレ班から2人を連れて徒歩で森に入る。

 森の中を進むにつれ段々と霧が立ち込め、白い子狼は目を離すと霧に溶けてしまいそうだ。見失わぬように目を凝らしながら進むと、ふと子狼が立ち止まり「ワン!」と大きく吠えた。そして走り出し一気に加速してその姿が霧に消える。ワンワンと威勢のいい吠え声を頼りに後を追うと、急に霧が晴れた。



 「スターゲイザー号!スターゲイザー号だ!」

そこには南パルメ共和国軍の軍服を着た男が3人いた。子狼はまず向かって右側に転がっている男の顔を舐め、次は左側でぐったりと座り込んでいる男の顔を舐める。そして中央の男の顔も舐めると、その腕に抱かれて体を震わせ尻尾を振った。

「スターゲイザー号、きてくれたのか、本当に?」

子狼を抱く男は感極まった喜びの声をあげる。スターゲイザー号と呼ばれた子狼は彼らにいたく懐いているようだ。森に入ってから妙に押し黙ったままのチェレとその部下たちが騎銃を構えてマルコフの指示を待っている。



 ようやくこちらに気付いたらしい、子狼を抱いた男が顔をあげた。マルコフはその男と目が合い、その顔が喜色から憂色に変わるのを見た。男は子狼を腕からおろし、一歩前に出て膝をつき両手を上げる。ほか2人も黙ったままその場で両手を上げた。これは北方ヴォルカ連邦、南パルメ共和国の両国で共通の降伏のポーズだ。

 「私は、南パルメ共和国陸軍東部歩兵隊第17小隊ハリー・サプライ伍長であります。自分と自分の部下は、国際協約に基づいた降伏を求めます」

ハリーと名乗った男はマルコフの顔を伺うように見上げる。マルコフはチェレが引き金に指をかけているのをそっと制して、その求めに応えようとした。が、その前に子狼がマルコフたちに向かって唸り始める。



 「こ、こらスターゲイザー号……!」

ハリーは慌ててスターゲイザー号を抑え、ハッとしてその首に巻いていたハンカチーフを解いた。そしてそれを後方に投げ、また両手を上げる。

「この犬は我々とは関係のない、そう、無関係の犬です。どうかご容赦をお願いいたします。さあ、見知らぬ犬よ、どこにでも行くがいい」

 ハリーが遊んでいるとでも思ったのか、スターゲイザー号は後ろに投げられたハンカチーフまで走って咥え上げ、すぐさまハリーの腹に押し付けた。しかしハリーは両手を上げたまま、スターゲイザー号とは目も合わせない。それならば、とスターゲイザー号は後方でぐったりと両手を上げているアンバーにハンカチーフを渡そうとするが、アンバーもまた黙ったまま動かない。

 なに、まだここにはダンが転がっている。先ほどスターゲイザー号が顔を舐めた時の姿勢のまま、うつ伏せに転がって両手を上げているダンの右手に鼻を押し付ければ、彼はハンカチーフを受け取った。

「い、犬は俺たちの仲間だ!だが見逃してくれ!何の罪もない犬なんだ!」

 ダンは転がったままボロボロと泣きはじめ、スターゲイザー号が差し出した首にハンカチーフを巻いてやる。するとスターゲイザー号は気を良くしたのかブルブルと身を震わせた。そしてキャンキャンと鳴きながら、ダン・アンバー・ハリーの間をくるくると走り回り、それぞれの顔を舐めたり腹に鼻を押し付けたり飛び掛かってみせたりする。ダンはますます涙を流した。

「俺たちはどうなってもいいから、スターゲイザー号は許してくれ!」



 ダンが情けなくスターゲイザー号の命乞いをしている間、ハリーはマルコフと見つめあっていた。目の前の男は規格外に大きな身体といかにも北方連合らしい冷たい色をして、こちらを冷静に観察しているようだ。

 正直なところ空恐ろしいが、敵軍の怪我人と病人などという即処分されてもおかしくない我々がまだ生かされているということは、つけ入る隙があるのではないか。背後でアンバーが鼻を啜りはじめたのも、同情を誘う良い展開だと思った。



 ハリーの思惑は他所に、マルコフたちは事の様子に面食らっていた。氷狼の使いたる白狼が南パルメ兵に尻尾を振り、犬呼ばわりされている。長ったらしい妙な名前で呼ばれて喜ぶ様は彼らに大層可愛がられていたことの証左でもあるが、チェレのような熱心な氷狼伝説信者にとっては冒涜的所業とも言えるだろう。

 だがマルコフはそれともまた違った理由でハリーから目を離せないでいた。柔らかそうな栗色の髪、新緑を思わせる緑の瞳は甘く垂れ、しかしきりりと眉を釣り上げてこちらをまっすぐ見つめてくる。北方では見られない、少し日に焼けたような肌はその襟の下も同じ色なのだろうか。ふと邪な想像が頭を過り、マルコフは息を呑む。ハリーの後ろで泣き喚く兵士と、己の背後で不自然なほど沈黙しているチェレの存在がマルコフを正気に戻した。



 「北方ヴォルカ連邦国陸軍東部騎兵隊第6中隊長補佐、マルコフ・バリヤーニャ少尉だ。国際協約に基づき、貴官らの降伏を受諾する」

ハリーがほぅと息を吐いたのを見て、マルコフは言葉を続ける。

「勿論、その小さなお仲間も一緒に、だ」

それを聞いたハリーは目を見開き、這いつくばって泣き喚いていた男は沈黙し、ぐったりと啜り泣いていた男は初めて「スターゲイザー号も!」と声を張った。名を呼ばれたスターゲイザー号が高らかな吠え声をあげ、彼らの周りを駆け回る。

 マルコフは、ハリーが這いつくばっていた兵士を起こしてやる姿をぼんやりと眺めていた。骨折しているらしい男は未だぐずぐずと鼻を啜りながら、ハリーにされるがまま土や落ち葉をはらってもらっている。彼はさらに楽な姿勢で座らせてもらい、松葉杖のようなものを手元に寄せてもらい、と至れり尽くせりだ。

 ハリーはぐったりとした兵士の姿勢も正してやり、汗や涙で濡れた彼の顔をハンカチで拭ってやっている。その上、身を寄せ肩を抱き軽く背中を叩いてなにやら鼓舞のようなことまでしてやっていた。そして最後に自分も軍帽を被り直し、改めてこちらに向き直った。



 ハリーたち3人の姿勢が整い、スターゲイザー号もちょこんとお座りをする。マルコフは協約に基づいた権利の告知をし、この場で3人を正式な捕虜とした。高熱で足元がおぼつかないアンバーにはチェレの部下をあてがい、忙しなく走り回るスターゲイザー号はハリーが抱きかかえた状態で野営地まで連れて行くことになった。スターゲイザー号はハリーの首や顎を舐めたり、後ろに続くダンたちを眺めたりと上機嫌だ。

 よだれまみれになりながら、ハリーは一旦、この戦場における自分たちの戦争が終わったことを安堵した。次は虜囚としての待遇をどうやり過ごすか、だ。



 憂い顔のハリーにちらりと目をやり、マルコフは彼の笑顔をまた見られやしないかと浮ついた気持ちを振り払うのに難儀していた。



お読みいただきありがとうございました。

また筆が進みましたら更新いたします。

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