オープン
夜明け前の空気はまだ冷たかった
私は展望台の柵にもたれ
谷の下を望んでいた
雨実村の山の上にある小さな展望台
村の人が「雲見台」と呼ぶ場所だった
谷は白い雲で満たされている
雲海だった
山と山の間に
静かな海が広がっている様に見える
遠くの山の稜線が
その上に島のように浮かんでいた
東の空がゆっくり明るくなっていく
私は腕時計をみた
午前五時
今日は道の駅『雨実の里』の
オープンの日だった
村ではもう
準備が始まっているはずだ
直売所の野菜
旅館の女将の温かい甘酒
役場のテント
村の人たち
思い返すと色々なことがあった
田植え体験 移住希望者への説明
説明会 住民投票
僅かな票差での賛成
あの時 村は迷っていた
進むべきか
このままで良いのか
それでも 村は決めた
私は雲海を見つめていた
雲の下
診療所も
小中学校も
温泉旅館も
移動スーパーが来る広場も
そして今日 道の駅がオープンする
太陽が 山の稜線から顔を出した
その瞬間 雲海が黄金色に染まった
光がゆっくり雲の上を流れていく
私は小さく息をついた
その時後ろで車の停まる音がした
振り返ると
軽い足音が近づいてくる
「あれ…」
菫だった
少し驚いた顔で私を見る
「山中さん?」
「おはようございます」
私は軽く頭を下げた
菫は少し笑った
「こんなところで
会うとは思いませんでした」
「休みの日に たまに来るんです」
私は雲海を指した
「今日はよく見えます」
菫は柵の横に立ち 谷を見下ろした
しばらく何も言わない
雲海の上を
朝の光がゆっくり流れている
やがて菫が小さく言った
「…きれいですね」
「ええ」
雲の切れ間から 村の屋根が少し見えた
道路も 畑も
その向こうに 道の駅の建物も見える
まだ小さいがはっきり分かる
菫はその方向を見つめていた
「今日ですね」
「ええ」
短い会話だった
でも
二人とも同じことを考えている気がした
雲海が少しずつ薄くなり
谷のかたちが見えてくる
村の朝が始まる
菫が笑った
「そろそろ行かないと」
「そうですね」
二人は展望台を後にした
山道の下に 天実村がある
今日その村に新しい朝が来る
道の駅の前には新しい信号が設置された
三つ目の信号だ
旧小学校前は廃止になった
今 統合された小中学校前にある
そして 道の駅の前に新しく出来る
既に人が集まり始めている
テントの下では野菜の箱が並べられ
女将が湯気の立つ鍋を見ていた
軽トラが一台 また一台と入って来る
菫はその少し離れた場所に立っていた
画面には 既に配信の準備画面が映っている
指が少しだけ止まった 深く息を吸う
視線の先には道の駅の建物があった
まだ新しい木の匂いが残っている
ここまで色々なことがあった
説明会
反対の声
住民投票
僅差での賛成
そして今日
菫は小さく頷いた
「よし」
配信を開始する
画面に雨実村の朝が映る
少し緊張しながら 口を開いた
「おはようございます 雨実村です」
声が 思っていたより落ち着いていた
カメラをゆっくり動かす
並べられた野菜
湯気の立つ味噌汁
準備をしている人たち
誰かがこちらに気づいて軽く手を振った
菫も小さく振り返す
「今日 道の駅がオープンします」
言葉にして 少しだけ実感が湧いた
画面の中に 村の人たちが映っている
働いている人
準備している人
笑っている人
その中に自分もいる
コメントが流れ始めた
「おめでとうございます」
「行ってみたい」
「綺麗なところですね」
知らない名前が並ぶ
村の外の人たちだった
菫は少しだけ驚いた顔をした後
ゆっくりと頷いた
「ありがとうございます」
カメラを少し遠くへ向ける
山の向こうから 朝の光が差し込んでくる
その光が道の駅の屋根を照らしていた
菫は一瞬言葉を探した
そしてゆっくりと口を開く
「ここは小さな村です」
少しだけ 声が柔らかくなる
「不便なことも多いですけど」
言葉が途切れた
画面の中では 村の人が笑っている
野菜を並べている
火を起こしている
誰かが誰か二こっをかけている
菫は その光景を見つめた
「でも 暮らしていける村です」
その言葉は自然に出てきた
カメラを戻す
自分の手が少し震えているのが分かった
それでもしっかり持ち直す
「よかったら来てください」
そう言って少し笑った
画面の向こうにいる誰かに向けて
そして同時にここにいる人たちに向けて
道の駅の前で拍手が起きた
開店の時間だった
菫はその音を少しだけ遠くに聞きながら
カメラを塩の方向に向けた
新しい一日が始まっていた
朝八時
まだシャッターは閉まっているのに
駐車所には既に車が並び始めていた
近隣市町村のナンバー
想像より多い
「…来てますね」
菫が少し驚く 私は小さく息を吐く
「ありがたいな」
シャッターが上がる 拍手
控えめだが確かな祝福 人が流れ込む
直売コーナーへ
カフェへ
軽食スペースへ
苺は午前中で半分が売れる
みかんも想定より早い
和菓子店主が言う
「これは忙しくなるぞ」
軽食コーナーから湯気が立ちのぼる
子供がソフトクリームを持って笑う
正午前
駐車場はほぼ満車
交通整理に出ていた私は眉があがっている
「予想以上やな」
菫は走り回っている
案内 説明 取材対応
診療所の所長も顔を出す
「立派になったな」
葵は休憩時間に制服姿で立ち寄る
菫と目が合う 小さく頷く
それだけで十分だった
午後二時過ぎ
駐車場出入り口付近で
思いがけない渋滞が発生した
私だけでは手に負えない
誰かが電話したのか
直ぐに駐在のお巡りさんが到着し
交通整理を始めた
お巡りさんは苦笑いする
「仕事増やしやがって
俺はのんびり村の駐在だぞ
こんな仕事したことないんだぞ」
「交通渋滞…
俺がここに来て以来初めてや」
その言葉に
私は少しだけ笑う
「良い事ばかりではないですね」
渋滞は直ぐに整理され
大きな混乱にはならない 人の流れは戻る
三時を過ぎると
客足は少し落ち着く 多目的スペースでは
高齢の夫婦がゆっくりお茶を飲んでいる
子供が床に座ってお菓子を食べる
「前より 村に人おるな」
そんな声が聞こえる
出店者たちの顔に 疲労と安堵が混ざる
夕方
シャッターがゆっくり下りる
売上は 想定を大きく上回っていた
誰かが大きく喜ぶわけではない
でも 全員が静かに頷く
「いけそうやな」
みかん農家が言う
「続けられそうや」
和菓子店主が言う
外に出る
駐車場は空に戻っている
さっきまでの喧騒が 夢のようだ
菫が言う
「怖かったですけど…」
私が続ける
「やれたな」
人の気配はあるはずなのに
音だけが遠くにあるように感じる
誰かが何かを話している
その言葉ははっきり聞こえてこない
自分の呼吸だけがゆっくり戻って来る
視線を見上げると
見慣れた村の風景があった
役場の明かり
その向こうに幾つかの家の灯り
特別なものはない
いつも通りの風景だった
それでも同じ様には思えない
何かが変わったのか分からない
大きく何かが変わったわけでも
ないのかもしれない
それでも確かに昨日までとは違う
場所に立っている気がする
夜の空気が解けていく
遠くで車のエンジン音が響く
やがてそれも消える静かな夜だった
その静けさの中で
村はいつも通り続いている
若者たちの未来も
それぞれ動き出している
渋滞が起きるほど人が来た
それは この村にとって
新しい現実だった
風がやわらかい
建物は もう特別ではない
今日から ここは日常になる
村に新しい灯りが生まれた




