第93話 老婆
「どういうことですか?」
俺の声は震えていた。
一瞬の間。
口の中が、急速に乾いていく。
すると、老婆は笑った。
「あ、私は1番上の階に住んでるんだけど、新築から住んでるから色々と耳に入ってね。昔話だし、気にしないで」
老婆はそう言うと、立ち去ろうとした。
物件に問題がある場合、近隣住人が話したがらないケースは多い。理由は、自分の家にも延焼して売りづらくなるからだ。
だが、知ってしまった以上。
このままにはできない。
「すいません。少し教えてもらえませんか? 葛城。菓子折りをお渡しして」
「あっ、はい。これどうぞ」
葛城は紙袋から菓子折りを出すと、両手で持って老婆に渡した。
リフォームの挨拶まわり用だったが、準備していて良かった。
「あらまぁ。可愛いお嬢さんだこと。ありがとうね」
老婆は菓子折りを受け取ると、裏返してシールを見た。
「それで、どんなお話なんですか?」
俺は胸ポケットのボールペンを引き抜いた。
「もう40年近く前のことだからね。私以外に知ってる人はいないと思うんだけど。実はね。建設中に、首吊り自殺があったんだよ」
「亡くなったのは住人の方ですか?」
「建設中って言っただろ? 死んだのは作業員」
「どこの部屋でですか?」
手汗でボールペンが湿る。
「バルコニー側の墓地に桜の大木が見えるだろ? あそこだよ。まぁ、完成前のことだからね」
「ニュースにもなったんですか?」
「すぐに発見されたみたいだし、ニュースにはなってないよ。知らないまま入居した人も多いんじゃないかな」
墓地の塀の向こうにある大木か。
……敷地外だ。
俺はボールペンを何回か回した。
「そろそろ宅配が届くんだけど、もう行っていいかい?」
老婆はそう言うと、菓子折りを手提げに入れた。
「お引き止めして申し訳ありません。これ、私の名刺です。差し支えなければ、お名前と部屋番をお伺いしてもいいですか? ほら、葛城。お菓子をもう一つお渡しして」
「あっ、そういえば……」
老婆が何かを言いかける。
「そういえば?」
「ん? あぁ。なんでもないよ」
老婆は追加のお菓子を受け取ると、笑顔でそう言った。
「あっ、これに入れてください」
葛城が老舗の紙袋を渡すと、老婆は更に上機嫌になって戻って行った。
「大変なことになっちゃいましたね」
葛城は紙袋を抱きしめた。
「そうだな」
「こう言う場合って、管理人室に行って詳しく聞いた方がいいんですか?」
俺は顎を撫でた。
ジョリジョリとした感触。
40年前。竣工前。
非住人。敷地外。
「いや、竣工前の敷地外の出来事だし。とりあえず、今日のところはここまでで良いや」
知るということは、それだけ告知義務のリスクを負うということだ。不動産では、知りたがり屋さんが得をするとは限らない。
「心理的瑕疵ですよね?」
葛城が首を傾げた。
「今回は当たらないかな。たぶんだけど」
「基準はあるんですか?」
「それが、はっきりとしたルールはないんだよ」
「それじゃ、何も分からないです。教えてください」
葛城の顔は真剣だった。
「……いつ起きたか、どこで起きたか、誰が死んだか、どのような状況だったか、周知の事実か。そのあたりから個別判断するしかない」
「それって、めっちゃ酷くないですか? 『法定速度が決まってないのに、危ない運転はスピード違反で捕まえます』みたいな感じ」
「たしかにそうかもな。だから、ダメだった事例を参考にして推測するしかないんだよ。一般には、敷地外、20年以上経過は、告知義務がないと判断される傾向にある」
「ふーん。曖昧ですね」
葛城は不満そうな顔をした。
駅に向かって歩き出す。
ツン。
葛城が袖を引っ張った。
「それで先輩は、これからあの可愛いチビロリ巨乳の弁護士さんと2人きりで会うんですか?」
「あぁ、そのつもりだけど」
「あの人、絶対に欲求不満ですよ。先輩を見る目が潤んでましたもん。先輩、不倫は良くないです。危ないからキャンセルしてください」
葛城は口を尖らせた。
その姿が桜藍と被る。
「俺、独身なんだけどな」
すると、葛城はブンブンと首を横に振った。
俺は顎に触れた。
桜藍がいなくてすごく寂しい。
家に1人でいるのが辛い。
正直、今の俺は桜藍がいなくて不安定だ。
睦月は結構、可愛い。
好意をもってくれている。
快楽に流されれば、この寂しさは楽になる。
残念なことに俺は経験から、そのことを知っている。
間違いが起きないとは言い切れない……か。
「そうか。じゃあ、葛城も来るか?」
「奢りですか?」
葛城の口が綻ぶ。
「あぁ。また焼肉屋だけどな。あ、極上カルビは禁止で」
「ええーっ。先輩のケチ!」
「お前なぁ。この前の会計、5万超えしたんだぞ?!」
「ふふっ。後輩思いの先輩はポイント高いですよ?」
葛城の足取りは軽かった。




