第78話 騒音
「そんな約束、できるわけないじゃないですか」
管理人は忙しなく足を揺すった。
「じゃあせめて、特別総会で配管工事の議案を上提してください」
すると谷川が口を出した。
「大規模修繕は、直近の総会で否決したんだ。そんなことができるわけない」
この人じゃ埒が開かない。
「じゃあ、直談判しますんで、理事長の家を教えてください」
「ここだよ」
「……え?」
「谷川さんが理事長なんです」
管理人は谷川の顔をチラチラ見ながら、そう言った。
「そ、そうなんですか」
俺は言葉に詰まってしまった。
つまり、あれだ。
理事長も敵ってことだ。
この人が谷川なんだよな。こういう場合、普通は真上の住人に文句を言うのが筋だ。
そして、上の人も谷川。
ただの偶然?
上の住人に直接聞くのが一番早い。
「じゃあ、私が上の住人に掛け合うんで」
「ち、ち、ちょっと」
理事長は、俺の手首を掴んだ。
「そんなに上の人と話されたくないんですか? むしろ気になるんですが」
すると。
ドンドンッ。
ドンドンドンッ。
天井の上から叩きつけるような音。
「あの、何か聞こえるんですが?」
ダンダダン。
ダンッ。
踏みつけるような音に変わった。
「ババァ。飯持ってこいっ!」
ベランダの外から叫び声。
谷川は耳を塞いでうずくまった。
ガチャリ。
閉じていた和室のドアが開いた。
お盆を持った高齢の女性だ。
俺たちのことを一瞥することもなく、早足で玄関から出て行った。
「あ、あの。今のって」
「うるさい。お前らには関係ない」
谷川の声は、震えていた。
「いや、関係ありますよ。うちの物件のお向かいさんなんですから」
すると、管理人が谷川の肩を叩いた。
「理事長。話した方が」
ドンドン。
ガシャン。
階上から絶え間なく音がする。
谷川はそのたびにビクッとなった。
音がしなくなると、肩を落とした。
「実は、上に住んでいるのは、一人息子なんだよ」
今日は平日だ。
「失礼ですけど、ご子息のお仕事は?」
谷川は首を横に振った。
「働いてたら、あんな非常識にはならんよ」
「じゃあ、漏水も息子さんの家なのでは?」
「私も息子に聞いたさ。でも、『知らねぇ。殺すぞ』の一点張りでね」
「見て確認したんですか?」
谷川は、さらにうなだれた。
「あの家に一歩でも踏み入れたら、私も母さんも本当に殺される」
すると、奥さんが戻ってきた。
俺たちを一瞥すると、お盆を両手で抱えた。
「あの子は、世間に裏切られた可哀想な子。ご飯も全部食べてくれる優しい子なの。それに、水を出しっぱなしになんてしてません。わたし見ましたから」
あの表情、見覚えがある。
あぁ、そうだ。
俺が父さんと喧嘩すると、うちの母さんもあんな顔をしていたっけ。
谷川の方を見ると、膝を抱えたままだった。
——今日はこれ以上は無理か。
「今日のところは私達は帰らせていただきますので。上提の件、くれぐれも宜しくお願いします」
キーボックスに鍵を戻して、俺たちは物件を後にした。
「じゃあ、戻ろう」
葛城は頷いた。
♦︎
戻りの電車。
ドアのあたりで大学生くらいの女の子たちが騒いでる。
葛城は、その様子をぼんやり眺めている。
「葛城もあんな女子大生だったの?」
葛城は口を尖らせた。
「過去形にしないでください。まだ名残はありますから!」
「悪い」
ガタンッ。
レールの継ぎ目で電車が揺れた。
葛城と肩が当たった。
「先輩はどんな大学生だったんですか?」
「俺、親と仲が悪くてさ。話すと喧嘩ばっかりで」
「へぇ。めっちゃ温厚そうなのに」
葛城は俺の顔を覗き込んだ。
「まあ、多分変わったんだよ。ここ数ヶ月で」
「ふうーん。例の年下彼女ですか?」
「例のって。前に否定したでしょ」
「それでウチに就職したんですか?」
「いや、卒業して半年くらいかな。のらりくらり生きてて。ある時、親父と大喧嘩」
「それで?」
「いや、ぶっとばされてさ。無理矢理、追い出されたよ。あの時は『こいつ、血も涙もねーな』って。ぶっちゃけ、恨んだ」
俺が笑うと、葛城が言った。
「ふぅーん。それって、『プチ引きこもり』だったってことですね?」
たしかに。
あの時、父さんに追い出されなかったら?
もし、俺が喧嘩に勝ってしまっていたら?
——俺はどうなってたんだろう。
今でも実家にいて。
就職もしてなくて。
もしかすると、事あるごとに両親に当たり散らしてたのかな。
そんな未来が絶対になかった、とは言えない。
『池袋駅〜』
「あっ、つきましたよ。ねっ、今日、歓迎会してくれるってホントですか?」
葛城はバッグを肩にかけなおした。
「そんな大それたもんじゃないけどな。この時間ならまだ皆んないるし、適当に誘って軽く気晴らししよーぜ、的な?」
「……ありがとうございます」
葛城が笑った。
すごく幸せそうな顔だ。
♦︎
19:30。
「戻りましたー!」
俺も葛城は、会社の通用口を開けた。
「あれ?」
すると、オフィスは暗くて。
誰も居なかった。
「これって、わたしは歓迎されていないってことですか?」
暗くて葛城の顔は見えない。
でも、随分と声が小さかった。
「あー、ごめん。今日は、『早く帰ろうデー』だったのすっかり忘れてた」
そんなのがあったような気がする。
「ふぅーん」
葛城の声が低い。
やばい。
明らかにいじけている。
「仕方ないから、2人で打ち上げするか? 人数もいないし、良い肉おごってやるからさ」
気づけばそう言っていた。




