第71話 返答
桜藍の目が赤い。
「なんでそんなこというの?」
「ううん。行くべきだ」
俺は、そう言いながら打ちのめされていた。
♦︎♦︎♦︎
その日の朝。
「仕事から帰ってきたら、桜藍の叔父さんのこと、話し合おう」
「はい」
桜藍は口数が少なかった。
会社では、ふわふわとした気分だった。
相変わらず生々しい怒号が飛び交っていたが、我関せずと、仕事をこなす。
すると、永瀬課長に紙を渡された。
「山路くん、顧客からのフィードバック届いてるよ。ワンニャンマンションも売れて、インセンティブも楽しみだね」
紙はアンケートだった。
千晴さんだ。
最後には『ありがとうございました』の文字と可愛らしいシール。俺はアンケートを2つに折って、クリアファイルに入れた。
これ、取っておこう。
「課長。再販部のインセンティブってどれくらいなんですか?」
「利益の10%だよ。ワンニャンだったら利益が980万だから……」
課長は電卓を叩いて俺のデスクに置いた。
「どう? 不動産、やみつきになるだろ?」
課長はそう言うと去っていった。
電卓には『981,000』の数字。
毎月一件とはいかないが、前の会社とは桁が一つ違う。
薄利物件でこれか。
これなら桜藍が大学生になっても。
いやむしろ、専業主婦でも、俺の収入だけでやっていける。
「ちがう、そういうことじゃないだろ」
俺は首を何度も振った。
♦︎
「ただいま」
自宅のドアをあけると、エプロン姿の桜藍が待っていてくれた。俺の鞄を受け取ると、笑顔で「お疲れ様です」。
家の中からは、出汁の匂い。
心地いい時間。
(このまま時間が止まって欲しい)
桜藍はいつも通りに見えた。
「今日は鍋? 久しぶりだよ」
「喜んでもらえて良かった。わたしも久しぶりです」
桜藍は、菜箸で具を整えた。
鍋が沸騰して、シャケと椎茸が揺れている。
俺は桜藍の顔を見た。
「春馬さんは、お豆腐が苦手でしたよね?」
桜藍が小鉢に具を取り分けてくれた。
「子供の頃ね。今は好きではないけど、食べられるよ」
俺は小鉢を受け取った。
「お家では、春馬さんは好きなものだけ食べてください」
俺はまた桜藍を見た。
話すべき事があるのに。
なかなか切り出せない。
「ごちそうさま」
俺が皿を洗って、桜藍が拭いてくれる。
すると、桜藍が手を止めた。
「あの。叔父さんの事なんですけれど」
「うん」
俺の答えは決まっている。
でも、それをどう伝えたらいいか分からない。
「わたし、行くのやめました」
「え?」
「よく考えたら、日本にいても勉強はできるし」
頭の中に桜藍の声が響く。
世界が遠くなる。
「それに、もし大学行かなかったとしても、結婚して子供が生まれて。そういうのもいいかなって」
「……」
「ねっ? 春馬さん?」
桜藍が俺の肩甲骨のあたりに触れた。
「どう……かな?」
不安そうな声。
幸せな生活の夢。
——得べかりし幸せの未練。
その顔をみて、千晴さんを思い出した。
最近、ずっと悩んでいた。
でも答えは、きっと最初から決まっていた。
「行きなよ」
その言葉に桜藍の目が大きく開いて、瞳が揺れた。
一瞬、瞳の揺れが止まる。
その後は、みるみる赤くなった。
「なんでそんなこというの?」
桜藍の声は、媚びるようだった。
この声。
始めて会った時の声だ。
『山路さらん。漢字は、お花の桜に、青色の藍。『桜藍』です』、『パパとママのおうちから離れたくない……です』
あの日の俺は、この子に『出ていって』と言った。桜藍の目も声も、今でもはっきり覚えている。
息が浅い。
血の中の酸素が足りていない。
でも、言うしかない。
唇が震える。
声をかき集めて、絞り出した。
「桜藍はイギリスに行くべきだ」
俺は、自分の言葉に打ちのめされた。




