第68話 額
『行かないで』
何度も口まで出かけて、飲み込んだ。
結局、俺は何も答えられなかった。
桜藍は、ずっと俺の背中にくっついていた。
背中に耳を押し当てて、答えを聞いてくることはなかった。
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いつの間にか寝てしまったらしい。
起きると、瞼がくっついていて、目が開かなかった。
もう外が明るい。
振り向くと桜藍がいた。
気持ちよさそうに寝ている。
そういえば、熟睡している桜藍の寝顔を見るのは、初めてかも知れない。
しばらく寝顔を見ていると、桜藍が片目だけ開いた。
「……いつまで見ているんですか?」
「起きてたの?」
「はい。でも、じーっと見られていて、起きるタイミングがなくなっちゃいました」
「そっか。ごめん」
「いえ……」
桜藍と目が合った。
「昨日のことなんだけど、少し考えさせてもらってもいいかな?」
「うん」
桜藍はイルカをたぐりよせて、抱きしめた。
「あのさ。返答に期限とかあるのかな?」
イルカが、ぎゅうって歪む。
「月末までに決めて欲しいって。もし行くなら、早い方がいいって言われました」
月末?
思ったよりずっと早い。
「大学うけるなら、受験もあるだろうしね。でも、ちょっと早い……かな」
早すぎるよ。
そう思うと、心臓の鼓動がどんどん大きくなって、最後は指先まで伝わった。
「うん」
毛布の中がいつもより暖かい。
俺は桜藍の体温を手放したくなくて、毛布に潜り込んだ。
また目が合った。
桜藍が微笑む。
「昨日の江ノ島、楽しかったね」
「そうだな。2人で撮った写真、送ってよ」
桜藍はスマホに手を伸ばした。
すると、半袖の隙間から白い肌が見えた。
「あのさ、桜藍。もしかして、下着、着てない?」
すると、桜藍はイルカの陰に顔を隠した。
「内緒です」
なんだか気まずい。
余計なことを言ったかな。
でも、もし着てないのが、わざとだったとしたら。桜藍に恥をかかせてしまったのだろうか。
「ごめん」
「なんで謝るの?」
桜藍が首を傾げた。
銀色の髪が動く。
「いや、なんとなく」
俺はイルカの尻尾を掴んだ。
尻尾はふわふわしていて、温かかった。
桜藍のこと、ちゃんと考えないと。
「あのさ、桜藍。俺、ちゃんと考えて答えを出すから。その時には、桜藍がどうしたいかも教えて欲しい」
桜藍は頷いた。
「わたし、朝ごはんの準備してきますね」
「今日くらい、さぼっていいのに。昼くらいにデリバリー頼んでもいいし」
「いえ。ご飯を作るのは、わたしの役目だし。それに、作りたいんです」
桜藍はそう言うと、毛布から抜け出した。
チラリと俺のことを見る。
「春馬さんは、もう少しゆっくりしててくださいね」
「サンキュー」
「あっ、春馬さん。お仕事は?」
俺は時計を指差した。
9:45。
「もう大遅刻だし、今日はサボり」
「そっか。ごめんなさい。あっ、会社に連絡は? しづらかったら、わたしが電話しようか?」
「って、桜藍って俺のママだったの?」
「妹です……ブラコンの」
桜藍はぺろっと舌を出して、部屋のドアをしめた。
俺はイルカを抱きしめた。
(どうしよう)
「ううぅ……」
今頃になって感情が溢れ出る。
顔を擦り付けると、イルカが冷たくなった。
イルカのお腹が涙で濡れて変色している。
俺はイルカのタグを見た。
「ポリエステル100%? もっとちゃんと吸い取ってよ」
俺は腕を額に置いた。




