第1話 桜藍。
「お疲れ様でした!」
会社を出て腕時計を見る。
『21:33』
「課長、俺に決裁印まで押させるとか、あり得ない。……もう約束の時間を過ぎてるし」
これから彼女と会う約束をしている。
柚子から誘われた。
彼女から誘ってくれるのは、珍しい。
だから、睡眠時間を削って残業して。
なんとか時間を作った。
「付き合ってもう8年か。俺も今年で30。そろそろ結婚の話とか、普通にありだよね」
俺はギュッと拳を握った。
走って待ち合わせ場所に向かう。
仕事が忙しくて、柚子にはあまり会えない。
だから今日は、たくさん話そう。
♦︎
22:15。
待ち合わせの噴水。
「遅刻だ。まだ待っててくれる……よね」
俺は辺りを見回した。
「あっ、柚子」
噴水の向こうに後ろ姿。
華奢な背中に、長い髪が揺れる。
ワンピースからのぞく足首には、サンダルの銀の金具が光っていた。
「柚子ちゃん! ごめん。遅れた」
「春馬? 遅いよ」
柚子が振り向く。
聞き慣れた柚子の声。
だけれど、その顔に笑みはない。
「……えっ?」
俺は自分の目を疑った。
柚子の腕が、知らない男に絡まっている。
ツーブロックの茶髪をワックスで上げて、高身長にシルクっぽいスーツ。見るからのハイスペ男子。
「遅い。すごく失礼なんだけど」
いつもより低い柚子の声。
「ごめん。転んでスーツケースが開いちゃって、困ってる子がいてさ」
スルーしようと思ったが、放っておけなかった。
「つまらない言い訳。まぁ、いいよ。どうせ最後だし」
柚子は肩をすくめた。
「最後……?」
雑踏が遠ざかっていく。
ドクン。
心臓が唸って、頭の中がグルグルして。
ようやく理解した。
——あぁ。そういうことか。
俺ら、これから終わるんだ。
指先から力が抜けていく。
でも。
なんで?
視線を戻すと、柚子は微笑んだ。
「ようやく分かった? 鈍い人」
「その男は誰だよ」
俺は、震える声を押し出した。
ポケットの中でギュッと拳を握っていた。
柚子は男に寄り添った。
唇の端が、歪んで上がった。
「この人? 涼君。外資のコンサルしてるの。お洒落なお店も知ってるし、あなたと違って素敵っていうか」
「なんで? だって、俺ら愛し合ってたじゃん。この前あげた指輪だって『素敵』って喜んでくれたし」
無理してプレゼントした指輪。
何度も店に足を運んで、結婚後も使えるようなデザインを選んだ。
「あのねぇ。あんな既製品は『素敵』くらいしか褒めようがないのよ。わたしなりの精一杯の優しさ」
柚子が手を上げると、薬指の指輪が光った。
知らない指輪だ。
「この指輪は涼君からのプレゼント。ハイブランドの一点物。自分の身の程が分かった?」
コンサル男が笑った。
甲高い声が頭蓋まで響く。
俺は歯軋りをした。
ぶちぶちと唇が切れて、口の中に血の味が広がる。
「柚子ちゃん。浮気して……たの?」
俺の声、震えてる。
「浮気? 違うよ。涼君が本気で、春馬が浮気。来月、涼君と結婚式するの」
「……結婚式?」
「ごめんね。彼のご両親も来るし、あなたは誘えない……かな」
ザーッ。
噴水から水が噴き出した。
……は??
この女、俺を裏切ってたってことだよな?
乾いた舌が、口の裏に張り付く。
「柚子ちゃん。なんとか考えて直してくれないかな? せめて式の延期とか。お願い。時間があれば、俺も絶対に変わるから」
媚びた声。
コメツキバッタかよ。
自分でも情けない。
すると、柚子は笑いながらお腹をさすった。
「絶対に無理。わたし、赤ちゃんできたんだ。お腹が大きくなる前にドレス着たいし」
「子供って……」
「あっ、あなたの子じゃないから! キモい勘違いしないでよね。ねっ、涼君。わたし、この男とはずっとヤッてないからね?」
柚子は縋るように涼を見上げる。
涼はせせら笑うと、柚子の尻を鷲掴みにした。
視界には、涼に媚びる柚子。
この男と『ヤッてる』俺の彼女。
頭の中で、柚子との思い出が浮かんでは消えていく。
初めて繋いだ手の感触。
笑顔、泣き顔。怒り顔。
『春馬だけだから』
かつての柚子の声。
それはまるで古い映画を見ているようで、涙が溢れて止まらない。
俺には柚子しかいない。
それなのに、それすら盗まれるのか……?
いや、きっと。
最初から、俺のじゃなかったんだ。
「ひひっ」
噛み締めた歯の間から、笑いが漏れた。
「なにコイツ。気持ち悪い。涼君、もういこうよ」
柚子はそう言って、俺に背を向けた。
涼は俺を冷たい視線で眺めると、最後にそれを柚子に向けた。
「コレはボクがもらうから」
涼が呟いた。
ふわっ。
去り際に花のような匂い。
——前の柚子は、甘い林檎の香りだったのに。
匂いが変わっていた。
俺の知らない、あの男の匂い。
ほんと、最低だ。
俺は跪いて、地面をバンバンと叩いた。
「ひひっ。あはははっ!」
笑いが止まらない。
どいつもこいつも俺を裏切る。
だったら一層のこと——。
こんな世界、滅んでしまえ。
♦︎♦︎♦︎
ピンポーン。
インターフォンの音。
ドンドンッ。
誰かがドアを叩く。
「山路さん、いるんでしょ? 家賃、払ってもらわないと困るんだけど」
(あぁ、大家か)
柚子に捨てられた後。
俺は会社に行けなくなった。
いじめられても、どつかれても。
柚子のために頑張ってきたのに。
無意味だった。
会社に行けなくなってすぐに、課長の決裁不備による大損害が露見した。すると課長は、全部の責任を俺に押し付けた。
トカゲの尻尾切り。
俺は、あっけなく解雇された。
——外が怖い。
俺は家から出られなくなった。
部屋は臭くて、流しには食べかけカップラーメン。テーブルの上には、擦り切れた財布。
俺はベッドから叫んだ。
「すいません。来月の給料で必ず払いますんで」
あるはずもない来月の給料を言い訳にして、その場を言い逃れた。
「必ずお願いしますよ、ほんと」
大家の声が遠ざかっていく。
「はぁ」
俺はまたベッドでうずくまった。
財布を開く。
百円玉が3枚に一円玉が数枚。
急に目がしょぼしょぼして。
何度もまばたきした。
「……もう無理」
キッチンの果物ナイフ。
刃を首に当てると、ひんやりしていた。
「もし生まれ変わったら、俺を裏切らない女の子に出会いたい。そうしたら俺だって……」
ピロピロピロリンッ。
スマホから陽気な電子音。
ガチャン。
俺はハッとして、天板にナイフを投げつけた。
スマホを見た。
着信が十数件。
履歴を見ていくと、その中に見覚えがある番号があった。
叔父の電話番号だ。
何度もかかってきている。
俺は両親と不仲だ。
飛び出してからは、まともに連絡もとっていない。
「……実家に何かあったのかな?」
スマホを持つ指が震える。
俺は何度かロック解除に失敗して、ようやく掛け直した。
叔父はすぐに出た。
「もしもし、春馬か?! 何度もかけたんだぞ!」
「ごめん。叔父さん。ちょっと体調が悪くて」
「今はどこだ? もう葬式がはじまるぞ?」
叔父の声に、悲壮感が増した。
「……え?」
「しっかりしろ。お前の親の葬式だよ! 両親のこと聞いてないのか?」
葬式?
俺の親の?
思考が追いつかない。
——死んだ。
俺の親は死んだ。
「おえっ」
激しい吐き気に襲われた。
「おえっじゃない! 長男のお前が喪主しなくてどうするんだよ! さらんちゃんにさせる気か? 喪服はあるか? すぐに来い!」
さらん?
誰だよ、それ。
俺は一人っ子だ。
すぐにメッセージがきた。そこに書かれていたのは、どこかのセレモニーホールの住所だった。
喪服を出すとカビていた。
雑巾で拭って、斎場へ急いだ。
途中、いくつも立て看板があった。
『山路家 葬儀会場』と書いてある。
山路。
自分の名前なのに、他人みたいだ。
斎場につくと、親族席に叔父さんと女の子が座っていた。
「叔父さん、すいません」
俺は空いている席に座った。
すると、叔父に膝を叩かれた。
「おい。さらんちゃんのこと無視するやつがあるか。お前がいなくて、ずっと不安だったんだぞ。可哀想だろう」
『さらん』と言われた少女は、俺の方を見ると、軽く頭を下げた。
灰色がかった瞳と髪の毛。
黒と白のセーラー服を着ている。
白磁のような肌。
物憂げな表情。
不謹慎にも、俺は思った。
——美しい。
叔父さんの子かな?
全然、似ていない。
遺影の前には棺桶が2つ並んでいる。
小窓越しの両親の顔は綺麗だった。
涙は出なかった。
参列者は両親に挨拶をして、皆んな涙を拭っていた。
その様子を眺めながら、人が来るたびに、ただ頭を下げる。お経を聴きながら、俺は関係ないことばかり考えていた。
ぼんやりと思った。
俺はきっと、薄情なのだ。
♦︎
葬儀の後、叔父が実家まで送ってくれた。
「亡くなったのは交通事故だったんだよ。相手は無免許で無職の男でな。最初は逃げて……」
叔父さんは両親が亡くなった状況を話してくれた。でも、俺は辛くて聞いていられなかった。
「叔父さん。詳しい話はまたお願いします」
叔父は俺を実家で下ろすと、勢いよく走り去っていった。
俺は頭を下げて、叔父を見送った。
玄関前に立って。
俺は数年ぶりの実家を見上げた。
紫の空。
まだ人の気配が残っている。
今にも玄関が開いて、母さんが顔を出しそうだ。
あぁ、そうか。
実家をどうするか考えないと。
でも、すごく疲れた。
考えるのは、またでいいや。
……って。
俺の横には、女の子が立っている。
さっきの、さらんという少女だ。
じーっと俺のことを見ている。
「さらんちゃんだっけ? 叔父さん帰っちゃったけど」
すると、少女は答えた。
せわしなく手を握り合わせている。
「ここ、わたしの家です」
……え?
「あの、君の名前は?」
「山路さらん。漢字は、お花の桜に、青色の藍。『桜藍』です」
山路桜藍。
その名前を聞いて、ふと思い出した。
俺が家を出て半年くらい経った頃。
突然、父さんが電話してきた。
例の如くすぐに言い合いになり、俺は怒りにまかせて電話を切った。だが、切れる直前に父さんは言ったのだ。
「お前が自立したから養子をとることにした。名前は、さらん」
完全に忘れていた。
この子が父さんが話していた子か。
ってことは、俺の義理の妹……?
改めて桜藍の顔を見た。
透き通った肌に、グレーの瞳。
銀色の髪からは、甘い林檎の香りがする。
俺に縋るような視線。
涼を見上げる柚子と同じ瞳。
女なんてみんな同じ。
この女も柚子と同じ。
口では優しい事を言ったって、どうせすぐに裏切る。
ガラッ。
玄関戸をあけると、ぬいぐるみが目に入った。
他人の家みたいだ。
父さんは物が増えるのを好まない。
俺がいた頃は、玄関には何もなかった。
それなのに、今は。
可愛らしい飾り付けがされている。
下駄箱の上には、両親と桜藍の写真。
3人とも幸せそうに笑っている。
そういえば、母さんは『女の子が欲しい』って言っていたっけ。
でも——。
本当に血が繋がっているのは、俺の方だ。
そう思うと釈然としない。
……胸の奥がムカムカする。
居間も様変わりしていて、すっかり『リビングルーム』になっていた。
「どうぞ」
桜藍がお茶を出してくれる。
「桜藍さんは、何歳?」
「高校2年生です」
俺はアラサー。
相手は未成年の可愛い女の子。
俺には金がない。
他人を信じる気力もない。
俺は鼻先を擦った。
「あのさ。俺、ここに住もうと思うんだけど。君、未成年でしょ?」
桜藍は、頷いた。
「こんなオッサンと住むのは、まずいわけよ。世間的にね。君、どこか他に行くとこないの? 親戚とか」
桜藍の唇が歪んだ。
「いないです。それに、パパとママのおうちから離れたくない……です」
パパ? ママ?
親しげな呼び方。
怒りが込み上げてくる。
気づけば、心無い言葉が出ていた。
「困るんだよ。君、この家と血の繋がりないでしょ。出て行ってくれない?」
すると、桜藍は俯いた。
ラグマットにポタポタと涙が落ちる。
桜藍は何も言わない。
ただ一生懸命に、涙を拭った。
涙が伝うたびに、俺の心臓はギュッと縮こまった。
これは八つ当たりだ。
俺は自分の言葉を、激しく後悔した。
桜藍は、ギュッと肘を抱き寄せた。
親の迎えを待つ、迷子みたい。
うちは裕福ではない。
桜藍が1人で生きていけるような資産はない。
どうすんだよ。
俺は頭を抱えた。
女に裏切られた。会社から切られた。
両親も死んだ。
——何も信じられない。
俺は顔を上げた。
目の前には純粋そうな少女。
俺の唇は吊り上がった。
俺は人差し指でテーブルを叩いた。
トントンという音が響く。
俺は桜藍に声をかけた。
「君、この家にいたい?」
桜藍は俺の方を見た。
視線が落ち着かなく揺れている。
「許してもらえるなら」
「生活の面倒もみるし、俺が君を守る。ただし、これからする約束は絶対に守って欲しい。何があっても俺を裏切るな」
桜藍はしばらく沈黙して、下唇を軽く噛んだ。
みかんの薄皮のような唇が、今にも裂けそうになる。
桜藍は顔を上げた。
まつ毛が涙に濡れている。
「……分かりました」
悲しそうに微笑んだ。
信じられる女がいないなら。
——自分で作れば良い。
新作です。
本作はお仕事ものです。
「気になる」「面白そう」と思っていただけたら、ブクマ等レスポンスをいただけると励みになります。イラストは桜藍です。第1話なので笑顔にしてみました。
どうぞよろしくお願いします。




