84 インフィの新たな始動
インフィは、ウルラン高原で家族のように育ったタムとカイナ、そして、いつもの仲間たちと楽しげに言葉を交わしていた。
レイヴァンが気を利かせ、ヨパラも呼んでくれていたのだ。
インフィがフィディアによって転送された、あの白い空間──
それは、魔王が精神を統一し、修練に用いる特別な場であり、時間が遅れて流れる不思議な部屋でもあった。
フィディアは、インフィの再生を可能にする手段を探る中で、
その部屋の性質を活かし、彼をそこへ転送していたのだった。
タムが、不思議そうにインフィへ声をかけた。
「インフィは、まったく変わってないな」
それに続けて、カイナも目を丸くしながら言った。
「本当に……私もびっくりしちゃった」
この魔法学園には、子どものような大人も在籍していたため、インフィの身体の成長が遅くても、この世界ではさほど珍しいことではないのかもしれない。
カイナは、ふと目を伏せ、心配そうな口調で続ける。
「奴隷商人に捕まったって聞いて……とても心配したのよ」
インフィは、それに対して、隠すこともなく、ごく自然に話し始めた。
「みんな、心配かけてごめんなさい」
「奴隷になったら、戦闘奴隷として訓練所に送られたんだ」
タムとカイナ、そしてヨパラも、言葉を失っていた。
「そこでいろいろあって……なぜか僕が班長になって──」
「それから、ヴァンダル神国との戦争が始まって、僕が指揮をとることになった」
「敵は強くて、もう死んだと思った……でも、ゼルさんに助けられて……」
「でも、ゼルさんは……死んだんだ」
その言葉に、一瞬、場の空気が凍りつく。
けれど、インフィは柔らかく微笑み、続けた。
「でも──ゼルさんは、フィディアが生き返らせてくれたんだ」
「フィディア、本当にありがとう」
その感謝の言葉に、フィディアは目元をそっと押さえ、涙がこぼれそうになるのをじっとこらえた。
長いまつげが、かすかに震えていた。
一方、タムとカイナ、そしてヨパラは、話の意味が理解できず、呆然とした表情で顔を見合わせていた。
「そのあと、ヨパラさんと知り合って……」
インフィは、あくまで淡々とした口調で、何も隠さずに語っていた。
その姿は、昔と何も変わらず、タムとカイナにとっては、まるで弟のような存在のままだった。
やがて話が一通り終わると、タムが腕を組みながら、少し困ったように口を開いた。
「おまえは、相変わらず無茶苦茶だな……勇者と魔王の心って、どういうことだよ。さっぱり意味がわからん」
「それで、その“心”とやらは……ちゃんと、大丈夫なんだろうな?」
その問いに、インフィはぱっと笑みを浮かべ、うれしそうにうなずいた。
「もう大丈夫だよ。二つの心は、僕の中で一つになった」
「今は……とっても気分がいいんだ」
「フィディアも、シャリーネも、きっと同じだと思う」
その名を口にされたシャリーネは、何も言わずに唇をかみしめ、瞳の奥に宿る涙を懸命にこらえていた。
カイナも、心配げな面持ちで言葉をかけた。
「インフィ、本当に大丈夫なの? これからも……もう、心配しなくていいの?」
その問いに、インフィはまっすぐにうなずき、力のこもった声で答えた。
「大丈夫。だから、心配しないで。でも……僕には、やらなきゃいけないことがあるんだ」
タムが眉をひそめて問いかける。
「……何をするんだ?」
インフィは、言葉を選ぶようにひと呼吸おき、力強く続けた。
「またレベルを上げないと……本当の“僕”にはなれない。それだけは、はっきり分かってるんだ」
「だから──タム兄、カイナ姉……ごめん。僕、明日にはこの学園を去ることに決めた」
タムは、わずかに寂しげな表情を見せながらも、どこか達観したようにうなずいた。
厳しい自然の中で育った遊牧民たちは、生も死もすべてを受け入れる心根を育んでいた。
「別段、俺らのことは気にするな。インフィの好きにすればいいさ」
カイナも、うなずきながら続ける。
「インフィがそうしたいなら、それでいいと思う。でも……無茶だけはやめてよね」
インフィは、目にうっすらと涙を浮かべながら、小さく笑った。
「ありがとう。やっぱり──タム兄も、カイナ姉も、僕の家族だよ」
そう言って、ふと顔を向け、今まで黙っていたヨパラにも視線を向けた。
「ヨパラさん……何も相談しなくて、ごめんなさい」
「ヨパラさんは、どうしますか?」
ヨパラは、その話を聞きながら、インフィが自分とはまったく違う世界を生きているのだと、はっきりと感じていた。
「いや、俺は……この魔法学園で頑張ってみるさ」
「できれば、インフィとまた冒険したいしな。俺なりに、ここで力をつけてみるよ」
それはインフィを安心させるための言葉でもあったが、ヨパラ自身も、本心からそうなればいいと願っていた。
彼の目には、少年の姿をしたインフィが、もはやかつての存在ではなく、確かに成長した姿に見えていた。
言葉こそ少年のままだが、その内に宿るものがまるで違っていた。
インフィも、力強くうなずく。
「うん、僕も頑張る」
──そして、ヨパラとレイヴァン、タムは酒を酌み交わし、にぎやかに騒いでいた。
フィディアとシャリーネ、そしてカイナまでが、次々とインフィに抱きつき、頭を撫でていく。
インフィは、終始、涙をこらえきれずに、目を潤ませていた。
そして──LV28のインフィは、再びヴァルメル魔塔へと戻っていた。
最上階、LV30の魔物を相手に、彼はただ一人で戦っていた。
普通の冒険者であれば、よほどの才に恵まれていなければ、自分より二つ上の階層で多数の魔物を相手にするなど到底不可能なはずだ。
だが、インフィは違っていた。
彼は、自分よりも下のレベルの魔物とは戦いたくなかった。
そして不思議なことに、その魔物たちもまた、インフィを敵とみなすことはなかった。
この奇妙な関係性は、彼の中に宿る“魔王”としての本質によるものなのかもしれない。
LV30の魔物たちは、広範囲魔法の奔流によって、一瞬のうちに光の粒となって消えていく。
──あの突然現れた勇者に「レベル」という概念があるのか、シャリーネにも分からなかった。
魔王も、フィディアも、天空から地上に降ろされたシャリーネも、「レベル」という力を持たぬ存在だった。
彼らは、ただ修練を積み、自らの力を高めることでしか、成長の道を歩めなかったのだ。
レベルという力。
それは──
弱き人間が、生き延びるために手にした、特別な力なのかもしれない。




