83 インフィとは 6
シャリーネの姿を認めたレイヴァンは、わずかに迷いを見せた。
だが、次の瞬間にはフィディアの前に立ち、彼女を守るようにその場に身を置いた。
その気配に、ようやくインフィは気づいた。
自分の視界に、レイヴァンの存在があることに。
「レイヴァンさん……どうして、ここに?」
戸惑いをにじませた問いかけに、レイヴァンは深く頭を垂れ、静かに応じた。
「インフィ様……私のことを、忘れてはおられなかったのですね」
その言葉に、インフィの目が見開かれる。
「え? 僕が……レイヴァンさんを忘れるわけ、ないよ」
言葉が唇を離れた瞬間、インフィの胸の奥で何かが軋んだ。
激しい感情が、あふれるように湧き上がってくる。
──シャリーネのせいだ。
シャリーネが、僕のひとつの心を奪おうとしていたんだ。
あの薬は、僕のひとつの心を奪うためだったんだ。
シャリーネが、インフィのそばへと近づく。
「インフィ様……彼らは人類に害をなす存在です。どうか、裁きを。滅びをお与えください」
「シャリーネ……僕に、何をしたんだ!」
「シャリーネ……なぜ、僕の心を奪おうとしたんだ!」
問い詰められたシャリーネは、口をつぐんだ。
けれど、それでも引き下がらなかった。
「インフィ様……どうか、目を覚ましてください。
その者たちは、人類にとって害悪です。人の敵なのです」
「僕には、害じゃない」
インフィのその言葉に、シャリーネは静かに目を閉じた。
そして、覚悟を決めた。
──倒さねば、勇者は戻らない。
インフィは、静かにレイヴァンに向き直った。
「レイヴァンさん、もういい。これは、僕の問題だ。僕が決着をつける」
レイヴァンは一度、目を伏せると、ゆっくりと頭を下げた。
「……かしこまりました」
そう答えると、彼はフィディアの身体を浮遊魔法でそっと宙に浮かせ、そのまま静かに姿を消した。
インフィは、ふと気づいてしまった。
──あの「どす黒い感情」は、本当は黒い感情などではなかったのだと。
それは、自分の中にある、ただのひとつの感情だった。
人を忌避する気持ちも、魔物を忌避する気持ちも──
そのふたつの感情に、本質的な違いはなかった。
そして、インフィは理解した。
自分という存在は、そのふたつの感情から生まれたものなのだと。
インフィは、シャリーネに向かって静かに言った。
「シャリーネ……僕は、君と戦いたくない」
だが、シャリーネの決意は揺らがなかった。
彼女にとって勇者とは神に等しき存在であり、そして何より──
勇者は、彼女にとって最も愛する人だった。
シャリーネは、迷いなく強力な光の魔法を放った。
インフィの中にある“闇”を祓おうとするように。
しかし──インフィは、それをあっさりと闇魔法で打ち消した。
その光景に、シャリーネは唖然とした。
まさか、闇の力で光の魔法が防がれるとは思ってもいなかった。
やがて、震える声で問いかける。
「あなたは……魔王なのですか?」
インフィは、静かに答えた。
「僕は、魔王でも、勇者でもない。僕は……僕だ」
その言葉が、シャリーネにはどうしても受け入れられなかった。
神に仕える者として──
魔王の心をそのままに抱く存在を、許すことはできなかった。
シャリーネは、次々とあらゆる光魔法を放ち、闇を祓おうとした。
だが──インフィは、そのすべてを闇魔法で無効化していく。
あらゆる光と闇の魔法を構築し、分解し、繰り返してきた彼にとって、
相反する魔法を読み取り、打ち消すことは、もはや容易なことだった。
そして、戦いの最中──
シャリーネの心にも、ひとつの揺らぎが生まれていた。
「神とは……何なのか。私は……何だったのか」
その問いは、光の矢を放ちながら、彼女の胸の奥に静かに響いていた。
そしてふと、インフィの瞳が見えた。
濃く、深い、エメラルドのような輝き。
それはかつて彼女が知っていた、勇者の瞳だった。
人のために命を差し出し、決して背を向けなかった、あの瞳。
──闇の心を抱えていたとしても、
インフィの中には、あの勇者が確かに生きていた。
それだけで、十分だった。
シャリーネは、静かに涙をこぼした。
そして、その場に、力なく崩れ落ちた。
シャリーネもまた、本気で攻撃しようとしていた──
けれど、できなかった。
愛する者を傷つけることは、母性には逆らえなかった。
そこへ、フィディアとレイヴァンが戻ってきた。
インフィは、フィディアの方へ歩み寄ると、素直な言葉で言った。
「フィディア、ごめんなさい。僕がフィディアの心を傷つけた」
その言葉を聞いたフィディアは、何も言わず、その場で泣き崩れた。
《インフィ》とは──
魔王と勇者、ふたつの生命を取り込み、新たな生命として生まれし者であった。




