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71 あのもの 2

レイヴァンが露天風呂でのんきに歌っていたその瞬間、突然、その姿がかき消えた。


頭にはまだ、小さなタオルがちょこんと乗ったまま──だが、フィディアはそれに気づけないほど、切迫した表情をしていた。


気づけば、レイヴァンは聖なる結界の前に立たされていた。四メートルを超える、完全体の姿である。


その巨大な骨格は、隙間なく真紅の塗料で覆われていた。


4メートルの巨体を誇る骸骨が、(おぞ)ましき顔まで深紅に染まり、まるで全身が燃えさかる業火に包まれているかのようだった。

その姿は、見る者の本能を凍らせるほどの威圧を放ち、まさに──閻魔大王すらひれ伏すであろう、異様な存在感を纏っていた。


結界の前に立つフィディアの声は、いつになく真剣だった。

「レイヴァン、よく聞きなさい。この中に──インフィちゃんが閉じ込められているの」

細く伸びた白い指が、淡く揺らめく結界を静かに指し示す。


「あなたの力で、これを破るの。聖属性に対抗する物質は──ちゃんと、あなたの全身に塗ってあるから」

いつものような笑みはそこになく、ただ祈るように、切実な言葉が続いた。


「……もし、これを抜けられたら──あなたの訓練は、止めてあげるわ」


レイヴァンは上空を仰ぎ、喉の奥から響くような「ケケケ!(はい)」の雄叫びを放った。

その声は熱を帯び、乾いた空気を震わせながら、聖結界の静寂を破るように響き渡った。


結界の前に立つレイヴァンの巨体は、わずかに震えていた。

それは──聖属性に対する、本能的な恐怖だった。魔物としての、どうしようもない怯えだった。


それでも、彼は意を決したように、巨大な骨の体を聖なる結界へと激しく突進させる。

触れた瞬間、透明の膜が青白く(ひらめ)き、火花が四方に弾け飛んだ。

レイヴァンの怪力をもってしても、前へ進むことは叶わなかった。

それは、あまりにも強力な聖属性の防御膜だった。


だが、レイヴァンは止まらない。

「ケケケ!(はい)」と自らを鼓舞するように叫びながら、なおも力をこめて押し込んでいく。


その腹の中では、フィディアが祈るような目で、彼の骨越しにレイヴァンの顔を見上げていた。


さらに火花が強くなると、真紅の骨は徐々に赤黒く変わっていく。──だが、レイヴァンは止まらない。


火花はついに強烈な光へと変わり、骨の隙間から白煙が立ちのぼる。焼け焦げた匂いが、空気に静かに広がっていった。


レイヴァンの骨は、もはや赤ではなかった。

全身が煤けたように黒く変色し、無数の亀裂が細かく走っていた。


その場に膝をつきそうになるのを、かろうじて踏みとどめているのは──フィディアの魔力だった。


彼女は腹の内から、崩れかけた骨の構造に向けて、絶え間なく魔力を注いでいた。

繋ぎ止めるように、支えるように、その流れは止むことがなかった。


「レイヴァン……がんばって」


その声には、願いと焦りが滲んでいた。


骨が軋む音が、絶叫のように空気を震わせた。


インフィを救いたいのか、それとも──過酷な訓練から解放されたいだけなのか。

その真意は誰にもわからない。だが、レイヴァンは諦めなかった。


力尽きる寸前、最後の一歩を、彼は踏み出す。

そして──その身はついに、聖なる結界の内へとたどり着いた。


フィディアは、焼け焦げて真っ黒になり、座り込んでいるレイヴァンにそっと声をかけた。

「よくやったわ、レイヴァン。……ほんとうに、立派だったわね」


その声音には、珍しく本物の慈しみが滲んでいた。


「でも、ここから先は危険すぎるわ。あなたはここで待ってなさい」


そう言って、彼の頭を一度だけ軽く撫でると、フィディアは静かに目を閉じ、空間の気配を探り始めた。

神経を張り詰め、沈黙の中を泳ぐように、何かを追い求めている。


やがて、その瞳がひらかれる。

「……見つけた。すぐに行かないと」


呟いた次の瞬間、彼女の姿は光に包まれ、その場から消えた。


聖堂に満ちる張り詰めた空気を破るように、女の声が響いた。

「──インフィちゃんを、いじめてるのは誰?」


その声には、いつもの余裕も笑みもなかった。

隠しきれない焦りと怒りが、声の震えに混じっていた。


インフィとシャリーネは、ほぼ同時に戦いの手を止め、その声の方へと視線を向けた。


ゆらめく聖光の中──フィディアの姿が、ゆっくりと浮かび上がる。

だが、聖属性の力が満ちる空間に足を踏み入れた彼女の顔には、明らかな苦悶の色が浮かんでいた。


「あなたは嫌い。帰れ!」


シャリーネの声は、まるで拗ねた子供のように尖っていた。


「不要なのは、あなた!!」


フィディアは、普段の妖艶さをかなぐり捨て、金切り声で叫び返した。


「インフィちゃん。──おうちに、帰りましょう」


フィディアの声は、さっきまでの怒気を嘘のように消し去り、柔らかく、慈しみに満ちていた。


だがその瞬間、シャリーネの全身がまばゆい光に包まれる。

それはまるで、神の祝福そのもの。純粋で、抗いがたい聖なる輝きだった。


──インフィが、即座に声を上げた。


「やめろ」


その短くも鋭い言葉が、空気を裂いた。


シャリーネの身体を包んでいた光が、ふっと消える。

少女はただ、静かに俯いていた。


「もう……いい。僕は帰る。──邪魔するな」


インフィの声は低く、抑えられていた。

だがその声音には、はっきりとした拒絶の意志が宿っていた。


「それでは……わたしも、ついていきます」


俯いていたシャリーネが、そっと顔を上げる。

その瞳は静かで、揺るぎない決意を湛えていた。


「好きにしろ。ただし、僕の邪魔だけはするな」


その一言の裏には、怒りとも、疲労ともつかぬ感情が混ざっていた。

魔物狩りを妨げられた苛立ちが、インフィの心の奥底で、じくじくとくすぶっていた。


フィディアが、鋭く拒絶の言葉を放った。


「この子はダメ。絶対にダメ」


その声には、焦りと敵意が隠しきれずに滲んでいた。


だが──

インフィの返答は、それ以上に冷たく、突き放すようなものだった。


「……フィディアもいらない」


言葉の温度は氷のように低く、全てを断ち切るように響いた。


フィディアとシャリーネは、互いに視線を交わしていた。

火花を帯びた視線が、空気の緊張を鋭く裂いた。


だが──


インフィは、そんな二人を一瞥(いちべつ)することもなく、静かに背を向けて歩き出していた。


やがて、残された二人は、しぶしぶとその背を追う。

奇妙な沈黙をまとったまま、一行は神殿を後にした。


夜。


インフィは、最高級旅館の自室で、静かに食事をとっていた。

いつものように無口で、しかしその顔には明らかな疲労の影が濃く落ちていた。


「この少女は……?」

隣にいたヨパラが、ためらうように問いかける。


「知らない」

インフィは短く、冷たく言い放つ。その声には、隠しきれない苛立ちがにじんでいた。


レイヴァンはというと──

いまだ黒く焦げた骨のまま、露天風呂に沈んでいる。

一言も発さず、ただ湯に身を沈めたまま、全ての気力を使い果たしたかのようだった。


そして、インフィの左右には、フィディアとシャリーネがぴたりと並んで座っていた。

言葉はない。

だが、交わされる視線だけが火花のように鋭くぶつかり合っていた。


こうして、奇妙な沈黙を抱えたまま、いつのまにか彼らのパーティは形を成していた。

インフィ、ヨパラ、レイヴァン、フィディア、シャリーネ──それが、現在のメンバーである。

もっとも、当のインフィにその自覚があるかどうかは、謎である。


『インフィ──それは、草原の民の言葉で《運命の定め》を意味する』

『インフィたちの《運命》と《定め》は、これからどこへ向かうのだろうか』


ヴァルメルの街の上空には、細く白い繊月せんげつが静かに浮かんでいた。

その下では、人の波が途切れることなく流れ、冒険者たちは今日も命を削る戦いを続けているのだろう。


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