70 あのもの
インフィの異常なまでの経験値稼ぎの成果により、レベルはすでに27に達していた。
ヴァルメル魔塔でも、インフィの存在は次第に広く知れ渡っていた。
「あどけない少年なのに、異様に強い」「ゴキブラ系の魔物ばかりを執拗に狩っている」「まるで狂気を宿した顔で、絶えず魔物を狩り続けている」──そんな噂が、冒険者たちの間で囁かれていた。
インフィ自身も、もはや研究所送りになることはないと悟ったのか、遠慮なく全力でレベルを上げ続けていた。
インフィは、今日も第八層でゴキブラオウと向き合っていた。
体長二メートルを超える黒光りする巨体が、鋭く飛びかかり、麻痺を引き起こす液体を噴射する──だが、その瞬間には、すでにインフィの姿はそこにはなかった。
相手の動きは完全に読み切っていた。彼は常に、一瞬先の未来にいる。
液体が身体に触れることはなく、右手の中剣が喉の急所を正確に突く。魔物が苦痛に身をよじる──その動きを逆に利用して、隣の魔物の腹部を、左手に握った短剣で切り裂く。
無駄のない、流れるような一連の動作。やがて周囲の魔物たちは、光の粒となって儚く、そして美しく空へと消えていく。
この動き、この正確さ、この迷いのなさ──それは、常人には到底到達できない域にあった。
インフィの強さには、底が見えなかった。
一匹のゴキブラオウが、羽音を立てて飛びかかってくる。
インフィは右手の中剣を突き出す──だが、喉を貫くはずのその瞬間、インフィの姿はそこに無かった。
もしゴキブラオウに思考があれば、この現象に驚いていたかもしれない。
しかし、何事もなかったかのように、ただ蠢いているだけだった。
インフィは、いつの間にか不思議な場所に立っていた。
目の前にあるのは、古代に建てられたような神殿だった。
壁も柱も崩れてはいるが、荘厳さと神秘性を湛え、一枚の絵画のようにその姿を浮かび上がらせていた。
インフィは、咄嗟に俯瞰を使い、周辺を確認した。
神経を研ぎ澄まし、一つの音も、僅かな空気の流れさえも捉えようとしたが、危険の気配は感じ取れなかった。
ふたたび神殿に目を向けると、なぜか懐かしさが胸にこみ上げてくる。
だがその感情に呼応するように、心の奥底から黒く大きな手が現れ、それを押し潰そうとしてくる。
インフィは、その黒い手になおも抗い続けていた。
そして──神殿に導かれるように、一歩ずつ歩みを進めていった。
そのころ、ソフィアは後悔と不安に苛立っていた。
自分がインフィの傍にいたせいで、インフィの存在が──あのものに知られてしまったのだ。
危険を察知するためにインフィに仕込んでいた警戒魔法が発動し、インフィの元へ瞬間移動を試みた。
だが、強力な結界にはじかれ、たどり着くことはできなかった。
そして今──インフィの存在すら、探知できなくなっていた。
インフィを守る役目は、本来レイヴァンに任せるべきだった。
──ソフィアには、それがわかっていた。
わかっていながら、インフィの傍を離れがたかった。
その感情が、判断を鈍らせたのだ。
そして──その一瞬の隙を、確かに突かれた。
このままでは、インフィの心が──あのものに取り込まれてしまう。
その焦燥が、ソフィアの表情を歪ませていた。
唇はかすかに震え、拳は無意識に強く握られている。
どうすればよかったのか。今からでも間に合う方法はあるのか──答えは見えない。
そんな彼女の横では、レイヴァンが相変わらず骸骨の姿で、震えながら土下座していた。
今回の件には無関係であるにもかかわらず、レイヴァンが可哀そうに思えてならなかった。
もし、ここにヨパラがいたなら──おそらく、心が壊れていただろう。
ソフィアから放たれる冷気と怒気をまともに浴びれば、今のヨパラでは耐えきれない。
それほどまでに、ソフィアの焦りは極限に達していた。
「なにか、手を……」
そう呟いた次の瞬間、ソフィアの姿はその場から掻き消えていた。
しかし、しばらくすると、露天風呂から楽しげな「ケケケ(はい)」の歌声が聞こえてきた。
レイヴァンは、ひとときの安らぎを骨の芯まで満喫しているようだった。
──これくらいは、大目に見てあげたくなる気持ちになる。
インフィが静かに神殿の扉を押し開けると、内は深い静寂に包まれ、どこか慈愛の気配が漂っていた。
高い天井からは、ステンドグラス越しに柔らかな光が降り注ぎ、一人の少女の姿を浮かび上がらせている。
少女は女神像の前に静かに膝をつき、淡い光に包まれたその姿は、まるで聖なる絵画の一場面のようだった。
インフィがそっと歩を進めると、少女は祈りの姿勢を崩さぬまま、静かに口を開いた。
「よく来てくれました」
その声は、穏やかで澄んでいた。慈愛に満ち、聞く者の心を自然と鎮める響きを帯びていた。
少女の小さな背は、降り注ぐ光とともに神聖な気配をまとい、神殿の空気すらも柔らかく染めていた。
少女の声を受けた瞬間、インフィの瞳に陰りが差す。ためらいの一切ない動きで、中剣を抜き放ち──彼は、少女へと斬りかかった。ためらいのない踏み込み。──しかし、少女はふわりと身を引く。
まるで重力すら感じさせぬ軽やかさで、インフィの鋭い一撃をかわしていた。
「……まだ、あなたがいるの」
少女は、優しく、諭すように声をかけた。
その言葉に、インフィははっと我に返る。自らの剣が少女を振った事実が、心に突き刺さる。彼は胸の奥に蠢く闇の手を、必死に押さえ込もうとしていた。
インフィの心には、いくつもの感情が渦を巻いていた。
その中でも──「忌避」と「愛しさ」。相反するふたつの感情が他のすべてと溶け合い、インフィの表情に、どこか影を落としていた。
立ち尽くすインフィのそばで、少女は静かに膝をつき、女神像に祈りを捧げていた。
インフィは、胸の奥で渦巻く葛藤を無理やり押さえ込むと、少女に問いかけた。
「……あなたは、誰?」
少女は微笑みを崩さぬまま、やさしく応える。
「私は、シャリーネ」
その声音には、なぜか懐かしさがにじんでいた。
「僕を返して」
「それはできません」
インフィは、「僕は帰る」とだけ言い残し、教会の外へ向かって歩き出そうとする。
「……あの人たちは、あなたに害を与えます」
その言葉を聞いた瞬間、インフィの目に鋭い光が宿った。次の刹那、彼は迷いなく少女へと斬りかかる。
だが、シャリーネはその攻撃を、まるで包み込むように優しくいなしていた。
「あなたでは、私に勝てません」「私は、あなたを守りたいだけです」「どうか、私の話を聞いてください」
少女の声は静かで、慈しみに満ちていた。しかしインフィの剣は止まらない。
なぜだかわからない──だが、今この少女の言葉を聞いてはならない。そう感じたインフィは、無意識のうちに彼女の声を拒絶していた。
彼の動きは滑らかで、正確で、そして容赦がなかった。けれど、鋭く放たれる斬撃のいずれも、少女の衣すら掠めることはなかった。
無限の持久力を持つインフィの攻撃は、なおも止まることなく続いていた。
教会の中で戦い続ける二人を、ステンドグラス越しの月光が、静かに、そして優しく包み込んでいた。
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