49 新たな難題
夜の帳が静かに降りた頃、薄暗い裏路地には冷たい風が吹き込んでいた。
街は高く堅牢な土壁に囲まれていたが、それでも風に巻き上げられた乾いた土が忍び込み、埃となって路地を漂っていた。
インフィは、埃が舞うその裏路地の隅に、焚き火の灯から少し距離を置いて、膝を抱え一人きりで座っていた。幼い姿を不憫に思ったのか、それとも何かを企んでいたのか、一人の浮浪者が、そっと近づいてきた。
だが、インフィの瞳に宿る狂気と、わずかに歪んだ笑みに気づいた途端、浮浪者は無言で逃げ出した。
「はーー……困ったな。どうすれば……」
報奨金の入った袋を覗き込むと、長旅で使い果たされたのか、中にはわずかな銅貨が残るのみだった。宿に泊まる余裕はない。野宿は構わないが、人の集まる場所には危険が潜む。
うとうとしながらも熟睡はできず、何か良い方法はないかと考えたが、何も浮かばなかった。
朝になると、インフィはギルドを訪れ、警備員に掛け合う。だが、まったく相手にされなかった。仕方なく小柄な体を生かして人混みに紛れようとするが、すぐに摘み出される。
だが、インフィの目から光が消えることはなかった。
少年と警備員の攻防は三日間続いた。そして、三日目の朝、ギルドの前で困った顔をしているインフィの視界に、ある人物が映る。
あの黒衣の女性だった。馬車の中で隣に座っていた彼女の顔を、インフィははっきりと覚えていた。
女性はインフィと目が合うと、頬を引きつらせながらギルドの扉を開けて入っていった。
「はーー……忘れてた。ばか、僕のばか。」
インフィは、あの女性の姿を見て何かを思い出したように、警備員のもとへ駆け寄った。
「お願いです。僕、ほんとに魔法が使えるんです。少しでいいから、試させてください」
警備員は、この三日間まったく諦める様子のないインフィに根負けし、ついに扉を開けた。
……
ギルドの中にある訓練所は、魔法で強化された壁に囲まれていた。どんな攻撃でも壊れることはない。
そこに立つインフィを、職員と魔法教官らしき人物が面倒そうな目で見ていた。
「風よ、尖鋭の刃となりて……切り裂け!」
インフィが手のひらを突き出すと、プシュッと小さな音とともに、タバコの煙のようなものがわずかに出ただけだった。
焦ったインフィは、慌てて別の呪文を唱える。
「いでよ、煉獄の業火よ。すべてを焼き尽くせ!」
それでも、手のひらから現れたのは、かすかな炎がひとひら、揺れるように灯っただけだった。
インフィは、自身の中に確かな魔力を感じていた。使い方も直感的に理解していた。だが、出てくるのは頼りない効果ばかりだった。
「おかしい……なんで……すみません、ちがうんです……」
完全に混乱し、しどろもどろの言い訳が続いた。
「魔法ではありますね。魔力の流れも感じましたし、手品ではないでしょう」
「でもこれじゃ、蠅一匹も倒せませんよ。成人とはいえ、この体では戦えませんね」
教官と職員は困り顔でささやき合っていた。
「待ってください。僕は……剣が得意なんです。魔物も何度も倒しています」
インフィは必死に食い下がる。職員も困ったようにため息をつきながら、別の教官を呼びに行った。
「おいおい、見てみろよ。どう見てもガキじゃねえか。俺もヒマじゃないんだが」
やってきた戦闘教官らしき男は、職員にしぶしぶ説得されていた。
「おい、小僧。怪我するだけだぞ。ママの手でも握ってろ」
口の悪さに驚かされるが、荒くれ者を相手にするには仕方ないのだろう。
「いきます」
インフィの瞳が深いエメラルドに光り、冷静な表情へと切り替わる。
そして、二本の剣を水のように滑らかに振るい、教官に迫る。二本の剣がまるで意志を持ったかのように交差し、予測不能の動きを見せる。
教官は目を丸くし、やがて舌打ちをこぼす。
「くそ……おい、ちょっと待て……ああ、次はそっちか……」
不機嫌そうにぼやきながらも、教官は的確に受け流す。
だが、教官はレベル20超え。インフィのレベルは10。その差は歴然だった。教官が本気を出せば、インフィなど一撃で吹き飛ばされる。
教官の合図で戦いは終了した。
「こんなにやりにくい相手は初めてだ。これで本当にレベル10か? 威力と速さは10だが、動きは15でもおかしくねぇ」
「見た目はガキだが……こいつ、本物だな。魔法も一応通ってるし、登録に文句はないだろ」
職員も観念し、インフィを認めるしかなかった。
こうして、インフィはようやく成人として登録される。
……
冒険者となるには、一週間の講習が必要だった。
ソラック魔塔に出現する魔物、戦術、他パーティとの接し方、連携のマナー、救援信号の使い方などを学び、最後の二日は実地試験が行われる。
インフィは戦闘職のクラスに配属された。並ぶのは屈強な男たちばかりで、その中にぽつんと紛れるインフィは、まるで小犬のように可愛らしかった。
そんな様子に、大男たちはつい頭を撫でてしまう。
ただひたすら、子犬のように頭を撫でられるインフィがいた。
そして、ついに実地試験の日がやってきた。
「次、インフィくん。あの魔物を倒しなさい。無理はしないように」
現れたのは、レベル8のウリボウルンだった。
インフィは困ったように眉をひそめた。理由は分からない。だが、いつものように、自分より弱い相手にはどうしても心が動かなかった。
だが、試験は試験。倒さなければならない。
ふと俯瞰視を使うと、その先にレベル11のバッタラーを発見した。
「うおぉぉぉ!!」
声を上げて駆け出したインフィは、まっすぐにウリボウルンを素通りし、草むらの奥へ飛び込んだ。
草むらの中から飛び出したバッタラーに対し、インフィはその急所へ迷いなく剣を突き立てる。
「なんだと、バッタラーが隠れてたのか……しかも一撃だと? よし、戻れ」
駆け出そうとしていたインフィは指示に従い、しぶしぶ戻る。
餌を前に「待て」と命じられた子犬のように、切なげな表情で講習会場に座るインフィ。
そんな様子に、屈強な教習生たちは、いつも以上に頭を撫でてきた。
そしてついに、インフィに鉄の指輪が渡された。
それにはイモムシラーの刻印が彫られている。見習い冒険者の証だった。
「魔塔。今から……入れますか?」
インフィの目が、再びあの怪しい光を放ち始めていた。
「え、今からでも行けるけど、もう夜になるぞ。今日は休んで、明日チームを組んでからにしなさい」
だが、気づけばインフィの姿は、もうそこにはなかった。




