36 地獄の行軍 後編
行軍の先頭には、豪華な馬車があった。
その周囲を、黄金の鎧に身を包んだ騎馬兵たちが幾重にも取り囲んでいる。
その前後には、正規兵たちが荷を持つことなく整然と歩いていた。
さらにその後方には、熟練の奴隷兵たちが荷車で物資を運んでいる。
そして、最後尾。
インフィたち奴隷新兵だけが、背に重荷を担ぎ、汗を滝のように流しながら苦悶の表情で歩いていた。
遅れる者には容赦なく鞭が飛んだ。
――奴隷である。
奴隷新兵たちの瞳には、光がなかった。
ロリア訓練所に連れて来られたあの日から、最初に叩き込まれたのは「人形の心」だった。
心を人形にすることで、どんな理不尽な命令にも耐えられるようになる。
そう、ロリアの奴隷新兵たちは、人形の心になることで、すべてを耐え抜く術を得ていた。
鞭で打たれながらも、前だけを見て黙々と歩を進めている。
あの、スライム苦行を乗り越えたインフィの心も、日常と変わらなかった。
もっとも、レベルアップのことしか考えていない歪な心ではあったが。
もう、雨雲は去り、星空が垣間見えていた。
明るい月が夜道を照らし出し、奴隷新兵たちは黙々と前へ進んでいた。
ふと、どこからか琴のような音が微かに響いてくる。
ランドル伯爵は、屈強な奴隷たちが担ぐ飾り台の上に、女官たちと共に座していた。
金髪で絵のように美しいその青年に、女官たちは丁寧に酌をしている。
その美丈夫、ランドルは、月夜を仰ぎながら詩を口ずさみ、身をひねるようにして軽やかに舞う。
そして、何か良い詩が浮かんだのか、満足げに大声で笑った。
これから戦場に向かうというのに、随分とお気楽な姿だと感じた者もいるかもしれない。
だが、それは『この戦いなど遊山である』と兵士たちに印象づけ、動揺を鎮めるためでもあった。
……もっとも、伯爵家の栄華を示す意図の方が遥かに強かったのだが。
奴隷新兵たちは、この不釣り合いな遊興を遠巻きに見ながらも、顔色ひとつ変えずに物資を運び続ける。
人形のように心を無にして、歯を食いしばりながら前へ進む。
インフィも、よたよたと、よろよろとしながらも、持ち前の無限持久力で遅れずにいた。
雨は止み、月が地面を青白く照らしていた。
もしも空からこの行軍を見下ろせば、大きな獲物を抱えた働きアリの行列のように映ることだろう。
奴隷新兵たちの嘆きなど、大自然からすれば取るに足らぬ、目にも映らぬ小さな営みに過ぎない。
【補足:ヴァンダル神国】
ハルパン王国と国境を接する国、それがヴァンダル神国である。
現在はヴァンダル四世が王として君臨しており、王は生神として崇められている。
この国では、幼い頃から「世界の中心はヴァンダル神国であり、王のために命を捧げることが最上の名誉である」と教え込まれる。
そうすれば天上での安らぎが得られる、と。
山岳地帯の奥深くに位置し、厳しい自然と貧困に苛まれるこの国では、冬になると凍死者が続出するほどの寒さが訪れる。
不遇な環境の中で民の不満は鬱積していた。
だが、初代ヴァンダル一世は、自らを生神とすることで民の不安を抑え、善政を敷いたことで信頼を得ていた。
しかし、代が進むごとにその意味は変質した。
生神という存在は、民を救う施策ではなく、自らが神であるという錯覚となって王に染みつき、やがて神に逆らえぬ民へと圧政を敷くようになった。
その圧政から生じる不満を外へと逸らすために、敵国を作り、戦争を起こし、口減らしと略奪を兼ねた遠征を繰り返す。
王は、もはや愚かしい幻想に酔いしれる、安易で浅はかな存在に成り下がっていた。
今年はとりわけ寒さが厳しく、秋には冷害すら発生していた。
口減らしなどという建前では済まされない。
本気で略奪を目的とした神団が送り込まれてきていた。
圧政によって国が栄え続けることはない。
それは歴史が繰り返し教えている真理である。
この国も、長くは持たないだろう。
人を欺くうちに、いつしか自分自身もその虚構に溺れ、破滅を迎える。
歴史が幾度となく描いてきた、典型的な滅びの様式であった。
それは、今も世界のどこかで繰り返されていることなのかもしれない。