35 地獄の行軍 前編
空に漆黒の厚い雲が覆いかぶさり、バケツをひっくり返したような雨が降り始めた。
豪雨で近くも見えないほどの中、それでも奴隷新兵たちは規律正しく、整然と直立不動の姿勢で整列していた。
新たな司令官を真正面から見据えている。
その姿は、歴戦の兵たちにも劣らぬ見事な隊列だった。
そう、見事に洗脳された成果である。
ただ一人、インフィだけは相変わらず上の空だった。
側近と思われる大男が、周囲に威圧を振りまきながら高らかに声を張り上げた。
「こちらが、ハルパン王国南方司令官、ハーザー伯爵家嫡男、カルロス・デミオール・ランドル・ハーザー様である。
ハルパン王国の至上の珠玉。
千年に一度の英雄と謳われる、ランドル三世様であられる。
このような場でもなければ、奴隷兵などがそのお声を聞けることはない。
その栄誉を噛みしめながら、聞くがよい!」
白く光沢のある高価な絹で作られた、大きな四角い天幕を、四人の男が掲げている。
その巨大な傘の下に、数多の勲章と宝石を散りばめた衣装に身を包んだ、金髪の青年が座っていた。
まるで絵に描いたように美しいその青年は、赤い豪華な椅子に腰かけ、ゆっくりと口を開いた。
「われ……が、ラン……。…………。………………である」
声が小さすぎた。
加えて豪雨がすべてをかき消す。
何を言っているのか、まるで聞き取れない。
インフィだけはその小さな声を拾っていたが、上の空だったため、内容の理解は放棄していた。
奴隷新兵たちは誰一人として笑うこともなく、直立不動の姿勢を崩さなかった。
表情も真剣そのものだった。
おそらく、心の中では滑稽な茶番でも眺めているつもりでいるのだろう。
側近の大男が、今度は怒鳴るような声を張り上げた。
「これより、ロリア南東補給基地まで行軍。
その後、ロリア南東砦まで物資を運ぶ。
貴様らにとっては初任務だ。
補給任務と侮ることなく遂行せよ。
これは時間との勝負である。
不眠不休の行軍と心得よ。
全体、進軍!」
横に立っていたロリア訓練所の巨漢の司令官は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
そう、自分たちが物資運搬を嫌がったため、この奴隷新兵を使うことを思いついたのだ。
そして運搬が終われば、何の躊躇もなく肉壁として使うのだろう。
ロリア訓練所から補給基地までは十キロ。
そこからさらに、ロリア南東砦までは四十キロ。
総計五十キロの強行行軍が始まった。
補給基地までの行軍は、大雨を除けば大きな問題もなく進んだ。
だが、到着した先で奴隷新兵たちを待っていたのは、山のように積み上げられた物資だった。
(これを担ぐのか……荷車とか無いのか……死ぬな……)
声に出すこともできず、誰もが心の中で絶望を呟いていた。
幸いだったのは、土砂降りの雨が止み、青空が少しずつ顔を覗かせていたことだ。
九十六班の前にも、同様に大量の物資が積まれていた。
物資は班ごとに割り振られ、連帯責任で運ばなければならない。
「こんだもの、村一番の力持ち、おらが持つだ。
だども、飯はおらがもらうだぞ」
怪力のカイラがそう言って、インフィの荷を肩代わりするように麻袋を抱え上げた。
レベル十四まで上がった今の彼らの力は、すでに成人男性を遥かに凌駕している。
地球人のウエイトリフティングチャンピオンでも到底持てないような重さだった。
「インフィ、気にするな。
俺たちは班だ。
こんな時くらい、俺たちを頼れ」
ゼルがそう言いながら麻袋に物資を詰め込む。
他の仲間たちも、インフィの荷が少しでも軽くなるように工夫を凝らしていく。
それでも、レベル9のインフィが一人で持てる量には到底及ばなかった。
インフィは、いつものようにバランスよく物資を詰めた麻袋を用意し、カイラに頭の上に乗せてもらった。
まるで、インドの人夫がレンガを頭の上に積んで運ぶような格好だった。
インフィが力の無さを補うために編み出した独自の運搬法である。
「相変わらず、奇妙な持ち方をするよな。
よくバランスが取れるな」
小さな体の上に、大きな逆三角形の麻袋が乗っている。
ロリアの奴隷新兵たちにとっては見慣れた光景だったが、ハーザー軍の兵士たちは不思議そうに集まってきた。
そうしているうちに、休む間もなく出発の号令がかかる。
月が雲間から顔を覗かせ、濡れた大地が鈍く光る中、
隊列は泥と汗と呻き声を引きずりながら、重く進み始めた。




