第19話 OD
作業中、冬夜のスマホが鳴った。
電話だ。
「桷?こんな時間にどうした?
……うん、うん。ああ、分かった。すぐ向かう」
ガスバーナーの炎を消し、片付けを始めた冬夜。
「どうかしたんですか?」
「紫苑がODしたらしい。
病院に救急車で搬送されたって」
「救急車!?」
救急車とは穏やかではない。
紫苑が心配だ。
「私も行って良いですか?」
「良いよ」
桜も片付けを始めた。
ガスバーナーの炎を消し、ガラスロッドを片付ける。
ロッカーからコートや鞄を取り出し、コートを羽織って外に出る。
外には乾いた雪がしんしんと降りしきっていた。
桃花、菜種、花純も一緒に病院に向かった。
桃花の運転する車で病院に向かう間、桜は疑問を口にした。
「あの。冬夜さん、ODってなんですか?」
「あ、知らない?
オーバードーズって言ってね、薬の過剰摂取」
「薬の過剰摂取?」
「処方薬や市販の薬なんかを大量に飲む事よ」
桃花が答えた。
「なんでそんな危険な事を……。
まさか、自殺?」
事態の重大さに桜が青褪める。
紫苑にそんな素振りは一切無かった。
昨日も元気に出勤して一緒に飲んだ。
いつも通り明るく楽しそうだった。
桜の問いに花純が苦笑混じりに答える。
「理由は人それぞれよ。
私も数錠ならODするわ。
長年飲んでいるせいで抗不安薬に耐性が出来てきてしまっていてね。
一錠しか飲んじゃいけない薬をラムネみたいに十錠飲んでやっと効くのよ。
本当は良くないって分かってるんだけどね、どうしても辛さから逃れたくて飲んじゃうの」
統合失調感情障害は統合失調症と双極性障害のハイブリッドだ。
抗不安薬が必要な状態の辛さは桜にもよく分かる。
脳が落ち着かなくなって、光や音に過敏になる。
些細な事で感情が揺れ動き、とても苦痛だ。
「何錠からODなんですか?」
「一錠です」
「一錠!?」
「そ。決められた用法用量を正しく守らなかった時点でODって呼ぶんだ」
「紫苑の場合はもう癖になってるのよ」
桃花が溜息を吐いた。
「癖ですか?」
「ODっていうのは一種の自傷行為なんです。
一度癖になるとリストカットと同じで何度も繰り返すようになるんです」
菜種が説明してくれた。
「ODする理由は色々。
自殺目的だったり、自傷行為だったり、現実逃避、頭をボーッとさせたり、気持ち良くなる為だったり、SOSのサインだったりね」
冬夜が言った。
桜にはまだまだ知らない事が多いのだ。
それを改めて実感した。
菜種が苦い顔をする。
「紫苑さんは構ってちゃんですからね」
「構ってちゃん?
全然そんな風には見えませんけど」
寧ろ、面倒見の良い姉御タイプといった印象だ。
4Uのメンバーで紫苑を迷惑がっている仲間も居ない。
「構って欲しいから構うって部分もあるのかもしれないね。
紫苑の場合、親がしてくれなかった自分がして欲しい事を他人にしている傾向があるかも」
冬夜が言う。
桃花が溜息混じりに口を開く。
「本気なら、オーバードーズを人目につくリビングでなんかやらないわ。
周りに心配掛けないように自傷行為は隠れてやるもの。
『止めて欲しい』、『助けて欲しい』、『辛い』、『死にたい』。
そんな不器用な子の出すSOSなのよ」
集中治療室の前の長椅子には桷が腕組みして座っていた。
「桷、紫苑は?」
「まだ中だ」
そう言って桷が親指で集中治療室を指差す。
三々五々長椅子に腰掛ける。
どれだけの時間が経ったのだろう。
赤いランプが消えて、医師が出てきた。
「もう大丈夫ですよ。
発見と応急処置が早かったお陰でなんとか一命を取り留めました。
もう少し遅かったら危険な状態でした」
「応急処置って?」
桜が桷に尋ねる。
「意識があったから塩水を大量に飲ませた」
「血中の薬品濃度を下げる為ですよ」
医師が補足する。
数分後ストレッチャーに乗せられた紫苑が運ばれて来た。
「紫苑さん!」
桜の呼び掛けに紫苑が目を開けた。
「うう……気持ち悪い……」
「桷が見つけて救急車呼んだんだよ」
「……そっか、覚えてないや」
「辛かったんだろ。よく頑張ったな」
桷が紫苑の頭を撫でる。
「またなんですか、紫苑さん」
菜種は珍しく怒った顔だ。
「心配したんですよ」
「ったく、何回目だよ、紫苑」
「今回ばかりは危うく死ぬ所だったのよ」
「もう少し運ばれて来るのが遅かったら危なかったってお医者様が言ってたわ。
死ぬつもりだったの?」
「ううん、急にすっごく不安になって薬飲んだの。
でも、薬飲んでも全然不安が治らなくて……」
紫苑がノロノロと喋る。
まだ、意識がはっきりしていないようだ。
「最初はちょっとだけのつもりだったの。
でもさ、薬をプチプチ出してラムネみたいにポリポリ飲んでたら、なんか段々楽しくなって来ちゃってさ〜」
「『なんか段々楽しくなって来ちゃってさ〜』じゃないよ、馬鹿紫苑」
冬夜が口真似混じりに戯けて叱った。
「全く、人騒がせな奴だな」
「救急車呼んで応急処置してくれた桷さんに感謝して下さいよ」
「じゃ、俺達仕事に戻るから」
「もうやっちゃダメよ?」
「はーい」
日常だ。
いつもの、遣り取り。
そう思うと桜の両の目からぽろぽろと涙が溢れた。
「桜?」
紫苑がギョッとした顔で桜を見た。
涙が後から後から流れてくる。
「良かった……ホントに良かった……紫苑さんが死ななくて、本当に良かった……!」
「さ、桜?あんたどうして泣いてんの」
紫苑は戸惑った顔で桜を見上げてくる。
「こんなの、泣くに決まってるじゃないですか!
なんて危ない事するんです!?
私、紫苑さんが死んじゃったらどうしようって、すっごく怖かったんです。
でも、また会えた。生きててくれた。
……ぐすっ……それが嬉しいんです」
桷がポンポンと優しく桜の頭を撫でた。
紫苑は暫く呆然としていた。
「あははははは!」
やがて、紫苑が声を上げて笑い出した。
「な、なんで笑ってるんですか!?
死ぬ所だったんですよ!?」
「ふふっ、秘密だよ、秘密」
紫苑が嬉しそうに笑った。
「もうしないよ、ODは。
胃洗浄キツイし、今もメッチャ気持ち悪いし、もう二度としない」
「毎回言ってるだろ、それ」
「今回はホントの本当」
「じゃあ、桜ちゃんと指切りしなさいな」
桃花が提案した。
「いいよ」
紫苑が小指を差し出してきた。
桜が小指を絡める。
紫苑の指は氷のように冷たかった。
「指切〜り拳万、嘘吐いたら針千本飲〜ます、指切った!」
「拳骨一万回なんて、殴る方が大変そうね」
花純が笑った。
「皆で分担して殴るか」
冬夜がニヤッと笑った。
「でも、電車に飛び込んだ子に説教されるとは思わなかった」
紫苑も笑った。
見た事のない位、晴れ晴れとした笑顔だった。
「桜、ありがとね」
「何がですか?」
「秘密」
翌日、紫苑は退院した。
退院日の更に翌日、出勤してきた紫苑に4Uのメンバーから退院祝いが贈られた。
ハリネズミ型のピンクッションに刺さった待ち針千本とお菓子のラムネ一年分だ。
「これマ?
ODしたら針千本ODしなきゃいけないの?」
「ODしなきゃいいだろ」
「桜さんとの約束ですよ?」
「また桜ちゃんを泣かせるつもり?」
「しないしない!針はマジ勘弁」
紫苑が青褪めた。
「ラムネはありがとね。
ODしたくなったらラムネで我慢する」
それから二度と紫苑はODする事はなくなった。
ここまで読んで頂きありがとうございました。
ブクマありがとうございます!励みになります。
私は統合失調症になるまで精神科に縁が無かったので、入院した際の同世代女子との会話は衝撃でした。
「ODくらい、したことあるでしょ?」
「ODって何?」
「薬一杯飲む事だよ」
「!?」
「リスカはあるでしょ?」
「普通に無いよ!?」
リスカした事のある子の『この傷が消える頃には苦しみが消えるのだろうか』という言葉が印象的でした。
薬をラムネと呼ぶ言い回しも病気になってから初めて聞きました。




