託された人
「こんな所にいたんですか」
その声にはっとして、史奈は眺めていた万年筆を慌てて懐にしまった。
「脇谷先生や吉田先生のいらした控え室にもいないから、どこへ行ったのかと探しましたよ」
「名和、先生」
バルコニーに姿を現したのは、銀縁眼鏡の彼だった。史奈は姿勢を正し、軽く頭を下げた。
「万年筆、わざわざ隠さなくても良かったのに。それがどんなに高級品だとしても、奪ったりなんてしませんよ」
もちろん隊長の講演を聞いていないからと注意をしに来たわけでもありませんしね、と彼はくつくつと肩を揺らした。
「すみません。特に深い意味はないんです」
「ええ、分かっています。からかっただけです」
はたして名和優介はこんなにおしゃべりな人間だっただろうか、と、史奈の中に警鐘が鳴る。
開会式前に拾った違和感が大きくなった。
『そういえば史奈さんのこと、名和先生が探してましたよ』
後輩、児島唯子からそう言われたのは、サイン会会場の準備を終えて受付係と合流した時のことだ。
『名和先生が? それっていつの話?』
『え? さっきです。ほんとにさっき。五分も前じゃないと思います。関係者入口の方からふらっといらっしゃって、望月さんをご存知ありませんか、って……』
おかしい。優介は史奈と同じ場所でサイン会会場の最終チェックを行っていたはずである。ホールの関係者入口は真逆の方向だ。
『そっか。とりあえず後で聞いておくね』
その後再び優介に会った時には既に開会直前の緊迫感に包まれていたし、史奈が会釈しても声すらかけられなかった。
「あの……開会式前に私を、お呼びだったと。何かございましたか?」
「ああそれは」
彼がふと視線をそらし、言い淀んだ。
「大した用事では無かったので、すぐ解決しました。本当は望月さんに頼めば一番早いと思ったのですが、なんとか間に合いましたので」
「そうでしたか」
束の間、二人の間には白い静寂が横たわった。風すらも鳴かない静寂が訪れていた。
目の前の彼が誰なのか。
史奈には分からない。判断の材料もない。
だがどうしてか。彼がもし仮に「名和優介」でないとしても、史奈にとっては大切な人物であるような、そんな気がしてならなかった。
「望月さん」
「はい」
先に静寂を破ったのは『彼』だった。
「彰考会のゲリラ販売が、何故リヤカーなのか。聞いたことがありますか?」
「……いいえ」
唐突な質問に戸惑いながら、史奈は首を横に振る。
当初は、彰考会メンバーの誰ひとりとして誰も車を持っていなかったとか、買う資金がなかったからだと聞いたことがある。
だが販路を拡大しドライバーもいて、利益が少しずつ出てきた今もなお、リヤカーでのゲリラ販売が無くならないのは何故か。よく考えれば振り返ってみたことがなかった。
その返事を聞いて、彼が懐からひと目で読み込まれたと分かる文庫本を取り出した。
「ではこれを、差し上げましょうか」
「あ……」
思わず史奈の口から声が漏れる。
「それは」
「よくご存知ですよね、望月さんなら。タイトルは『リヤカー』」
彼はにっこりと微笑んだ。
「作者は?」
「望月、雅史……父の本です」
目の前に一瞬、在りし日の父の姿が過ぎった。
昭和初期の日本を舞台に、リヤカーへ様々な日用品を積み込んで売り込む「よろづ屋」の青年弥太郎と愉快な客たちのやり取りを描く物語である。
「隊長の愛読書のうちのひとつだそうです。これに影響を受けて、リヤカーでの販売をスタートしたと、いつだったか本人が仰っていました。随分昔の話ですが」
「知りませんでした」
史奈の体を熱いものが駆け巡る。彼はその本を手渡しながら、静かに続けた。
「魂は、こうやって生きていく」
「はい」
「直接の繋がりがない人々の間をも、本は繋いでいく」
「……はい」
「言葉にすると陳腐かもしれませんが……小さくて大きな奇跡だと、思いませんか」
「思います」
受け継ぐ者、渡す者。見えないものを形にして誰かに託すこと。それこそが、「生きる」ということ。
ずしり、と手のひらに重さが加わった。
史奈に『魂』が託された瞬間だった。
「私も、何かを残せる人に、なれるでしょうか」
史奈からぽろりと本音が落ちる。自分に何一つとして自信を持つことが出来ない彼女にとって、それは大きな問題であった。
彼は大きく頷いた。
「なれますよ。怖がらなければ、きっとね」
ちちち、と足元で小鳥の鳴く声がした。冬支度か、少しふっくらした雀がよちよちと二人の足元を歩いていた。
彼はその雀を見つめながら言った。
「きっと生易しい道では、ないでしょう」
その通りだ。挫折も絶望も中傷も、これから歩いていく道には待ち受けている。
「ですがあなたには、進み続ける力があると信じています。あなたはもう、大切なものを手に入れたはずです」
一人ではないと思えば、強くなれる。誰かのためだと思えば、明日を向いていられる。
帰る場所があるということは、そういう事だ。
史奈は胸に広がる暖かい気持ちをしっかりと抱え直して頷いた。
一瞬、彼の瞳が切なさを孕んだような気がした。だが彼は再びにこりと笑って、その表情を隠してしまった。
「あなたには、いつまでも夢を追っていて欲しい。ご両親もきっとそれを望んでいると思います」
「はい」
木枯らしが足元を駆け抜けた。
不思議と寒さは感じなかった。
彼がひとつ手を叩いて、この会話の終わりを告げた。
「こんな寒い所で長話をしてしまいましたね。そろそろサイン会の会場に待機していた方が良さげだと呼びに来たんです。本題を忘れるところでした」
「向かいますね。名和先生はよろしいのですか? ここにいらして」
「すぐに戻ります。ご安心を」
彼が否定をしないのならば、その芝居に乗っかろう。根拠もなしに信じることは愚であるかもしれないが、史奈は直感を信じることに決めた。
いつか、彼が先ほどくれた言葉を下敷きにして物語を書こう。
今の自分にならできる気がした。
史奈は再度礼をして、踵を返した。
「いま、幸せですか?」
背を向けた彼女に、一つの言葉が投げらる。
史奈は足を止めて振り返った。彼の顔はこちらではなく街路樹の方を見つめていたが、その声が聞き間違いでなかったことは答えを待つ彼の背中が物語っていた。
もう、胸を張って答えられる。
「はい。幸せです」
史奈は自分に出来る最高の笑顔で、そう答えた。
「ありがとうございます、先生。私に居場所をくれて」
「……え?」
驚いてこちらを向いた彼に、史奈はへらっ、と笑いかける。
「なんか分からないけど、あなたに言いたくなりました。それだけ」
背中を向けて再び歩き出す。
史奈の足に、迷いはなかった。
「その言葉は……周囲に向けるものでしょう?」
風に乗った『彼』の独り言は、もう史奈には届かない。
「でも、良かった。あなたが、幸せで良かった」
泣きそうに表情を歪めた彼の独り言を知る者は、足元に舞い落ちてきた一枚の枯葉だけだった。




