魂の言葉
ギャラリーの方を気にしてはいけない。震える膝に再度力を込め直し、辻花あかねは一瞬だけ目を閉じて深呼吸をする。
ここにいるのは全部かぼちゃ。目と鼻のついたかぼちゃ。じゃがいもでもいい。私のことなんか気にしていない。大丈夫、まだやれる。
スポットライトが暑かった。じわりとかいたのは冷や汗なのか暑さからか、その区別さえ自分ではつけられない。
カンペを忘れてしまったと気が付いた時には血の気が失せた。だがここは自分の言葉で語ろうと腹を括った。背水の陣になれば不思議と言葉も出てくるらしい。自分の短時間での成長にびっくりする。
生い立ちを少し話し、彰考会が発足した当時の事を少し振り返り、今までの活動を語ってなんとか場を繋いだ。緊張してところどころ声までひっくり返った割には上出来な方だ、と自分を褒めてやりたい。自分の公演さえ終われば、あとは休憩を挟んで質疑応答である。そこまで行けば、舞台袖にいた最も頼りにしている二人と渉が駆けつけてくれるだろう。
だがまだ最後に、言わなければならない事が残っている。
(言葉に、しないと。自分が何を信じてきたのか。自分が何のために、ここまで生きて来たのかを)
ここで明確に伝える言葉が無いのなら、自分にはその程度の覚悟しか無かったという事だ。そうではないと証明したかった。
『お前の言うことは詭弁だ』
『日本人しか話せない日本語になんの価値がある』
『これからは英語の時代なんだ』
かつて投げられた言葉がふとよぎる。頭ごなしに否定され向けられた蔑みの目に、幾度も屈しそうになったあの頃。
それでも戦う道を選んだ。その選択は間違っていなかったと、胸を張って言いたい。
「なぜこのグローバル化の時代に、我々が日本語という希少な文化を守ろうとしているのか、疑問に思われる方は、多いと思います」
言葉が空気を震わせ、薄暗い会場へ染み渡っていく。その感覚を肌で感じ、自分の中から迷いが消えていくのがあかねには分かった。
「かつて存在した、世界中の言語の半分は、姿を消したとも聞きました。そこに不都合があっただろうか、いや、少数しか話すことの出来ない民族の言語など、失くなっても困らない。というのが、専門家の意見です」
「でも、少し立ち止まってみてください。『困らない』のはあくまでも、部外者、客観的な立場にある私たちの話です。その言葉を培ってきた、言葉を生かしてきた人々のセリフではないはずです」
会場はしん、と静まり返っていた。あかねは続けた。
「『言葉は概念である』と、私が昔読んだ文献にはそのような一文がありました。それぞれの民族が大事にしてきた感性に纏わる単語ほど、語彙が増えるという傾向があるそうです。例えば日本語なら、色の名前や天気の名称でしょうか。その変化を楽しむ、愛でるという『概念』が、言葉を生み出していったのではないかと私は思っています」
他の言語に翻訳した時、ニュアンスの細かい部分が伝わりにくいのは『概念』のせいではないかとあかねは思っている。四季がない赤道付近の人々にどれほど言葉を尽くして日本の四季を説明しても、その美しさは伝わらない。同じように灼熱の砂漠を旅する民族にどれほどその素晴らしさを熱弁されても、心底から理解できる日本人は多くないだろう。
『概念』がもともと薄い、あるいは無い言語に翻訳しようとすると、上手くいかないのは当然のことだ。言語を統一して比較基準を一定にする、それは確かに相互理解においては便利なことかもしれないが、同時に細かなニュアンスを抹殺してしまうことになりはしないか。多様性が失われた世界に待つものは、果たして。
「世の中の人は皆言います。私の級友たちも皆、口を揃えて言いました。『日本文学など必要ない』『我々が学ぶべきは世界のことだ』『あなたのしている事は時代遅れだ』と。けれど……」
その考えに同調することは、嘘でも出来なかった。
「けれど、私は思うのです。自国の言葉を捨てることは、自国の文化を捨てることは。人間で例えるならば、個性を、ひいては自分自身を、見失ってしまうことと同じではないでしょうか」
「個性が失われた世界に、新しい発明や斬新なデザインや――誰もが胸を高鳴らせるような美しい未来は、果たして訪れるでしょうか。そこに生きがいは、あるでしょうか」
この問に対する白か黒かの答えなど、ありはしない。極論だと弾劾する人もいるだろうし、識者には鼻で笑われるかもしれない。
それでも誰かが問い続けなければ、守ることは出来ない。
「私は、自分の祖先が大切に思い、大切に伝えてきたものを同じように大切にして、大切に伝えていきたいだけです。美しいこの国の景色を『美しい』と感じられる、ただそれだけでいい。しかしその為には、この国で培われてきた『日本語』が、どうしても必要だと思うのです」
だんだん自分の言葉が支離滅裂になってきたような気がする。果たして自分の言いたかったことが聴衆に伝わっているのか、それを知る術をあかねは持ち合わせていなかった。
それでもいい。とあかねは思った。
最後まで、自分の言葉で届けよう。
「日本語を守ることでしか、見られない未来がある。自分たちに誇りを持つことでしか、動かせない世界がある。彰考会の活動を通して見てきた数々の物語、小説の中で、私はそれを痛感してきました。私たちの魂の奥底に眠っているDNAが、その事を一番よく知っているはずです」
魂はこの身に流れる血なのだと、答えてくれた人がいる。
その血の中継ぎになりたいと、強い意志を目に灯して語ってくれた人がいる。
それはあかねが長年胸に秘めてきた想いと、重なり合う願いだった。
「今日この場にお集まり頂きました皆様が、常識に流されるばかりでなく、ほんの少しでも立ち止まるきっかけを作れていれば幸いです。ありがとうございました」
言い切った瞬間。
舞台袖から大きく鳴り響いた拍手に、引きずられるようにして会場が嵐となった。
ゆっくりと右手を振り返る。
三人が涙をぼろぼろと零しながら、大きく手を振っていた。
「ありがとう」
きっと聞こえてはいないだろう。それでも彼らは、何度も頷いて微笑んで見せてくれた。
ひな壇を降りる足が震え、膝が笑いそうになる。ゆっくりと足を地面につけながら、鳴り止まぬ拍手の中であかねは一歩を踏み出した。
「おかえり、よく頑張ったね」と自分を抱きとめてくれる、帰るべき場所へと。




