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筆を執れ!  作者: 楠木千歳
終章 その少女、筆を執る。
20/23

控え室と来訪者

「隊長、克服したんやろか」

「それはどうですかね。この講演が終わってからぶっ倒れて一日熱出す、に儂は一票を投じますけれども」

「そらあそうやな。あり得そうで怖いわ」


 モニターのある控え室で、舞台の様子一部始終を見物していたのは脇谷篤郎、吉田剣星の二人だ。

 彼らはこの後サイン会が控えているため、別室待機となったのである。


「私も隊長の晴れ姿、モニター越しやなくてホンモノ見たかったなあ」

「同感ですわ」


 こんなに暇ならば、最初だけでもホールで見たかった、と篤郎はため息をついた。同時に剣星も大きなため息をこぼしたので、彼も同じ気持ちでいるのだということが伺えた。

 なにせやることと言っても、事前準備は研修生がすべて済ませてくれている。彼らは本番を待つばかりなのだ。


「そもそも、隊長が講演終わってからしかサイン会が始まらんのに儂らがここに待機しとる意味、あります? 終了前に抜けて待機で十分間に合いませんかね」

「それこそ同感だよ、剣星くん」


 ブルーな空気が漂い始めたそこへ、ノックの音が響き渡る。


「はいはいー、どうぞー」

「失礼致します」


 くぐもった声が扉の向こうから聞こえた。部屋へ滑り込んできた人影を見て、篤郎と剣星は揃って目を丸くした。


「おやおや、これはこれは」

「舞台袖待機やなかったん? 名和先生」


 思いがけない人物の登場だった。モニターの向こう側にいるとばかり思っていた人が目の前に現れたのだ。彼は頭をかいてははは、と苦笑いを浮かべた。


「あそこは確かに特等席ですけれども、到底落ち着いて見られる場所ではありませんよ。心臓がいくつあっても足りません」


 大げさに顔をしかめてみせる彼。普段感情をあまりのぞかせることの無い名和がそんな顔をするのだから、そのハラハラ感は推して知るべし、というところだろうか。


「まあ隊長のお守役からしたら、確かに心臓がいくつあっても足らんわな」

「いえ、お守役という訳では……」


 彼は否定したが、満更でもなさそうだった。冗談を抜きにしても、名和優介が彰考会の創設から深く関わり、最もあかねや副隊長の和田彩香と行動を共にしてきたということに関しては事実である。

 篤郎の言葉を受けて剣星も頷いた。


「でも隊長からしたら、やっぱり名和先生に側で見といて欲しいと思うのではありませんかね。先生があの舞台袖におられたからこそ、持ち直したようなもんでしょう」

「それは違いますよ」


 彼は即座に首を振った。


「私がどうこうなど、おこがましい事です。彼女は自分で乗り越えて見せたのですよ。トラウマを乗り越えるだけの下地を、これまでコツコツと積み重ねてきた。それだけの事です」


 その言葉には絶対の自信と信頼があった。

 

 いいなあ。

 若くて瑞瑞しい。


 篤郎は心の中で呟いた。


『私の家は、着物屋を営んでおりまして……その影響で、日本語の書き物に触れる機会も、一般に言われる日本語離れの進んだご家庭よりは、多かったように思います』


 画面の中のあかねは、少しずつ調子を普段の彼女へと戻していた。


「名和先生が辻花隊長に初めて出会われたのは、いつ頃ですか」

「まだ私が学校で日本文学を専攻していた頃のことですから……十九の時、でしょうか」

「その頃からやはり文才は並外れていらしたんですかね?」

「いや……どうでしたかね。昔のことですから、記憶が曖昧で」


 彼が目を伏せたことから、これ以上は話したくないという明確な意図を汲み取った二人。顔を見合わせて自制する。


 あかねは学生時代、着物屋の娘であることなどを理由に、過激なグローバル化推進派やその取り巻きの同級生から目をつけられ嫌がらせを受けていた。そのせいか徐々に彼女は人目を気にするようになり、やがてそれは極度の緊張症へと育ってしまった。

 それに救いの手を差し伸べたのが和泉彩香。さらに、彰考会を発足させるきっかけを作ったのが篤郎の目の前にいる彼、名和優介だという噂なのだが……本人達が詳細を語りたがらない以上、真相は謎のままだ。


「そんなことより、望月さんの行方を知りませんか?」


 話題を変えるように、突然優介がそんな事を言い出した。


「望月さん?」


 剣士である彼女は会場準備やら受付やら、どこかにいたはずであるが、篤郎にすれ違った記憶は無い。

 

「いや、見てないな。吉田くんは」

「見てませんな」


 顔を見合わせて答える。そうですか……と視線を逸らした優介は、「見かけたらメッセージを頂けますか。サイン会前に彼女に渡しておかなければならない物がありますので」と言って控え室を後にした。

 再び静寂の訪れた部屋で、テレビだけが必死なあかねの声を落としていた。ちぐはぐな弛緩と緊張が二人の間へ横たわっていた。


「なんか今の名和先生、変でしたね」


 彼が消えた扉を見つめて、ぼそり、と剣星がこぼす。


「え?」

「いや、なんの根拠もない儂のタダの勘ですがね。なんて言うか……」


 眉根を寄せてううん、と剣星が唸る。こういった時の彼の直感は、なかなか侮れないものがあることを篤郎はよく知っていた。確かに普段の優介はそこまで饒舌ではないし、表情も乏しいほうだ。先ほどの彼の雰囲気が微妙に異なったのは篤郎でも何となく分かる。自分ならば「そんなこともあるだろう」くらいに見逃すほどの、些細なものである。だが剣星はそういった些細な違和感に、人一倍敏感だった。


「例えるならまるで――そうですな」


 名和先生の体を乗っ取った、別人のような。


「……なんて、『死体にクチナシ』じゃあるまいし、そんなホラーがある訳ないか」


 自分の言葉に自分で笑った剣星を、篤郎はどうしてか一緒に笑い飛ばすことが出来なかった。

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