第一話 三ノ宮
文月も半ばを過ぎた夏の盛り。
空には赤く色づいた雲間から、そっと月が覗いていた。
静けさの中にも夏特有の湿度を孕んだ夜気がなまめかしく、
その中に邯鄲や蟋蟀の声がジリジリと耳を擦るように囁き合う。
野辺に程近い道すがら、牛車を路肩に留め鬱蒼とした山林の陰に男が一人佇んでいた。
その男、三ノ宮は愛する女、大納言の大君の葬儀のため野辺に来ていた。
すでに屍は荼毘に付されたが、三ノ宮は悲しみに染まっている空さえも恋しく、大君が天上から見ているであろうこの空を見つめ続けていた。
大君と深い仲になったのは、昨年の今頃であった。
笛の名手である三ノ宮は、かねてより琵琶の腕で名高い大君に手合わせをするよう願い出て、御簾越しに楽を奏でた。
『亜子姫、わたしは、はじめからあなたのことを――』
誰もいない空中に向かい、心でそう呟くと双眸が水気を帯びて止めどなく溢れてくる。
公達がこのように感情を露わにするなど、誰かに見られでもしたら名折れであると知りつつも、心をどのように着地させればよいかわからず、ただひたすらにこの胸を覆う悲しみのままに身を任せるほか無かった。
たなびいていた雲もやがて消え、茜色が藍色にとっぷりと沈んだ頃、従者がしびれをきらして声をかけてきた。
「宮さま、そろそろお戻りになりませんと」
このまま野辺で一晩明かすことも許されぬ身、なれば仕方ない、と居に戻ることとなった。
邸内に戻るも心の落ち着かぬ三ノ宮は、一人庭に面した簀子で月を見ながら酒を煽っていた。
美しい庭園も、咲き誇る撫子も女郎花も、色が一切映らない。
愛する大君を失った心には、この世界は色彩を失って見える。
悲しみを流せるだけの力がこの身には残っていないとばかりに、瓶子を片手に握ると、そのまま体内に打ち流していく。
慣れない飲み方で煽っていく酒。
勢いよく取り込まれたものに、途端に眠気が押し寄せる。
その場で柱にもたれかかり目を細め、微睡みの中へ堕ちていく。
視界の端に小さな蛍が漂い、近づいてくるような気がした。
その暖かな優しい光に心の端がほんのりと温かく灯るのを感じた。
その晩三ノ宮は夢を見た。
水蓮が浮かぶ七宝池のほとりに立っていた。
すると霞がかった視界の先に何やら人影が見えるので、じぃっと目を凝らしてみているとそれは形づくられ、くっきりと眼前に現れた。
その人はまさしく、愛する大君であった。
こちらから近づくともなく、己の胸に飛び込んできた大君を強く抱き留める。
生きていた時と同じ温もりと香りが漂い、恋しい想いをより強く突きつけてくるようである。
「……大君、会いたかった。あぁ、あなたはなぜわたしを置いて逝ってしまったのですか」
「宮さま、思いもよらぬ流行り病だったのです。致し方のないことでござります……あなたに慈しんでいただいたご縁に感謝してもしきれませぬ」
腕の中で当然というように身を小さくし摺り寄せてくる大君は、
その大きな瞳で見上げながらそっと囁く。
右の頬を宮の胸にこするように当てては自分の場所とばかりに香りをつけてくる猫のようだ。
まるで現実かのような感触に宮は眩暈がたちこめ、昨日の野辺の景色が去来しては苦しくなってしまう。
「では、なぜこうして私の夢枕に訪れたのですか。
なにか無念があり現れたのであれば、教えておくれ。
わたしはあなたの黄泉路を温かく照らしてあげたいのだよ」
「一つだけ無念がござります」
「……それは一体なんだい」
「それは……あの屍はわたくしではないのです。
本物は野辺に運ばれる前、大納言邸で鬼にすり替えられてござります。
一時の気の迷いで魂から屍を手放してしまいました。
儚い命であったものの、せめて屍を取り戻し弔ってほしいと願うばかりです」
「そなたの最期の望みならばいかなる手を尽くし屍を取り戻すと誓おう。
しかし私は手立てに詳しくはないため、短くない年月がかかってしまうだろう。許しておくれ」
「黄泉の国の住人に聞き、宮さまのお力になれる方を案内いたしましょう。
いずれ、その方がうかがうでしょう――」
次第に霞が深まり、大君の姿が薄くなっていく。
腕を目いっぱいにし抱き込めようとしても、捕まえようとするほどに大君の姿は儚く薄くなり消え失せていくのであった。
「大君、待ってくれ、いましばらく――」
目が覚めると三ノ宮は額から大粒の汗を滴らせ、簀子に横たわっていた。
あの蛍も見当たらず、虫の声も夜風の動きもなく、ただ静まり返った庭園は、そこだけすっかりと闇の空間に浮かんでいるようだ。
ただ、どうしても夢とは思えない夢であった。
しばし呆然と座していた宮を見つけて乳母が声をかけてきた。
「保明親王、かような場所で寝てはお体にさわります。寝所でお休みくださいませ」
その声で宮はようやく我に戻り、夢見心地から浮遊し寝所へとよたよた進むのであった。




