第四章 止まった一瞬の中で
落下は永遠にも思えた。
実際には、ほんの数秒にすぎない。
だが、まだ自分の意思に従おうとしない身体に閉じ込められたリックにとって、その一秒一秒は果てしなく引き延ばされていた。
耳元で風が唸っていた。だが、彼にはほとんど聞こえなかった。
意識に届いていたのは、自分の心臓の鼓動と、地上へ近づくほどにはっきりしていく子どもたちの微かな泣き声だけだった。
救いたい。
怒り。
復讐心。
そのすべてが、彼を下へ引いていた。最初の標的へ。何があろうと届かなければならない一点へ。
ただ意志の力だけで、まだ無意識のうちに、彼は移動の術を手探りで使い始めていた。
悪そのものへ辿り着きたいという焦燥が強まるほど、落下もまた加速していく。
「遅い……遅すぎる……」
風を裂きながら、リックは囁いた。
「もっと速く……」
世界は、凍りついたようだった。
彼にとって、もはや動いているものは何ひとつない。ただ自分だけが、前へ、下へと進んでいる。
彼の視線は、叩きつけるべき一点に縫い留められていた。空気を蹴り、腕を伸ばし、虚空を裂こうとする。
老人の力がどう働いているのかは分からない。それでも、意志と恐怖と怒りが、その力の通り道を勝手に探していた。
下方――彼にとって停止している世界の中で、ただ一体だけが動いていた。
最速のフレックスだ。
凍りついた群衆のあいだを縫うように走り、逃げ道を探し、姿をくらまそうとしている。
彼は上空から落ちてくる一点を見た。そこから放たれる脅威を感じ取った。そして彼の頭を満たしたのは、ただひとつ――逃げなければ、という思いだけだった。
リックはその姿を視線で捉えた。
冷たく、空虚なその眼差しが、まるで刃のようにフレックスの背に突き刺さる。
フレックスは身を震わせた。見えない手がもう自分のうなじへ伸びてきているような錯覚。恐怖が、一瞬で心臓を握り潰した。
「あそこまでは、追ってこられない……」
彼は限界を超えて加速しながら、息を漏らした。
「《タイムスキップ》だ。できるだけ深く過去へ落ちる。そのあと、さらに奥へ、さらに――」
周囲の空気が灼けた。彼のすぐ近くで空間が波打つ。世界の一部が歪み、その内部だけ時間が逆流し始める。
「させるか」
リックの咆哮が静寂を裂いた。次の瞬間、乾いた重い破裂音が響く。
フレックスは消えた。
彼は時間の回廊を駆けていた。新しい時間線を次々に選び取りながら。周囲では、時代そのものが瞬いては消えていく。
恐竜の時代。
氷の時代。
そのさらに奥。もっと深く。
少しずつ、胸を締めつけていた恐慌が引いていく。その代わりに戻ってきたのは、自分の速度は誰にも届かないという、古い確信だった。
そして、その確信が戻った瞬間。
目の前で現実の裂け目が口を開いた。
何者かの手が、空間を無造作に貫いて現れる。そのまま喉を掴み、裂け目のほうへ強引に引きずり戻した。
フレックスの心臓が止まりかけた。
振りほどこうとしても無駄だった。その握力には、微塵の猶予もなかった。
どうやって……見つけた……?
思考はそこまでだった。次の瞬間には、彼は再び引きずり出されていた。
フレックスが時間の回廊から消えたその瞬間、リックの頭の中に、聞き慣れた声が響いた。
『最初の獲物としては選び損ねたな。身体に慣れてからにすれば、あんなもの、造作もなかった』
「おじいちゃん……?」
リックは反射的に応えた。
「まだいるの?」
『いや。私はもう向こう側だ。だが、お前に触れるくらいは、まだできる』
その声に、露骨な優しさはなかった。それでも、胸の内側を覆っていた氷が、ほんのわずかにひび割れた気がした。リックには親がいなかった。
友達もいなかった。自分のそばに立ってくれる者など、誰もいなかった。だからこそ、こういう抑えられた支えの気配でさえ、痛いほどに胸へ沁みた。
『よく聞け。一番厄介なところだけは、こちらで押さえる。そこから先は自分でやれ』
リックは、停止した世界をなお突き進みながら、黙ってうなずいた。
『移動の術は、結界の前で一度見せている。あの時、私はわざと遅くやった。お前はそこで本質を掴むべきだった』
「何も分からなかった……」
リックは正直に答えた。
「難しすぎる」
短い沈黙が落ちる。
『五つの子どもに理解できるはずもない。……なら、やり方を変える』
世界が止まった。
本当に止まったわけではない。ひとつの静止した瞬間へ、無理やり押し込められたのだ。
『よく見ろ』
リックの前に、スーツ姿の老人の薄い輪郭が浮かび上がった。肉体ではない。本当に戻ってきたわけでもない。ただ、止められた少年の知覚に押し込まれた意志の残滓にすぎない。
老人は手を上げる。空中に図や線や裂け目のようなものが現れた。だが、すぐにそれらを消す。
『……いや、違う。これでは無理だ』
そう呟き、彼は一歩近づいた。
『身体から教える』
老人はリックの右手首を掴んだ。
『拳を開け。指を伸ばせ。考えるな。感じろ』
そう言って、その腕を前へ導く。
外から見れば一瞬の閃光にしか見えない動きだった。
だがリックには違った。世界そのものが引き延ばされ、一ミリ進むだけで何時間、あるいは何日も過ぎていくように感じられた。
『筋肉を聞け。骨を聞け。力が一点へ集まる音を聞け』
老人はそれを何度も繰り返した。
説明しているのではない。身体に刻み込んでいるのだ。
無茶だと分かっていた。それでも老人は、止めた一瞬をさらに引き延ばし、理解ではなく身体に覚えさせようとした。
どれほどの時間が経ったのか、もう分からない。
だが――ある瞬間、不意に抵抗が消えた。
乾いた破裂音とともに、リックの腕が現実の織り目を突き破り、肘のあたりまで裂け目の向こうへ沈み込む。
彼は自分の力だけでフレックスを見つけた。ある時間線の奥で。
老人は手を離した。世界が再び動き出す。
『今のだ。分かったか』
リックは答えなかった。
涙だけが頬を伝っていた。
彼はゆっくりと、少しも慌てず、喉を掴んだままフレックスを裂け目から引きずり出す。
敵が完全に目の前へ戻ったところで、リックは左手で裂け目の縁をなぞった。空間は音もなく閉じる。
『自分で辿り着いたか』
老人の問いに、リックは小さく首を振った。深く息を吸い、手の甲で涙を拭う。そしてフレックスの目を、まっすぐ見た。
その目に怒りはなかった。ただ痛みだけがあった。濃く、冷たく、見ているだけで血の気が引くような痛みが。
「フレックス……」
リックは静かに言った。
「ごめん。でも、きみがしてきたことを思えば、ぼくはもう、生かしておけない。死ぬ前に……あの子たちが味わった痛みと恐怖の、ほんの欠片だけでも知ってほしい」
彼は、薄く立つ老人の輪郭のほうへ顔を向けた。涙がまた零れ落ちる。
「ぼくは誰かを殺したくなんてない……。でも、ここで退いたら、あの子たちが死ぬ」
再びフレックスを見る。
その瞬間、その目の中で何かが静かに死んだ。
迷いのあった場所に残ったのは、凍るほど冷たい空白だった。
「もう抵抗しない」
彼は囁くように言った。
「自分に与えられたものを、受け入れるだけだ」
リックの全身が、弦のように張り詰める。
短く鋭い一撃。
狙いは、心臓の少し下――みぞおち。
フレックスの身体から力が抜けた。
奇妙な光が、彼の中から浮かび上がる。細く、ほとんど見えない糸のようなものが、空へと引かれていく。
数秒ののち、その糸は次第に薄れ、やがて完全に消えた。あとには光も残らない。
リックは動かなかった。
「終わった……」
長い沈黙のあと、彼はようやく口を開いた。
「分かる。あいつの運命は、ここだけじゃなく……もっと全部まとめて、途切れた」
彼は目を閉じ、自分の内側へ耳を澄ませる。
「それに、もう一つ。ぼくの一撃は肉体だけを砕くんじゃない。相手の運命そのものに触れてしまう。……この次元にある、そいつのすべての写しごと、消してしまうんだ」
目を開けた彼は、自分の大人の身体を見下ろした。顔が恐怖に歪む。
「こんなものが……今のぼくの中にあるなんて……」
それから老人のほうへ目を向ける。唇に、かすかな笑みがよぎった。ほとんど子どものような笑みだったが、すぐに消えた。
「全部が終わったら……ひとつ、お願いがあります。大事なことなんです。あとで、聞いてください」
老人は一歩近づいた。ほんの一瞬だけ動きを止め、何かを押し殺すようにしてから、リックの肩を強く掴む。
『心配するな。お前が何を願うかくらい、もう分かっている』
* * *
リチャードが老人と話しているあいだ、地上の敵たちは誰ひとり身じろぎすらできなかった。
時間を巻き戻されたあとでさえ、今や目の前にいるのが本物の老人ではなく、その若い身体にすぎないと分かっていてなお、あの時味わわされた屈辱の記憶は消えていなかった。
彼らはそれぞれの次元の神であり、だからこそ記憶を保っていた。
ただ待つしかなかった。
あの薄い影が完全に消え去るのを。
そうすれば、彼らを跪かせた存在の若き影へ、今度こそ報いを与えられる。
老人はそれ以上、留まろうとはしなかった。
リックはすでに身体の声を聞き始めていた。力の流れを感じ始めていた。ここで余計な手を差し伸べれば、かえってそれを損なう。
それでも、消え際に彼は胸の内でひとつだけ繰り返した。
――本当にまずくなれば、その時は私が出る。
薄い輪郭が完全に霧散した時、地上の空気は変わった。
恐怖は消えていない。
だが、その上に別のものが重なる。
報復への渇き。
かつて自らが受けた屈辱を忘れられない原初世界の神々は、もはや退くことができなかった。
目の前に立っているのが、あの老人本人ではなく、ただその若き影にすぎないとしても、そんなことはどうでもよかった。
彼らが欲していたのは、ただ血だけだった。
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