第二十九章 疾風迅雷
マトゥンとカグツチは、少しでも足を速めようとしていた。東への道は畑と雑木林を縫って続き、熊は重く大きな歩幅で進む。杖は炎の魔術師の横を漂い、杖頭の結晶は変わらず青く灯っていた。太陽はゆっくりと背中のほうへ傾き、二つの影が前方へ長く伸びていった。
夕方近く、二人は小さな湖のほとりにある大きな漁村にたどり着いた。水辺には網が干され、桟橋では舟が揺れ、屋根の上には煙と焼き魚の匂いが漂っている。カグツチの胸のサファイア級の徽章に気づくと、村人たちは総出で迎えに出て、口々に夕飯をと誘った。だが二人はそれを断り、本当の理由を告げた。
「さらわれた子どもたちを助けに急いでいるんです。東の山脈の向こうに囚われています」
村人たちの顔から笑みが消えた。引き止める者はいなかった。女たちは急いでパンと燻製の魚を布に包み、漁師のひとりがカグツチに水筒を押しつけた。マトゥンが短く頭を下げると、人々は道を空けた。
二人は力のかぎり先を急ぎ、食事は歩きながら済ませた。村はすぐに後ろへ遠ざかり、やがて犬の吠える声さえ聞こえなくなった。
カグツチは長いあいだ黙って歩き、横目で熊をうかがっていた。眼窩の炭が燃え上がっては、また弱まる。
「兄弟、聞きづらかったんだが……」彼は言い淀み、それでも続けた。「お前の中に、俺よりずっと上の力を感じる。封印される前の俺よりも……」
マトゥンは歩みを止めずに、黙って彼を見た。
「速く移動する手はあるか?」ためらいはもう跡形もなかった。時間がないのだ。「俺はただ、飛ばすのが怖かった。お前がついてこられないと思って……」
その瞬間、マトゥンは地を蹴って前へ駆け去った。足の下で大地が鈍く唸り、道の両側の草がぺたりと伏せた。
カグツチも迷わなかった。結晶へ、惜しみなく魔力を注ぎこむ。杖のまわりの空間が波打ち、熱は一気に跳ね上がってなおも上がりつづけ、道の上の空気が揺らいだ。結晶の青い斑の中に、小さな黒い点がいくつも浮かび上がる。結晶から竜の咆哮がほとばしって野を渡り、草の上を波が走って、すぐに静まった。
そして頭の中に、杖の声が響いた。弱々しく、ほとんど力の尽きた囁きだった。
《お前の記憶を見た……この世界に生まれていれば、お前はもう父の跡を継いでいただろう……》声は小さく笑い、続けた。《封じられて、我は老いた。力の盛りも過ぎた……礼を言う、友よ……お前は我に希望をくれた》
カグツチはもう地面を走ってはいなかった。身を包む炎が触れるものすべてを溶かし、後ろには焼き固まった土の筋が残っていく。耳元で風が唸り、両側の畑はひとつの暗い帯に溶けた。そしてようやく、地平に、はるか先を行くマトゥンの姿が見えてきた。
《お前の力を感じる……》声から荒い息が少しずつ消え、声そのものが落ち着いていく。《お前にも、我らと同じものがある……傲慢と、虚栄……素晴らしい……》
カグツチの胸に熱がこもり、肺を痛みが焼いた。息を吸うたびに内側が灼けるようだったが、彼は屈せず、熊との差を詰めつづけた。
ようやく並んだとき、マトゥンは走りながら振り返り、杖をまっすぐに見て何か唸った。それに応えて、結晶が瞬いた。マトゥンは短く吼え、顔を背けた。
カグツチは戸惑い、熊と結晶とを見比べた。だが何も尋ねず、そのまま走りつづけた。
* * *
夜になっても、二人はまだ道の上にいた。月が畑の上に昇り、道は地平まで白く浮かんでいた。熊は重く、規則正しい息で先を駆け、そのすぐ後をカグツチの炎が追う。その光に、道端の杭や垣根や眠る農家が一瞬だけ闇から浮かび、すぐまた沈んだ。どこかの庭で犬が狂ったように吠えだしては、二人が遠くへ消える頃にようやく黙った。
カグツチは息を数えながら走った。胸の熱は引いては、また押し寄せる。そのたびに歯を食いしばり、前を行く熊の暗い背中だけを見つめた。
夜明け前、前方に灯の照り返しが見えてきた。王都は平原に広々と横たわり、城壁は見渡すかぎりの果てまで続いていた。その上に塔と丸屋根がそびえ、すべての上に、幾千もの煙突から立ちのぼる靄がかかっている。こんな時刻でさえ、門へ向かう荷車が列をなし、街道には灯がともっていた。
都には入らなかった。マトゥンは街道を外れ、畑と荒れ地を通って迂回し、二人は長いあいだ城壁沿いを駆けた。物見の塔から、見張りたちが炎の軌跡を目で追った。誰かが叫び、鐘が鳴ったが、衛兵が城壁の上に駆け上がった頃には、平原にくすぶる草の跡が残っているだけだった。
日が昇ったとき、王都はもう背後に消えていた。畑にはまだ朝露が残り、カグツチが駆け抜けたあとで、それがしゅうっと音を立てて湯気に変わった。
村がひとつ、またひとつと流れ去り、昼前にはもう数えきれなくなった。畑の農夫たちは鎌を放り出して旅人を見送り、子どもたちは歓声を上げて道端を追いかけてはすぐに取り残され、街道の御者たちは慌てて脇へ寄り、いななく馬を押さえた。
やがて、町が何十と後ろへ流れ去っていった。古い石の城壁の陰に身を寄せ合う小さな町もあれば、丘の上に広がり、市場の広場と神殿の尖塔を抱く町もあった。川は橋で渡った。熊は歩みを緩めずに駆け抜け、その重みに橋板が哀れっぽく軋んだ。いちばん大きな町々は、畑を通って避けた。物見の塔の鐘はたびたび警鐘を打ったが、その音はいつも遥か後ろに置き去りにされた。
休みはほとんど取らなかった。一度だけ、小川のそばで足を止めた。マトゥンは胸まで水に入り、長いこと貪るように飲んだ。カグツチは岸の石に腰を下ろし、胸に掌を押し当てて荒い息をついていた。その肩から湯気が立ちのぼる。あたりは静かで、せせらぎと、どこかのハンノキの茂みで鳥が呼び交わす声だけがあった。熊は水の滴る鼻面を上げ、長いあいだ魔術師を見つめていた。
身の内の熱は引かなかった。結晶は相変わらず瞬き、黒い点も消えないまま、杖の声はもう聞こえなかった。先に立ち上がったのはカグツチで、二人はまた走りだした。
二日目の夕方には、畑は丘に変わり、丘はしだいに険しく、石がちになっていった。村はまばらになり、道は細くなって岩のあいだをうねりはじめた。空気がひんやりとして、雪の匂いが混じった。カグツチは二日ぶりに胸いっぱいに息を吸い、冷気が焼けた肺を冷ました。
そして背後に日が沈んだとき、前方に、空の半分をふさいで東の山脈がそびえ立った。
道は上りになり、ほどなく峡谷に突き当たった。そして前方に、巨大な城壁が現れた。峡谷を斜面から斜面までふさぎ、その上には火が燃え、狭間の上に黒い塔がそびえている。遠目にも、火明かりの中を、胸壁沿いに小さな見張りの影が動いているのが見えた。
頭の中に、また杖の声が響いた。
《お前たちの計画では、正面からは行けぬ……右へ折れて、山を越えて行け……》声が低く唸り、杖頭の結晶が一瞬暗くなった。《赤どもが、お前たちに驚くだろう……》
カグツチは杖を横目で見たが、何も言わなかった。マトゥンは鼻を鳴らして道を右へ外れ、二人は灯から遠ざかるように、石だらけの斜面を登りはじめた。
山脈は西のものよりずっと低かった。吹雪はなく、風は乾いて一定に吹き、雪は岩の割れ目や北側の陰にまだらに残っているだけだった。熊の足の下で凍った砂利が鳴り、カグツチの足もとから小石が転げ落ち、はるか下でいつまでも木霊が響いた。背の低い松が岩の裂け目に根を張り、そのあいだを細い獣道が縫っていた。夜通し歩き、夜明けには、城壁とその灯は山の曲がりの向こう、ずっと後ろに消えていた。
日が峰の上に昇ったとき、マトゥンがふいに立ち止まり、鼻をひくつかせた。遠く、隣の山の斜面に、赤い竜の群れが寝そべっていた。その鱗は朝日に銅色に照り返り、群れの上には吐息の湯気がのんびりと立ちのぼっていた。
杖の声は、すぐに頭の中で応えた。
《なぜ、こんなに少ない?》声が小さくなり、そこには絶望がにじんでいた。《何かがおかしい……》
二人は群れが休む峠へ下りていき、そこで、皆が息を呑んだ。年老いた大きな竜は一頭もいなかった。若い竜ばかりで、成竜はわずかしかいない。しかもどの竜にも鞍と鎧がつけられていた。革帯が首と胸を締めつけ、脇腹には鋼の板が光っている。
杖の結晶が炎に包まれた。熱がカグツチの顔を打ち、結晶から重く、くぐもった怒りが伝わってきた。
二人は群れのほうへ急いだ。十分に近づいたところで、竜たちは匂いを嗅ぎつけて頭をもたげた。唸る竜も、飛びかかる竜も一頭もいなかった。群れは後ずさってよそ者を避け、すべての目が、熱を放つ結晶に釘づけになっていた。結晶は炎を上げて青く輝き、カグツチのまわりの草が燻りはじめた。竜たちは黙ったまま、うなじのとさかを逆立てるばかりだった。
すると、頭の中にまた杖の声がした。
《この小物どもは、一族の言葉さえ知らぬ……》声はどうしても収まらなかった。《群れの長のことを訊きたかったが……何の意味がある……》
静寂が落ちた。峠の風さえ、止んだように思えた。
《それに、ずいぶんと小さい……どうやら退化したか……ちっ……恥さらしめ……》
杖から竜の咆哮がほとばしり、結晶はいっそう激しく燃えた。竜たちは一頭、また一頭と、気を失って岩の上に崩れ落ちていった。重い体が斜面に鈍く打ちつけられ、鎧が鳴り、細かな石が転がり落ちる。そして今度は頭の中ではなく、峠じゅうに、短いひと言が響き渡った。
《竜の一族の掟を忘れたか……弱き者は、強き者の糧となる……》
マトゥンの毛が逆立った。草の上を細かなさざ波が走り、斜面の木々が揺れて、熊から逃れるように傾いていった。そして竜たちを押さえつけていた力が、ふっと緩んだかのようだった。竜たちは少しずつ正気を取り戻し、翼を動かし、重たげに頭をもたげはじめた。
マトゥンはカグツチに歩み寄り、杖をまっすぐに見た。その胸から深く重い咆哮がほとばしり、足もとの石が震えた。
杖の結晶が弱々しく瞬き、熊は低く唸った。
《手を出すな。こいつらに罪はない……お前たちを封じたのも人間だ……こいつらがどんな有様か、お前がいちばんよく知っているはずだ……》
それから熊は顔を背けた。その怒りが、前と同じように、杖を正気に返らせたようだった。結晶のまわりの炎が引き、青い光が落ち着いた。
《すまぬ、友よ》杖の声はマトゥンに向けられていた。《これが竜の一族というものだ。我らには、そういうものは効かぬ……》
熊は何も答えなかった。ただ倒れた竜たちのそばを通り過ぎ、カグツチは黙ってそのあとに続き、杖はその背後を漂っていった。
竜たちは、まだ澄みきらない濁った目で二人を見送った。一頭、また一頭と身を起こそうとしては、岩に足を突っぱり、また鎧を鳴らして斜面に崩れる。それでも少しずつ立ち上がる竜が現れ、よろめきながら、熊のあとを追って数歩踏み出した。
マトゥンは振り返った。長いあいだ竜たちを見つめ、短く唸る。竜たちは動きを止め、おとなしく頭を垂れた。
峠が後ろに遠ざかると、山道の上に、また杖の声だけがぽつりと響いた。
《妙だ……群れの長はどこにいる?……父よりずっと弱いとはいえ、ここまでではないはずだ……》
二人は山脈の反対側へ、斜面を下っていった。道は岩のあいだをうねり、足もとで乾いた松葉が鳴り、はるか下の谷間に雪がまばらに残っていた。カグツチは長いこと黙って結晶をうかがっていたが、とうとうこらえきれなくなった。
「なあ……お前、俺の頭の中で話したり、声に出したりするだろう。どうしたんだ?」
短い沈黙が落ちた。それから杖の声が、さっきより小さく、震えを帯びて言った。
《お前の友が、我を正気に返らせたのだ……》
マトゥンは先を歩き、振り返りもせず、ただ耳だけを動かした。
やがて遠くに町の尖塔が見え、その向こうに巨大な城壁が現れた。町は山脈の向こうの谷にあり、屋根の上には煙がたなびいていた。
「ひとつ、気になってることがあるんだ……」見えてきた町を見つめながら、カグツチが口を開いた。「ほかの長たちは、どうなった? それとも、一族は二つだけだったのか?」
声はすぐには答えなかった。やがて、苦々しげに舌打ちした。
《あの老いぼれの化け物め……千年前、一族は七つあった……》声の苦さが、少しずつ怒りに変わっていく。《奴は赤の長を追い払い、深手を負わせた……五頭を殺し、その群れはわずかな残りかすになった》
杖頭の結晶が暗くなり、青い斑の中の黒い点が濃くなった。
《五つの石の伝説を聞いたことがあるか?……でたらめだ。我はすべて見ていた……奴は石など使わずに赤の長に傷を負わせ、五頭を殺して、その結晶を己の杖に嵌めこんだのだ》
カグツチは結晶が震えているのを感じた。その震えとともに、恐怖が伝わってきた。
《お前たちが兄貴と呼ぶ、あの男が……恐ろしくて、口をきくことさえできなかった……》
カグツチの眼窩の炭が、ゆっくりと弱まった。彼は何も答えず、ただ唇をきつく結んだ。
ほどなく二人は、別の国の領土がはじまる斜面に出た。眼下に谷が広がり、その真ん中に町があった。町の上空では竜が旋回し、谷と屋根のすぐ上を、重い雷雲が渡っている。ときおり、その奥で雷が鈍く寝返りを打った。
マトゥンが唸り、杖が言った。
《こいつは言っている。始めるぞ、混乱が要る、と》
それから杖は少し考え、付け加えた。
《金の竜の一族が使った技がある……氷の魔術師と戦ったときのように、炎をもっと熱くしろ……たっぷり集めて、町の上の雲へ放て》
カグツチは黙って両手を突き出し、炎を白く灼熱させた。目の前に炎を集めはじめると、空気がぱちぱちと鳴った。地面から土埃が舞い上がり、その上を小さな放電が跳ねまわる。球はみるみる大きくなり、四方へ放電を撃ち出し、魔術師のまわりの草が黒く焦げた。そこでカグツチは、渾身の力でそれを突き放した。
球は空へ舞い上がった。光の点はどこまでも遠ざかり、やがて町の上の雲の中に留まった。そこで球は溶けるように消え、雲が白い閃光に照らし出された。そして次々と、町に稲妻が落ちはじめた。
稲妻が衛兵の目を引いているうちに、二人は町へ駆けだした。走ったのは一時間足らず。斜面は谷に、谷は畑に、畑は菜園と町外れのまばらな小屋に変わった。窓から怯えた顔がのぞいては、すぐに引っこむ。頭上では雷が絶え間なく轟き、稲妻が次々に雲を裂き、落ちるたびに町から新たな煙の柱が上がった。マトゥンが先を駆け、カグツチがそのあとに続き、魔術師を包む炎が走りながら唸っていた。
駆け寄ると、目の前に高さ数十メートルの城壁がそびえ立った。城壁の上から気づかれた。角笛が鳴り、狭間に人影がちらつき、魔法と矢と、弩砲の重い太矢が降りそそいだ。
カグツチは両手を突き出し、小さな球を次々に作っては、城壁の敵へ投げつけた。杖も炎を吐き、それが当たるたびに狭間が燃え上がり、人々が叫びながら逃げ散った。
熊は門に歩み寄り、後ろ足で立ち上がった。矢弾も魔法も彼を避けていく。矢はそれ、太矢は脇を飛び過ぎ、火球は毛に触れることもなく火の粉になって散った。門は城壁よりわずかに低いだけだった。マトゥンが両の前足で叩きつけると、扉は蝶番ごと引きちぎれた。扉は町の奥へ飛んでいったが、向こうで何者かがそれを脇へ弾き飛ばし、扉は轟音とともに隣の屋根の上に落ちた。
舞い上がった土埃の中から、七人の一隊が現れた。どの胸にも徽章が揺れている。交差した剣に、二匹の蛇が巻きついた徽章。ただし、それは青い石でできていた。
カグツチは自分の徽章を持ち上げて見つめ、それから目を細めて敵の一隊を見た。
「どうやら……サファイア級か……」
フードの下で、眼窩の炭が激しく燃え上がった。マトゥンのうなじの毛が逆立った。
前に進み出たのは、黒い鎧に長い黒の剣を携えた、背の高い騎士だった。彼が城壁の兵たちへ手を上げると、矢はぴたりと止んだ。
「同じ級の若造どもは、我らが片づける……」それから彼は、カグツチとマトゥンに目を移した。「お前たちの噂は、もう聞いている……」
旋風が二組のあいだに土埃を巻き上げた。カグツチが掌を開くと、杖がその手に収まり、魔術師から四方へ放電が弾けた。マトゥンのまわりでは怒りに空間が歪みはじめ、足もとの石畳にひびが走った。
稲妻が通りを打ち、二組は互いに向かって踏み出した。
――――――――――
第二十九章をお読みいただき、ありがとうございます。
疾風迅雷。
今回は、マトゥンとカグツチの東への旅でした。
駆け抜けた夜と、数えきれない村と町。
峠で出会った、鞍をつけられた赤い竜たち。
そして、杖の声が口にすることさえ恐れた男。
マトゥンが黙って見つめているとき、何を考えているのか。
少しだけ気にしながら読んでいただけると嬉しいです。
次回、稲妻の落ちる町で、ついに刃が交わります。
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感想も、ひと言でも大歓迎です。
ニック・オッカム




