1.絶体絶命の始まり〜コハルナ
バチン!と目が合って慄いた。
初めて会うはずの人だった。
なのに――あの男を知っている。
あの髪色。
あの瞳。
あの深い赤に見覚えがある。
それに、あの目立つ傷跡。
半袖からのぞく逞しい腕と、端正な頬を横切るそれ。
針で縫われた、引きつれた銀の傷跡。
(あの目立つ傷は……)
認めたくない。
認めたくないが、間違いない。
あの雑な縫い目に、確かに見覚えがある。
おそらくあれは――
コハルナが付けたものだ。
コハルナに向けられた、鋭く睨む男の視線は外れない。
怒りに燃えているかのような赤い瞳だ。
(ヤバイヤバイヤバイヤバイ……!)
ただ同じ言葉だけが、頭の中を駆け巡る。
(ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!)
心の中で必死に謝った。
(本当に、知らなかったの。まさかあれがあなただったなんて、思わなかったのよ!)
だが、男の目は動かない。
(本当よ!知ってたら、私だって自分で縫わなかったわ!)
言い訳を重ねても、鋭い怒りの視線は向けられたままだった。
(怖い……)
コハルナの指先が小刻みに震える。
男は、きっとコハルナを恨んでいる。
あんな傷をつけてしまったのだ。
恨まれても、当然だ。
それでも、本当に知らなかったのだ。
ただ拾った人形がとても傷んでいたから、見ていられず針で縫っただけだ。
あの人形が、人間だって知っていたら。
本物の、高貴な騎士様だって分かっていたら、コハルナだって、自分で縫ったりはしなかった。
不器用な自分ではなく、裁縫が得意なドロテアに任せたはずだ。
けれどそんな言い訳が通用するはずもなく――
男はただ、こちらを睨み続けている。
コハルナはそっと視線を外した。
(やっぱり、来るんじゃなかった…)
心の中は後悔で満ちていた。
* * *
ここは、街にあるカフェ「ルピナス」だ。
今日コハルナは、幼馴染のドロテアに誘われて、彼女の恋人が企画した合コンに来ている。
正直、最初から気乗りしない会だった。
ドロテアの恋人、カイルは騎士様だ。
戦場に立つ男らしく、体も声も大きい。
出会ったときは驚いたが、何度か顔を見合わせるうちに朗らかな人だと分かった。
明るくて美人なドロテアとお似合いの二人だった。
『コハルナちゃん、彼氏いないの?俺の友達紹介しようか?』
そんなふうに、気さくに声をかけてくれたこともある。
コハルナだって、恋人に憧れがないわけじゃない。
けれど、騎士様は対象外だ。
コハルナの理想は、優しくて穏やかな人だ。
一緒にいて緊張しない人がいい。
あんな体格の騎士に近づかれたら、それだけで萎縮してしまう。
紹介されても、きっと失礼にも怯えてしまうに違いない。
それなのに――
『コハルナ、お願い。今度の休みに、カイルの友達に頼まれて合コンするんだけど、女子があと一人足りないの。幼馴染のよしみで、参加してよ』
そうドロテアに頼まれた。
カイルの友達となれば、相手は騎士だろう。
ううん……と渋るコハルナに、ドロテアはさらに言葉を重ねる。
『会場は、コハルナが好きな、あのお店だよ? 「ルピナス」のスイーツ食べたいって言ってたでしょ? お昼だからお酒も出ないし、食べ放題だよ?』
『ルピナスかぁ……』
ルピナスには行きたい。
落ち着いた雰囲気で、スイーツがおいしい店だ。
季節のタルトは、フルーツもクリームもたっぷりで、とてもおいしい。
食べ放題も魅力的だ。
(でも――)
わざわざ合コンで行かなくてもいいのではないか。
そう思いながらも、タルトのことが頭から離れない。
『今月のタルト、なんだろう……』
『行って確かめればいいじゃない。はい、決まりね!』
思わず呟いた言葉で、いつの間にか参加が決まってしまった会だった。
決して乗り気だったわけではない。
それでも『コハルナが一緒なんて、楽しみ!』と笑うドロテアを見て、少しだけ楽しみになっていた。
今日は、持っている服の中で一番お気に入りのワンピースを着てきた。
一応合コンらしく、おしゃれしてきたつもりだ。
緊張しながらルピナスの扉を開けると、顔見知りの女の子たちがいて、コハルナはほっと胸をなで下ろした。
「ごめんね、女の子たちの方が早かったね。もうすぐ男たちも来るからさ、先に好きな席に座っててよ。後で適当に座るから」
カイルの声かけに、女の子たちは楽しげに声を上げながら席を選び始めた。
コハルナは店の奥、一番目立たない席を選び、そっと腰を下ろす。
観葉植物に隠れるようなその席は、合コンの輪から外れて見える場所だった。
誰もコハルナと同じ席に座らなければ、このまま普通に会計を済ませて帰ればいい。
——そんなことまで考えていた。
テーブルのメニューを手に取り、コハルナは真剣にタルトを選び始める。
途中、周りでドロテアたちの声が弾む。
けれどコハルナは気にせず、メニューに視線を落としたままだった。
(今日は……やっぱりマスカットね。季節のタルトにしようっと!)
タルトを決めて顔を上げた、その瞬間。
バチン!と目が合ったのが、あの赤い髪の男だった。
さり気なく視線を落としたコハルナは、テーブルの木目をただ見つめる。
何も考えられないまま、額に突き刺さるような視線だけを感じていた。
「なんだよアルジャン、あの子のこと気になるのか?じゃあ――アルジャンの席はあそこだな。コハルナちゃんの隣」
そう、カイルの声がした。
あの赤い髪の男は、アルジャンという名前らしい。
(止めて――!!)
心の中でカイルに叫ぶが、コハルナの願いは届かない。
目の前で椅子が引かれる音がした。
気配だけで、その体格に圧倒される。
「え〜コハルナったらズルい!」
「私たちもアルジャン様と同じ席がいいな」
ミーナとネッサの声も聞こえる。
(ミーナ……!ネッサ……!)
救いの声に聞こえた。
四人がけのテーブルは、まだ二席空いている。
騎士好きの二人ならば、この席でアルジャンの気を引きつけてくれそうだ。
「ミーナ、ネッサ、よかったらこの席どうぞ。……あ、でも女の子3人になっちゃうわね。私が席を代わるわ」
そう言って、コハルナが立ち上がろうとした――そのとき。
「あら、アルジャンじゃない。私、ここに座ろうかしら」
横から声がして、コハルナの隣の席に、ひとりの女性が腰を下ろした。
知らない人だった。
背が高く、すらりとした、とても綺麗な人だ。
ドロテアも美人だが、それとはまるで違う。
圧倒されるような、隙のない美しさだった。
ラメの輝く魅惑的な目元。真紅の口紅。艶やかな髪。
明らかに質の違う、洗練されたデザインの服をまとっている。
どう見ても、コハルナとは違う世界に住む者だった。
「……セラフィナ」
アルジャンが、低く名前を呼んだ。
知り合いなのだろうか。
目の前にはガタイのいい男。
隣には圧倒的な美人。
今すぐ帰りたいが、奥の席を選んでしまったせいで、コハルナは立ち上がって逃げることもできない。
また、木目に視線を落とす。
「あなた……カイルの友達なの?コハルナちゃんって言ったかしら?」
かけられた声に、視線を上げる。
隣の美人は、どうやらカイルとも知り合いらしい。
「私は魔法治癒師のセラフィナよ。そこに座ってる人がアルジャン。アルジャンやカイルとは同じ部隊なの。よろしくね、コハルナちゃん」
「あ、コハルナです。町の診療所で働いています。よろしくお願いします」
紹介を受けて、ぺこっと小さく頭を下げる。
低い声で、「どうも」と、アルジャンが返事をした――気がする。
「コハルナちゃんと私は、同じような仕事ね。仲良くなれそうでよかったわ」
魅惑的に微笑むセラフィナの言葉に、コハルナは曖昧に微笑みを返す。
コハルナは、おじいちゃん先生が経営する、町の小さな診療所を手伝っているだけだ。どう考えても、彼女と同じような仕事のはずがない。
どう言葉を返せばいいか、わからない。
(ミーナ、ネッサ、助けて……)
セラフィナは女性だが、騎士様に目がない二人なら、この席に来るはずだ。
まだ一席空いている。
コハルナが立てば、もう一席空く。
救いを求めて、ミーナたちに視線を向ける。
けれど二人は、すでに同じテーブルについた騎士たちに顔を輝かせていた。
もう、こちらを見る気配すらない。
「やあ、空いてるのは、この席だけかな?」
そう言って、新たに来た男が椅子を引く。
それで、コハルナのテーブルは埋まってしまった。
すらりとした細身の男だった。
騎士ではなさそうだが、その佇まいや衣装から、只者ではないと分かる。
少なくとも、自分と同じ側の人間ではない。
(助けて……)
コハルナは、心の中で誰にも届かない声を落とした。




