2. 夢に集いて
幾億もの星が瞬く晩であった。
北限の町ドールは短い安らぎの時間を迎えている。
身を切られるような寒さから暖かい布団の中へ逃げ込むことが出来るのは、どんな者であろうとも幸せなことだ。
先程まで賑やかな喧騒にまみれていたはずの酒場も店仕舞いをし、凍てつく夜の町は明かりと人影が絶えて静まり返っている。
誰もが眠りを貪っていた。
何もせず、何も聞かず、身動ぎすらもせずに。
雪で覆われ尽くした町と冴え渡る星月の明かりで飾り付けられた満天の夜空――白と黒の静寂。
それが──突如として変化した。不意に流れてきた、これまでに聴いたこともない美しき調べによって。
旋律は町の中央に位置する広場から風によって運ばれ、各々の家で眠っているはずの人々の耳へと届いた。
それは決して眠りを妨げるものでなく、逆に今の眠りから、さらに心地良いものへ誘おうとするかのように。
ただ暗闇を枕にして泥のように眠っていた人々が、洩れなく色鮮やかで美しい夢を見始めた。
誰もが同じ陶酔の夢を。
夢の中では、見たこともない吟遊詩人が一人おり、町の広場に佇んでいた。
黒いマントに鍔広の 旅帽子。
手には見事な細工で形作られた《銀の竪琴》を携えて。
♪~
その弦に繊細な指がかかるや否や、女神の歌声と天上の如き旋律が流れた。
そして、吟遊詩人の顔は──
ああ、人の顔というものが、これほどまで――究極と呼んでもいいくらいの美しさを持てるものなのだろうか。誰もが奇跡の発現を目の当たりにしてしまうと、口にすべき言葉を忘れ、ただただ感嘆の吐息を禁じ得ない。
そんな高次元化された美と歌声に導かれるようにして、自分の家のベッドで寝ていた町の人々が次々と集った。
一歩外に出れば氷霜の牢獄に閉じ込められたも同然の寒さだというのに、誰一人として上着の一枚も羽織っていない。寝巻きのままだ。
もちろん、これは夢だ。現実には有り得ないもの。けれども、それが何の意味を持つというのか。
吟遊詩人の美しさと詩がもたらす心地良さは、夢の中であろうと少しの価値も失われない。
集まった聴衆に対して、吟遊詩人は温かみのある微笑みを返した。
『さあ、歌おう。ここにいる全員で』
夜の詩が歌われた。
広場の中心に立つ吟遊詩人は、身にまとった漆黒の衣裳が象徴するように 、この場にふさわしき “夜のひと” だった。
月と星と、風と詩と。
初めて耳にするはずの詩なのに、皆、なぜか諳んじることが出来た。まるで昔から折に触れて歌い、慣れ親しんできたかのように。
吟遊詩人による心の琴線に触れる演奏に合わせ、人々は楽しげに歌声を重ねた。
見慣れているはずの退屈な町並みは、住民たちの目にいつもと違って映った。夜であるにも関わらず、氷雪の如き冷たい闇が振り払われ、暖かな陽光に満ち溢れている。何よりも心の安寧が人々をじんわりと癒し、身体を軽くしてくれるかのようだ。
これは──春だ。
極寒の冬の中に押し込められた町の人々が、その訪れを指折り数えて待ち望み続けていた春。
歓喜の発露は自然と詩になった。誰からともなく手を繋ぎ合い、全員で踊るように大きな人の輪を作り上げる。
このように心が浮き立つ気分は、一体どれほど振りだろうか。すぐには思い出せなかったが、こうやって皆で歌っていると、そんな遠い記憶の残照はどうでも良くなってしまう。とにかく今を楽しめさえすればいい。余計なことなど考えずに。
歌はいつまでも終わらなかった。
やっと長い忍従を強いられた季節が終わったのだから。
春の喜びが温もりに満ちた陽光と共に訪れ、身も心も解放されていく。
人々はずっと忘れていた生きている実感をようやく取り戻せたような気がした。
───
幾億もの星の瞬く晩であった。
明日になれば、町の誰もが同じことを口にするだろう。
──なあ、聞いてくれよ。夕べ、とても美しい夢を見たんだ。
――お前もか? オレもだ。
――私もよ。
そして、互いに同じ内容の夢だったと知って、きっと顔を見合わせ、異口同音に驚きの言葉を発するに違いない。
――そんな不思議なことがあるのか、と。
「………」
何の前触れもなく夢から覚めたかのように、たった一人で唄い終えたウィルは、現実には夜明け前という漆黒の暗さの中、雪で凍りついた広場の中央に佇み、果たして何を思ったであろうか。
「おーい!」
翌日、町の広場へ向かうウィルの背に大きな声がかけられた。
振り返れば、あの旅の商人ロムが駆け寄って来るところだった。どうやら、わざわざウィルのことを捜していたらしい。
厳しい寒気にさらされていたドールの町は、久しぶりに雪も止んで、雲の薄い部分から太陽の光も僅かばかり届いていた。冷え込み自体は相変わらずだが、いよいよ春の訪れが近い、と何となく実感できる。
そのせいか、昨日よりも人々の表情に活気が垣間見えた。
ロムが追いつくのを待ってから、ウィルは再び歩き始めた。
「よう、昨日は何処に泊まったんだい? 町中の宿を捜し回ったんだぜ。と言っても、この町にはオレの宿泊先と、もう一軒しか宿屋はねえけどよ」
「夕べは野宿した」
平然と答えてのけたウィルに、ロムは驚きの余り顎を外しかけた。非常識にも程がある。
「のっ、のののっ、野宿だとぉ!? この寒い最中にかぁ!? 正気かよ!? 凍死しちまっても知らねえぞ! まったくよぉ、出会ったときもそうだったが、お前さんはどういう神経をしてんだよ? よく無事でいられたもんだぜ。宿賃がねえなら遠慮なく言ってくれりゃあ立て替えてやったのに。オレはそんなに薄情でも、懐の寂しい男でもねえぜ」
朝の新鮮で澄んだ空気を胸一杯に吸いながら、ロムは一気に喋った。ウィルの美貌を前にしてよく喋る男だが、本当はいつもの半分も調子が出ていない。これでもロムにしてはアガっているのだ。
「──にしても、どうなっちまったんだ、この町は?」
「どうした、とは?」
昨日よりは少し打ち解けて来たか、ウィルはロムの会話に乗ってきた。
このことに驚きはありながらも、それより、とロムは咳払いしてから続ける。
「だって、見てみろよ。同じ毎日を繰り返す、いつものドールの町じゃねえぜ。さっきはかっぱらいの現場に出会した。普段はすれ違うだけの爺さんと婆さんが、今日に限って挨拶して立ち話を始めたのもおったまげたし、通りすがりの犬なんかクシャミをしていやがったんだ。こんなこと、今までには有り得なかったことだぜ」
「そうか」
ウィルの物言いはあっさりしていた。自分の話を受け流されたことに、ロムは言い返さずにはいられなくなる。
「ああーっ! アンタぁ、まーだオレがからかってると思ってんだろ!? 言っとくけどなぁ、ホントにホントなんだぜ! この町は同じ毎日を一年中繰り返していたんだ! ──まあ、それも昨日までの話だったけどよぉ」
信じてもらうべくロムは必死に喋った。
しかし、ウィルはまったく意に介していないようだ。どうやら、これ以上はいくら言っても証明するのは不可能だと判断し、不本意ながらロムはこの話を引っ込める。
「――で、これから何処へ行くんだい?」
横に並んで歩きながら、ロムは当たり障りのない話題に変えた。
ウィルは真面目腐った顔で、
「商売だ」
と言った。
こんな男でも商売するのか、とロムは途端に可笑しくなった。
確かに昨日の一曲は素晴らしかった。吟遊詩人として優れているのはロムも太鼓判を押す。
しかし、演奏や歌唱を披露しながら地道に路銀を稼ぐよりも、何処ぞの貴族の未亡人にでも囲われた生活を送った方が、この男には似つかわしく思えた。流浪の旅では付きまとう、寝食の心配だってなくなるはずだ。
「そう言や、それがアンタの本職だったっけな」
ロムは苦笑を堪えながら、失礼を承知で言った。
一年中、凍りついている噴水広場まで来ると、ウィルはマントの下から《銀の竪琴》を取り出して、手慣らしに弦を爪弾いた。ロムは邪魔にならないよう、少し離れた場所から見守ることにする。
すると、その音色を聞きつけたのか、何処からともなく人が集まり始めた。普段は無口で自己アピールの乏しい吟遊詩人なのに、その魅惑的な音色と振るいつきたくなる美貌のおかげで、集客には苦労しないようだ。
たちまちウィルを囲むようにして大きな半円型の人垣が出来た。
ウィルは 旅帽子 を脱ぐと、天地をひっくり返して足下に置いた。まだ演奏前だというのに、早くも何枚かの銅貨がチャリンと音を立てて投げ込まれる。
帽子の鍔によって隠されていたウィルの相貌が集まった聴衆の前でさらされたことにより、さらに周囲の関心が高まった。
小さなどよめきに、大きなため息、反応は様々であっても第一印象は皆、同じであったに違いない。
何て美しさだ──と。
見目麗しい容貌を目にしただけで、さらに集まって来た聴衆から銅貨が投げ込まれた。そのほとんどが女性であったのは言うまでもない。後先お構いなしに持っていた全財産を叩いた者すらいただろう。
ウィルは恭しく一礼して見せた。
こちらも目を惹かずにはいられない、もう楽器というよりは芸術品の域に達している《銀の竪琴》が奏でられ、いよいよ一曲目が始まる。
夜の詩。
それが夢の中で歌われていた詩だったと、広場にいる聴衆は気づいたかどうか。
ウィルの歌声と旋律は近くを通りかかる人々の心を次々と捉え、一人残らず魅了していった。思わず足を止めてしまったが最後、一目見ずにはいられなくなり、曲が終わるまでその場から離れられなくなる。
人々が忙しく立ち働き始める朝の時間帯。であるのに、詩は昨夜の記憶を呼び覚ました。
夢の続き。
それは誰もが待ち望んでいたものだった。
人々はまるで眠りへと誘われるように目を瞑り、口に出すことなく、心の中で美しき吟遊詩人と一緒に歌った。
すると不思議な気持ちに包まれていく。皆が熱い涙を零し始めた。歓喜によるものだ。
もうすぐ春が訪れる天上天下の喜び。
ウィルの軽やかな演奏に合わせるかのように、自然と身体が動き出し、それぞれがリズムを刻む。まさしく昨夜の再現だ。
夢が現実になろうとしていた。
その刹那──
「待てよ、サリナ!」
「イヤよ! 離してっ!」
突如、荒々しい怒号と強い拒絶の声が聞こえ、これから盛り上がろうとしていたウィルの詩は中断されてしまう。
せっかくの心地良さを妨げられた人々が、不愉快な声の主を捜して振り返った。
その人垣を掻き分けるようにして、一人の若い娘が聴衆の面前に躍り出た。




