86.周瑜、同盟を承諾する
推敲する時間がなくて、ちょっと雑かも。申し訳ない。
「公瑾!どうしてここに……?」
魯粛が驚いて周瑜に尋ねる。
「知れたこと。子敬、君が荊州へ弔問に訪れるのと同時に、エセ占い師の呉範が同行するという噂を聞いたんだ。これは只事ではない、きっと俺たちが練り上げた作戦が誤った方向に行くに違いないと危惧し、こうして夏口に駆けつけたのだ」
と答えた周瑜に向かって、呉範が親しげに、
「おお、周瑜提督ではありませんか!私は【風気術】師の呉範と申す。ご活躍のお噂はかねがね都でも聞いております。
お察しのとおり、魯粛が孫権将軍の承諾も得ず、勝手に劉備と同盟を結ぼうとしておりました。まったく危ういところでしたな。だが、周瑜殿がお越しとあれば一安心。我ら二人協力して劉備との同盟話をぶち壊してやりましょ……」
「黙れっ!君側の奸めが!」
味方と思っていた周瑜の剣幕に、呉範は驚く。
無理もない。史実では呉範の述べたとおり、周瑜は劉備を信用ならない梟雄だと警戒し、赤壁の戦いではやむを得ず協力して曹操を撃退したが、劉備との同盟には最後まで頑として反対し続けたのである。
「し、周瑜提督?」
「何が『俺の手にかかれば、兵3万もあれば80万もの曹魏軍の大軍を撃退するのは容易い』だ?自分は安全な帷幕の中でただ思いつきを述べるだけのくせに。
もし運よく勝てば自分の手柄、負ければ指揮を執った俺の責任とする魂胆だろうが!よくも俺の名前をダシに使ってくれたな?!」
「こ、これは私が確かに【先読みの風気術】で見た未来の結果。敬愛する周瑜提督をダシにして手柄を独り占めする気など……」
「ならば問おう。たった3万の兵で、どうやって曹魏軍の大軍を撃退しろと言うのだ?
おっと、曹魏軍が80万と号しておるが、実質的には20万ほどの軍勢だというのは分かっておる。それにしても6倍以上の敵だぞ。いったい誰が最前線で戦うと思ってるんだ?」
転生者で史実を知っている呉範は「ああ、そんなこと…」とばかり、
「簡単です。火計を使えば、それくらいの戦力差など名将の周瑜提督であれば……」
と周瑜を持ち上げたつもりが、
「まだ分からんのか?!俺は戦術のことを聞いているのではない!
俺は曹操を迎え撃つにあたり、孫権将軍に5万の兵を要求した。が、返って来た答えは3万だ。この2万の差はいったい何なのか?
俺には思い当たるフシがある。先年、どこぞの馬鹿に踊らされて、孫権将軍は後漢の天子様がおわす許都を目指すべく淮南の攻略に向かったが、合肥で敵の劉馥に大敗し、死傷五千・捕虜八千の大惨敗を喫した。甘寧が言ったとおりだ。
呉範よ。この遠征失敗が尾を引き、孫呉の建国以来最大の国難に直面しているにもかかわらず、孫権将軍は3万しか兵を集められないのではないのか?
そして、こんな無謀な戦いを仕掛けた張本人が、責任を取るでもなくのうのうと孫権将軍の側に侍り、性懲りもなく再び戦いに口出しをして来る。
俺にはそれがどうしても我慢ならんのだ!」
おお!カッコ良すぎるぞ、周瑜!実際イケメンだしな。
あ、またぞろ変態筋肉ダルマ・甘寧のモーホー心が疼くのかと懸念されたが「ケッ。俺は俺よりイケメンの存在を認めねえ!」と、敢えて周瑜に無視を決め込んでいるようだった。ほっと一安心。
それはさておき、説明しよう。
周瑜が言った「俺は曹操を迎え撃つにあたり、孫権将軍に5万の兵を要求した」のに「返って来た答えは3万」というのは本当である。『呉志周瑜伝』の裴注に引用される『江表伝』には、
――八十万と号しても、曹操が率いておる兵の実数はせいぜい十五,六万。しかもその兵どもは遠征が長く続いたせいで疲れ果てておるそうです。加えて荊州で手に入れた旧劉表の軍勢も七,八万どまりで、曹操に心服しているわけではありません。
いくら人数ばかり多くても、士気の奮わぬ兵を率いて戦いに臨むのだから、まったく恐れるに足らないのです。精鋭の兵五万が手中にあれば、十分に防ぎ止めることができましょう。
と周瑜が進言すると、孫権は周瑜の背を手で撫でながら、
――公瑾の言葉は、わしの思うところに合致しておる。張昭や秦松らは降伏論を唱えるばかりで私の期待に応えてくれなかった。ただ、公瑾と子敬だけがわしと心を一つにしてくれる。これぞ、天がわしを助けるために授けて下さったのだ。
ただ、五万の兵は急には集めがたい。しかしすでに三万を整え、船も兵糧も武器も準備しておる。公瑾よ、そなたは魯子敬と程普とともに先鋒に立って欲しい。わしは引き続き兵の動員にあたり、後方から支援しよう。
と述べた。(『江表伝』)
とある。もともと、孫呉の有する総兵力は十万(と孫権が諸葛亮に語った内情が『蜀志諸葛亮伝』に記載されている)、そのうち半分を敵侵攻の迎撃に回して欲しいと周瑜が要求するのは理に適っている。ところが、孫権は三分の一の兵三万しか用意できなかった。
これは、世兵制の弊害で孫権が地方豪族を完全には掌握できておらず、孫権の「集まれ」という鶴の一声だけでは彼らが抱える軍隊をうまく動員できなかったこと、また異民族の山越や交州の士燮に備えるために、賀斉や歩隲らの将軍に一軍ずつ預けなければならなかったこと等の理由が考えられる。
この世界では、それに加えて淮南攻略の失敗(合肥の戦いで大敗し死傷者・捕虜を多数出した)、そして多くの犠牲を払って江夏の黄祖を攻略したにもかかわらず、敗残兵や領民を確保できなかったこと(オレが江夏陥落前にかっ攫って行ったからな 笑)も大きい。
その結果、孫呉の有する総兵力は史実の十万から、実質八万ほどに落ちていたはずだ。
赤壁の戦い前夜では、孫呉の兵力の配分は、周瑜率いる水軍が陸口の前線基地に三万、鄱陽湖畔の要塞・柴桑に大本営を置いた孫権のもとに一万、山越族討伐のために賀斉・歩隲の両将に一万ずつ、淮南に残る最後の拠点・広陵には将軍の呂範を置いて兵一万を預け、残りの兵一万で、丹陽・呉郡・会稽・豫章・廬陵と新たに降った江夏の計六郡に分散させて、領内を守備している状況だ。
「あの時、孫権将軍がエセ占い師・呉範の妖言に惑わされず淮南に侵攻さえしなければ、もっと楽に兵を動員でき、有利に曹操との戦いを進められたのに……」
と周瑜が激怒するのも当然なのだ。
史実では敗残軍の劉備一行に対し、
「劉備将軍と違い、私は大軍を預かっている身ゆえ、みだりに持ち場を離れることができません。貴殿の方からお越し下されば、面会時間は多少取れますが……」(『江表伝』)
と呼びつけ、周瑜のあまりの塩対応に困惑した劉備が魯粛を頼ろうとすれば、
「もし魯子敬を交えて話し合いをしたいのであれば、別の機会にお越し下さい。私には貴殿と協議を重ねる必要性を微塵も感じませんので」(『江表伝』)
と上から目線で応対できた。ところがこの世界の周瑜は、
「劉備将軍、ここは一致協力して曹操にあたりましょう。俺は三万の水軍を率いて曹魏軍を撃退してみせます。劉備将軍は、陸から曹魏軍の本営と兵站基地の江陵を攻撃して下さい。孫呉を助けると思って、どうかよろしくお願いします」
と自ら頭を下げたのだった。
周瑜の胸の内は分からない。迷った末の苦渋の決断か、自分が下とみなす相手に頭を下げざるを得ない屈辱か、君側の奸・呉範に対する激しい怒りか、勝利のためなら頭くらいいくらでも下げてやるわ!という達観か。
甘寧が何か言いかけたが、関羽がそれを押し止めた。
建安十三年(208)九月末、こうして周瑜・魯粛・諸葛孔明の働きで孫呉と劉備軍は同盟を結ぶことが決まり、曹操の侵攻を迎え撃つ準備が整えられた。
その後、同盟締結の儀式として、全権代表の諸葛孔明が魯粛とともに孫権のいる柴桑の大本営に向かい、降伏論を唱える孫呉の腐れ儒者どもと舌戦を行なって全員論破し、孫権を煽って参戦を決断させた……という噂が、唐県の牢内に幽閉されているオレの耳にも入った。
 




