62.関興と甘寧、古の上海に偵察に行く
建安五年(200)に兄の孫策が死んで弟の孫権が頭領を嗣いだ際、ただでさえ独立性の強い地方豪族を多く抱える孫呉軍閥の基盤は、決して安定したものではなかった。
頼みとなるはずの張昭は一時、孫権ではなく弟の孫翊の方が孫策の後嗣ぎにふさわしいのではないかと逡巡したり、従兄の孫暠は独立をくわだてて会稽郡を支配すべく軍を率いて封地の富春に押し寄せ、廬江太守の李術は公然と叛き、弟の孫翊を殺した嬀覧と戴員が魏に寝返りを図る事変も起こった。
これら地方豪族の乱を片付けてようやく孫権の政が固まって来た頃、秣陵城下でふいに起こった事件が芝居『周武王冥土旅之一里塚』の中で風刺された、孫権の後嗣ぎ正邪問題である。
たかが芝居の戯れ言と無視しておけばよいのに、孫権がヒステリックに反応したため、かえって大衆は面白がって「芝居が公演中止に追いやられたのは、亡き孫策は本当は嫡子の紹を後嗣ぎに任命していたのに、孫権が張昭と謀って頭領の座を簒奪した真実を暴いたからだ」と真しやかに語るのであった。
そんな中、州都・秣陵(のちの建業)で広まった噂を鵜呑みにする地方豪族が現れた。いや、彼らは単に、孫権に叛く正当な理由が欲しかっただけかもしれない。
その一人に、もと呉郡太守だった老臣の盛憲がいる。孫権のやり方に不満をおぼえた盛憲は、「後嗣ぎには孫策様の嫡子・紹様を立てるべきだ」と大義名分を掲げ、辺洪を誘って反旗を翻した。この乱は事前に察知し警戒していた傅嬰によって鎮圧されたが、孫権は、上虞県侯に封じた八歳になる孫策の遺児・孫紹をやっかいな存在だと感じるようになった。
追い討ちをかけるように、漢の朝廷から孫権のもとに勅使が訪れ、先年孫権に授けられた討虜将軍号と印綬の返還を要求し、代わりに亡き孫策の嫡子・孫紹に討虜将軍号と印綬を授ける旨を詔した。
漢の朝廷とは言うものの、実質的には曹操(の代理を務める荀彧)が裏で手を引いていることは明らかであった。とはいえ将軍号と印綬の剥奪は、漢の朝廷が孫呉軍閥の後嗣ぎとして孫権ではなく孫紹だと認めたことを意味する。
「漢の天子の権威なんて古臭い」と豪語する魯粛ですら、この事態に動揺した。他の地方豪族は言わずもがなだ。
孫権は、新たに討虜将軍に任命された孫紹の存在を危険視した。そしてついに、重大な決断を下す。
孫紹に仕える家臣に呉郡出身の沈友がいる。幼少の頃から孫子の兵法を諳んじ文武に長けた神童と評判で、孫策が息子の孫紹の右腕として側に侍させた若者であった。
ある日、州都の秣陵から孫紹にお菓子が届いた。毒見のために犬に一切れ食べさせると、犬は毒にあたったせいか、のたうち回って死んだ。
沈友は孫権を厳しく問責した。孫権は「何かの手違いであった」と詫びを入れたが、犯人の摘発についてはのらりくらりと言い訳するばかり。
真実を闇に葬ろうとする孫権の姿勢に、妥協を許さぬ沈友は、
「孫権将軍はそんなに紹様が邪魔ですか?亡き孫策様が、本当は嫡子の紹様を後嗣ぎに任命していたのに、孫権将軍が君側の奸の張昭と謀って頭領の座を簒奪したという噂は本当だったのですな!」
と憤激の文を送りつけると、孫権はかえって、
「おまえが紹を担いで謀叛を企んでいると申す者がおるぞ!」
と脅し、衛兵を派遣して沈友を秣陵に召喚した。もはやこれまでと観念した沈友は、孫権の目の前で堂々と、
「許都におわす漢の天子様の権威を蔑ろにする者は、謀叛していないのでしょうか?本来嗣ぐべき御方を押し除けて上に立った者は、謀叛していないのでしょうか?」
と非難した。孫権は、謀叛の罪で処刑するため沈友を牢屋に投獄したが、番人の衛兵は、忠誠心に富む剛毅な沈友に敬意を表してわざと牢から逃がした。夜を日に継いで会稽の上虞県に帰り着くと、沈友は孫紹少年を連れて逃亡した。
◇◆◇◆◇
俺・秦朗は前世、上海に行ったことがある。
白亜の重厚な建物が建ち並び、19世紀末ビクトリア朝の古き良きロンドンを彷彿とさせる外灘の街並み、黄浦江を挟んだその対岸には、東洋の摩天楼と称される、東方明珠電視塔や金茂大厦・上海環球金融中心などの超高層ビルが林立する近未来的な都市。
生まれて初めての海外旅行だったせいもあるが、その煌びやかさに圧倒されてしまった。
「それなのに今の上海ときたら、小汚い砂浜と漁船が数隻しかない、こんな辺鄙なド田舎だなんて……」
と失望するオレに向かって、同行する甘寧が、
「チビちゃんって、ときどき意味分かんねえことを口走るよな。そもそも五歳のガキとは思えねえし。俺さ、たまに同世代のダチと駄弁ってる気分になる時があるんだ」
と胡散臭そうな目で見つめる。ヤバい、つい気が緩んで素の秦朗が出てしまった。
「ま、俺は気楽でいいけどよ。それより江東の地をふらふら出歩いて大丈夫なのか?チビちゃんはお尋ね者なんだろ?舞台上で孫権将軍を煽るなんて無茶しやがって……」
そう。オレは芝居『周武王冥土旅之一里塚』の太子誦役で出演したんだ。
孫権の茶坊主の薛綜が「城というものは徳のある者に帰するのであって、いつまでも同じ人物が所有するとは限らない」とか、仁者の荀彧に向かってふざけたことを言いやがったらしい。ならば武力ではなく“徳”で城を奪い返してやろうというのが、オレと荀彧の立てた作戦。
まさか孫権将軍本人が芝居を見に来るとは思わなかったが、運悪く(?)ご対面してしまったので、軽くジャブを放ってやったのだ。
「オレは大丈夫。あの芝居が公演中止になっただけだ。孫権の野郎はオレを「手討ちにしてやるッ!」とか喚いていたけど、公衆の面前で子供を斬るなんてみっともない真似、できるわけないもんな。案の定、側近が必死で押さえていただろ」
オレがそこまで展開を読んでたと知った甘寧は呆れて、
「おまえ、本当に性格悪いなあ」
「フン、そんなに褒めるな。それより甘寧、おまえの方こそアイツに狙われて危険なんじゃないのか?」
「はあ?ガキのおまえを一人置いて娼館には行けねえから、清く正しく毎晩ひとりチ〇ポを慰めている俺様に向かって人聞きの悪いことを言うんじゃねーぞ!?」
いや、オレはおまえの痴情のもつれを心配しているんじゃない。
「忘れたのか?おまえ、淩統に親の仇と命を狙われてるんだろーが!」
甘寧はハッと気づいて、
「ああ、そうだった!ぬる~い平和な暮らしが続いたもんで、すっかり忘れてた。最近は別の意味で百人斬りの暴れん棒将軍とか噂されてるぐらいだしなあ。あはは」
……もうオレはツッコまないぞ。っていうか、史実では快楽殺人者だった甘寧が、この世界では男女見境なく“百人斬り”しちゃう夜の暴れん棒に変換されているとは!良かったのか悪かったのか。
「それで結局、俺たちはどこに向かっているんだ?」
「屋島作戦だよ」
エヴァン〇リオンで葛城ミサト一尉が計画したヤシマ作戦ではない。本家・源義経が思いついて実行した軍略だ。
一の谷の戦いで敗れた平家が勢いを盛り返し、四国の屋島に水軍を率いて布陣して、福原の都奪回を目論んでいた。義経は秘かに紀伊から阿波に渡海して背後に回り、少数の騎兵で敵本陣を急襲した。平家は予想外の敵の襲来に驚き、大混乱に陥って自慢の水軍は散り散りになってしまい、壇ノ浦へと落ち延びて行った。有名な那須与一の扇の的の説話も屋島の戦いでのできごとだ。
まあ、同じような作戦は古今東西実例がある。かの孫策も王朗が守る会稽を陥落させる時に使った手だ。
「えっ?まさか俺とチビちゃんの二人で敵城に奇襲するとか…?」
甘寧は青ざめてオレに尋ねる。
「アホか!そんな無謀なことはしないよ。将来のための布石だ。せっかく江東にやって来たついでに、敵に知られず船を接岸し上陸するのに適した場所を探してるんだ」
「ああ、そういう……」
と甘寧が感心したところへ、
「そこの二人、待てぃ!ついに見つけたぞ!追え、追えぃ!」
と追っ手の声がした。
次回。追っ手に追われて村はずれの祠に逃げ込む関興と甘寧。そこには先客の孫紹と沈友がいた。孫権の政治は、孫堅や孫策の目指していた未来とは絶対に違う。その遺志を嗣いでやれなかったことが心残りなだけと自嘲する孫紹に、関興は……お楽しみに!




