(5) シスタ・ムーン
【お題】輝く、見返り、月
昔々──ではないとある所に、一組の姉妹が住んでいました。姉の名は真梨奈、妹の名は
由梨奈。背丈こそ違えど、よく似た顔立ちの姉妹です。二人は亡き父から受け継いだ小さな
縫製工場を、彼の代からの職人達数名と共に、細々と切り盛りしていました。
最初こそは……急逝した父の跡目に、姉がそのまま収まったという格好でした。何もかも
がいきなりで、明るく大きく膨らむような展望など無かったのです。
『このままじゃあ皆共倒れよ? 今まで通りじゃ駄目! もっと新しい事に、どんどんチャ
レンジしてゆかなくちゃ!』
転機が訪れたのは妹でした。当時家を出て、アパレル関係の勉強をしていた彼女は、実家
の危機を知って急ぎ帰って来たのです。父親の代──それこそ何十年も前のファッションセ
ンスを引き摺る姉や職人達に、彼女は誰よりも強い危機感で以ってそう改革を迫りました。
ただ単純に利益が上がらないという以上に、自らが生まれ育ったこの家と工房が失われる、
それだけは何としても避けたかったのでしょう。
……そこから一か八か、妹が旗を振る形で、稼業の存続を賭けた挑戦の日々が幕を開けま
した。従来のように、ただ漫然と発注された服を作っては納品するのではなく、自分達から
企画・生産して売り出す攻めの戦略を。多少のリスクを取っても、大きなリターンを得られ
るならば果敢に挑んでゆく胆力を。
事実、そんな作戦は次第に功を奏してゆきました。一時は家を出て、世の中の先端ファッ
ションや経営ノウハウを学んできた妹の辣腕により、傾いてゆく一方だった工房の収益は再
び回復へと転じていったのです。特に──彼女の恵まれた容姿と、SNS等を最大限に活用
したアグレッシブな発信活動によって、人々に工房の存在が知れ渡ったことが大きかったよ
うです。持ち前のセンスと派手さを伴った彼女のデザインは、少なくない熱心なファンを獲
得することに成功したのでした。
加えて……地味で控え目な性格の姉・真梨奈が父より学んできた、その高い縫製技術が、
妹のそうした多彩且つ奇抜なデザイン画を尽く一着の服に起こし切るという芸当を可能にし
たという点も、外せない理由であったのでしょう。
──外回りと企画、プロデュース能力の鬼たる妹。
──そんな妹ように、決して外向的ではないものの、確かな技術を持つ職人肌の姉。
互いが互いの持ち味を発揮し、補い合うことで、二人はわずか数年で自分達の工房を新進
気鋭のアパレルオフィスへと成長させたのです。
***
「じゃあ、お姉ちゃん。後はよろしく!」
アパレル工房・MOROBOSHI。
亡き父の代から、すっかり現代風に様変わりした自宅兼工房は、この日も人気店ゆえの忙
しなさに追われていました。姉や職人達がめいめいのミシンをフル稼働させている中、渦中
の妹・由梨奈はと言えば、そうめかし込んで今まさに出掛けようとしています。
「は~い……。ユリちゃんも、あんまり飲み過ぎないでね?」
ニコニコと半ば癖のような苦笑いを浮かべて、姉・真梨奈はそんな最愛の妹兼相棒を朗ら
かに送り出します。ヴヴヴッと、工房中にミシンの音が響く中、大きな硝子戸越しの通りへ
と彼女の姿は消えてゆきます。
「……職長。良いんですかい? こちとら、お客さんが来た時の対応なんか、全然余裕無い
ですよ? つーか最近人らはどうも苦手で……」
「大丈夫。その時は私が出るわ。それに最近は、ネット通販でうちの商品を買ってくださる
方が殆どなんだし。先ずは物が無ければ話にならないもの」
「まあ、そりゃあそうなんですが……」
工房内に残っているのは、皆先代より続く熟練の縫い手達ばかりです。そう何となく遠慮
しがちに問い掛ける間も、ミシンを動かす手は止まらず且つ正確を維持しています。
「貴女は本当にこれ良いの? と言っているんですよ。仕方なかったとはいえ、この工房は
もう……」
助け舟か、或いは本人の居ぬ間にか。
中年の男性職人が、次いで女性職人がこの煮え切らない姉へと直接的に問い質していまし
た。数年ほど前、まだこの工房が風前の灯だった頃。そこから起死回生を遂げるには他に手
立てが無かったとはいえ、今や此処はもう、妹・由梨奈の独擅場──かつて自分達が、先代
と共に築いてきた物作りの形は、すっかり変えられてしまった。息絶えようとしているので
はないか? と。
「これで良いのよ。父さんもきっと、自分の工房が無くならないでホッとしていると思う」
にも拘らず、対する姉・真梨奈の方は、これを努めて宥めよう宥めようとする風にも見て
取れました。声色静かにミシンの上下する動き、縫い進めてゆく布地と仮留めの針を適宜止
めては再開してゆきながら、スッと黒縁眼鏡の奥に光る目を細めて言います。もっそり後ろ
で括った髪を気持ち揺らして、彼らの方へと一瞥だけを寄越します。
「……正直言うと私もね? ホッとしたの。凄く嬉しかった。ユリちゃんが家の事を心配し
て、自分の一人暮らしまで切り上げて戻って来てくれた時には。私一人じゃあ、到底駄目だ
ったもの。皆さんのことも、守ってあげられなかった」
『……』
「言いたいことは、解ります。でもそれは、旧い価値観のままでいいっていう敗北宣言じゃ
ありませんか? 歳月は流れてゆくんですから……。どれだけ私達にとって思い入れがあっ
て、美しいと思っていても、今の人達はそう感じない。それは厳然たる“事実”ですよ。一
周回って、新鮮と人気が出る場合も、なくはないですけど……」
即ちそれとなく自らが一歩も二も退いた、俯瞰した意見。声色は変わらず穏やかなもので
したが、それらは年配揃いの職人達に対する諭しでもあったのでしょう。当人らも内心自覚
こそはしている分、やはりそれ以上は強く出られません。言わんとする妹への反発は、結局
の所各々のプライドの問題なのですから。
「適材適所。それで良いのよ」
「さあ……お喋りをしている余裕はありませんよ? 一番近い納品が、すぐそこまで近付い
ているんですから」
一方その頃。当の対する由梨奈は、工房を出発した後電車を乗り継ぎ、とあるホテルが入
っているビルへとやって来ていました。
この日の目的は、そのフロア一つを丸々貸し切って行われるパーティー。詰まる所自分達
を売り込み、人脈を作る為の社交場という奴です。彼女もまたその目論見を腹に抱える一人
としてめかし込み、今日という日を迎えていました。姉の手によって現実の物となった、自
らがデザインした衣装に身を包み、視覚的にも出席者達──業界に名を馳せる顔ぶれに憶え
て貰う為に。
(……頑張らなきゃ。これは、私にしか出来ない仕事なんだから)
パーティーの最初は、主催者である老会長の挨拶から。尤も大抵の出席者達は、その言葉
を一から十まで聞いてはいなかったでしょう。脳味噌のリソースを割くなど始めから無かっ
たのでしょう。
“外交戦”は既に始まっているのです。華やかな場とは裏腹に、こと腹黒い者は笑顔の下
にその目当てを隠し、にじり寄る──目上の権力者には胡麻をすり、目下の若い才能は唾を
を掛けておく。或いは早々に潰しておく。……到底純朴な姉には、目の当たりにさせたくな
い世界でありました。
「やあ、諸星さん。こんにちは」
「! 雨宮さん、来られていたんですね」
ただ──彼女にとっても、このような場は必ずしも我慢一辺倒のそれという訳ではなかっ
たのです。事前に聞いていた訳ではなかったのですが、規模と顔ぶれから、その可能性につ
いては期待していました。ふいっと背後から声を掛けられ、振り向いた時には、ぱあっとそ
の持ち前の美貌に明るい花が咲きます。
彼の名は雨宮賢佑。近年腕利きの実業家として名を挙げている、若き才覚溢れるイケメン
です。彼女とも、これまであちこちのパーティーや取引で面識があり、姉妹の工房にとって
も大事な顧客の一人でした。にっこりと爽やかな笑顔で、シャンパンの入ったグラス片手に
こちらへ近付いて来ます。
「ええ。ここの会長を始め、普段お世話になっている方々も多く出席されていますから。僕
だけが出ないという訳にもいかないでしょう?」
勿論……貴女も含めて、ね。
恵まれた容姿とバランスが取れ、嫌味にならないウインク。たとえそれが社交辞令の一種
であると知っていても、彼女は心の底から喜んでいました。お酒の後押しも相まって、ほん
のり赤く染まった頬。──身も蓋も無く言ってしまえば、彼女は前々から彼に異性としての
好意を抱いていたのでした。
「ふふっ。相変わらず、お世辞がお上手なんですから」
「いやいや、僕はいつも正直ですよ? この前の新作だって、ばっちりチェックさせて貰い
ました。本当に貴女の作るアイテムは素晴らしい。既存の枠組みに囚われない、それでいて
実用性も決して忘れないデザイン……。貴女自身に加え、良いスタッフをお持ちだ」
「そんなこと……。いえ、そうなんでしょうね……」
だからこそ、彼女はしばしばそういった褒め殺しを受ける度、若干の後ろめたさを抱かざ
るを得ませんでした。彼のように正当に評価してくれる顧客がいればいるほど、自身はただ
“売り込んでいる”だけに過ぎないということを。
「……以前、対談記事で読みました。何でも工房の商品は、全てお姉さんが中心になって縫
製しているとか」
「ええ。別に隠している訳じゃないんですけどね。私とは対照的に、姉は大人しい性格をし
ているので……。工房自体も、元々は姉が父の跡を継いで切り盛りしていたものなんです。
昔から、手先の器用さに関しては、うちの職人達でさえ舌を巻くほどでしたから……」
「ほう?」
それから暫く、彼と一対一で身の上話をして。
照れ隠しにグラスに口をつけ、料理をフォークを伸ばし、彼女は自らの後ろめたさも相ま
って姉・真梨奈の話をしていました。性格は似ても似つかないけれど、いつだって周りの皆
のことを考えてくれていた、背負い込んでくれていた。だからこそ、彼女が急遽工房を継ぐ
羽目になって苦境に立たされていると知った時、居ても立ってもいられなかったこと──。
「……そうでしたか。やはり貴方がたは、僕が見込んだ逸材だ」
「あはは。そ、そんな……」
「是非これからも、懇意にさせて頂きたい。必要とあれば、出資の用意もあります。貴女の
お話を聞いて、俄然興味が出てきました。一度その自慢のお姉さんにも、直接お会いしてみ
たいものですね」
「……」
演技を含めた照れ隠しと、直後思わぬ提案を受けての硬直。
何も後者は、投資話についてではありません。彼が思いの外、自分ではなく姉の話に、食
い付いてきたことへの驚きでした。
確かに自慢の──もしいなければ今の工房がなかったレベルの人材。自分のしばしば無茶
なデザイン画を見ても、実物に起こせてしまう力量があるし、時にはこうした方が良いと実
用面での改善点を指摘してくれる職長。自分よりもずっと地味で控え目で、少なくともこう
いった場所へは腰が引けて出て来れないような女性──。
「諸星さん?」
「ッ! あ、いえ。何でも……ありません」
くいっともう一杯。
怪訝に覗き込んでくる雨宮に対して、彼女はそう苦笑いを零してから、グラスの中のワイ
ンを空にするのでした。
『貴女は本当にこれ良いの? と言っているんですよ。仕方なかったとはいえ、この工房は
もう……』
昼間、幼少期からの長い付き合いになる職人達に、そう抱えていた不満をぶちまけられた
姉・真梨奈。日はすっかり落ち、彼らを過ぎる残業までさせずに帰した後も、彼女は独り工
房に残ってミシンを動かしていました。タタタタと、夜の静けさに小気味良いリズムだけが
沁みては消えてゆきます。
「──ふう」
納品が近い注文のドレスを、彼女は一着完成させていました。もっと工房に設備を増やし
て縫製を自動化すれば、より多くの品数を生産出来るのでしょうが、自身や何より職人達の
ことを考えると中々手を出せなかったのです。……彼らもその心配があって、妹の急激な方
針転換に不安を覚えているのでしょうから。
(話は、しているんだけどね……。ユリちゃんも、そこはある程度理解しているようには見
えたんだけど……)
彼女自身、何も話していない訳ではありませんでした。知名度と人気に応じ、天井なしに
生産力を吊り上げてゆけば、確かに向けられるニーズには追いつく。だけどもそういった客
の“熱”がいつまでも持続する訳ではなく、固定費ばかりが出て行ってしまう事態も十分に
予想できる──傾いていた時の工房がまさしくそれであったから。何より数に追われてゆく
環境に変わることで、一着一着と向き合う今までの在り方が大きく崩れてしまうことが怖か
ったのです。
当初の妹に言わせれば、それこそ「皆共倒れ」への道筋となるだけなのでしょうが……。
(ユリちゃん、遅いなあ……。まあ、偉い人達とのパーティーなんて、そんなものかもしれ
ないけれど)
妹が自分達の身を心配し、戻って来てくれたことが嬉しかった。またもう一度、昔のよう
に一緒に暮らせることが幸せだった。
彼女の本心としては、それが全てでした。確かに父の代からはすっかり勝手が違ってしま
った部分もあるけれど、服作りは引き続きやってゆける。新しいアイデアをどんどん取り込
んで、ユリちゃんが作り甲斐のある仕事をたくさん持って来てくれる。
ぱんぱんと、出来上がった目の前のドレスを軽く引っ張って広げ、彼女は見つめます。淡
く綺麗なレモン色をした、スレンダーな体格のパーティー衣装。基本的なコンセプトは、妹
が今日着て行った分と同様の物です。
(凄いな……ユリちゃんは。私にはとても、あんな風には動き回れないよ……)
そうして暫く掴み、広げていたドレスを見つめていた彼女は、ふと思いついたように椅子
から立ち上がっていました。後方に置いてあった姿見の方へと移動し、自身の胸元にドレス
を合わせてチェック。同年代の女性だと、比較的背丈の高い自分では、何とも若さ的な釣り
合いが取れていないようにも見えるものの……。
(ちょっとぐらい、いいよね?)
故に切欠は、ほんの些細な気紛れでした。妹に対する仄かな憧れが混じっていました。
自分には似合わない、あくまでちゃんと服として成立するか確かめるだけ──普段手放せ
ない黒縁眼鏡を、髪留めを外し、形だけでも妹のそれを真似るように。
レモン色のドレスに“着られている”感のある自分が、そこには映っていました。
「あはは……」
やっぱりこういうのは、ユリちゃんみたいな子が着るからこそ似合うのよねえ……。姿見
の前で苦笑いを零し、そう再び自分の領分に戻ろうとした、その時。
「──」
雨宮青年が居ました。ガラリと入り口の硝子戸を開け、中に入って来た瞬間の物音に、彼
女は少し気付くのが遅れていたのでした。ばっちりと、気紛れに自分で衣装を合わせていた
姿が、彼に目撃されてしまっています。
「~~っ!? あ、あああ……すす、すみません! お、お客さんですか? 申し訳ござい
ませんが、営業時間はとっくに──あら?」
慌てて眼鏡を掛け直し、ふわっと長い髪を揺らして駆け出そうとして。
ですが次の瞬間には、彼女は気付いたのでした。彼の背中に、ぐったりと赤くなって眠っ
ている、最愛の妹の姿があったことに。気付かれて、ばつが悪そうに苦笑いを浮かべる青年
の柔和さに。
「ゆ、ユリちゃん!? どうしたの? まさか、パーティーの席で粗相を……!?」
「あはは。いえいえ、ただ酔い潰れただけですよ。……僕も悪かったんです。随分ハイペー
スで飲んでいたものだから、妙だなとは思っていたんですけど……」
あらあら。あらら……。
つまり妹は、この親切な青年に介抱され、加え家まで送って貰ったらしかったのでした。
もう一度別の意味で慌てた彼女は、彼からこの妙にふわふわ幸せそうに眠る妹を預かると、
近くのソファに寝かせます。ぱたぱたと団扇を持って来て仰ぎ、コップに水を汲み、若干呆
れた風にごちます。
「……全く、だから飲み過ぎないようにってあれほど言ったのに。ごめんなさいね? あり
がとうございました。この子、あまり強い方じゃないんですよ。私も、他人の事は言えない
ですけれど……」
「いえいえ。ご家族の方がいらして良かった。由梨奈さんの、お姉さん……でしょうか?
当人からお話はかねがね」
「えっ? ユリちゃんが、私のことを? ……すみません。一応商談の場でもあったでしょ
うに」
だからこそ、この時彼女自身はまるで気付いていなかったのでした。意図せぬ所で彼、妹
から名前は聞いていた得意先の一人・雨宮氏本人からその話を出され、ほっこり内心嬉しか
った油断も一因にあったのかもしれません。
いえいえ。雨宮は終始穏やかに微笑っていました。妹を気遣い、あくまで控えめに接して
余りあるこの年上の女性に、内心密かな熱い眼差しを注いで。
それからです。彼がしばしば、足繁く姉妹の工房に顔を出すようになったのは。当の妹や
職人達は驚きましたが、あくまで彼の目的は別──他でもないこの姉・真梨奈の方だったの
ですから。
背丈こそ違うものの、似た顔立ちと対照的な雰囲気。不意打ちに近い形でその素顔を目の
当たりにしたとはいえ、彼は最初の瞬間から彼女に一目惚れしていたのでした。勿論、彼自
身の好みというものもあります。職業柄、アグレッシブでとにかく明るく振る舞う女性ばか
りを目にしてきた分、彼女のような人物は珍しく映ったのかもしれません。
花束や、季節の贈答品。彼からのアプローチ。そんな異変に、当の由梨奈が気付かない筈
がありません。
日が落ちた後、二人は自宅で遂に対峙していました。いえ……厳密には、彼女は一方的に
この姉を詰って叫ぶ構図でした。
「──何でよ!? 何で私じゃなくて、お姉ちゃんなの!? 今まで雨宮さんとは、直接会
ったことも無かったのに!」
「そ、それは……。私も分からない……。初対面よ? 貴女がパーティーで酔い潰れて、家
まで送り届けてくれた日が、本当に」
「本当よね!? 何も、その時に誘惑とかなんてしてないわよね!? 本当……裏切られた
気分よ。私はずっとあの人を狙っていたのに! いいなあと思っていたのに! 何で雨宮さ
んは、お姉ちゃんなんかを……!」
理不尽な怒りだ。俯瞰して状況を観ていれば、おそらくそんな感想になった筈です。
しかし当の姉・真梨奈の方は、それ以上に恐れていました。これほどまでに妹が感情を剥
き出しにし、攻撃してくることはここ十数年殆ど無かった。驚きを通り越して、寧ろ恐怖し
ていたのです。バラバラと、今まで積み上げてきたものが全て、壊れていってしまうような
音が聞こえてくる感覚に襲われて。
「私、は──」
「許さない! 雨宮さんを返してよ! 私への僻み? 仕返し? そっちも今まで、私のお
陰で良い思いをしてきた癖に!」
「……ッ」
おそらく妹は、激情に呑まれて我を失っているのだろう。口に衝いて出る言葉も、つい攻
撃的なそれに変換されて飛び出しているだけなのだ──彼女は二重の意味で悲しんでいまし
た。恐れていました。こんな筈ではなかったのに、と。
望まぬ喧嘩、知りたくなかった本音。もしかしたらもしかしなくても、あの時自分が気紛
れにあんな真似をしなければ、平穏な日々はまだ続いていたのかもしれなかったのです。父
から受け継ぎ、進化させることに成功した工房・MOROBOSHIが壊れてしまうことは
なかったのかもしれないのです。
(私は……私は……)
謝罪の言葉? 雨宮さんのことを、自分はどう思っている?
ともかく、人にはそれぞれ弁えるべき“領分”があるのだと、彼女は改めて理解させられ
ていました。本人が言うように、自分はあくまでその輝きの恩恵を受けていたに過ぎないの
だと、自らを深く戒めずにはいられませんでした。
──だってそうでしょう?
どう転んだ所で、月は太陽には為れないのですから。
(了)




