1話 見えてはいけないもの
この世は、金がすべてだ。
かつて、ある資本家がそう言った。
その言葉は長い間、ただの極論として笑われていた。
「愛は金では買えない」
「人との繋がりこそが大切だ」
そんな綺麗事が、当たり前のように語られていた時代もあった。
だが——
20〇〇年。
資産登録システムの開発によって、その前提は崩壊する。
金は、ただの数字ではなくなった。
人を測り。
人を縛り。
人に力を与えるものになった。
金を持ち、力を持ち、支配する。
それこそが、この世界の真理となった。
「……だりぃ」
俺は、いつもと変わらない道を歩いていた。
見慣れた景色。
見慣れた人間。
何1つ変わらない日常。
俺の名前は神城透。
22歳、フリーター。
親が残した借金を、なぜか俺が返している。
毎日のように来る借金取りに怯えながら、安い弁当を食って、眠るだけの生活。
才能もなければ、取り柄もない。
金もなければ、未来もない。
——ただ1つ、“まともじゃないもの”を除いて。
「……またかよ」
すれ違ったサラリーマンを、なんとなく目で追う。
その瞬間。
男の横に、ぼんやりとアルファベットが浮かび上がった。
《C》
相変わらず、意味はわからない。
この“変なもの”が見えるようになったのは、子供の頃からだ。
両親は言った。
——絶対に、他人には話すな。
それだけは、今でも覚えている。
「まあ、どうでもいいけどな……」
そう呟いて、俺は視線を外した。
この世界で重要なのは、そんなよくわからないものじゃない。
——金だ。
そう思っていた。
この時までは。
《S》
「ッ!?」
声が出そうになるのを、必死で抑え込んだ。
22年間生きてきて、初めて見たアルファベット。
その主は、黒のスーツを着た女だった。
黒髪をポニーテールにまとめ、冷たい視線を前へ向けている。
凛とした女性。
ただ、それだけでは済まされない何かがあった。
普段なら、アルファベットを見ても何も思わず視線を外す。
けれど、なぜかその女からは目が離せなかった。
女は人混みを抜け、路地裏へ入っていく。
少し迷ったあと、俺もその後を追った。
「……あれ?」
路地裏には、誰の姿もなかった。
「確かにここを曲がったはず……どこに——」
「動くな」
背後から、冷たい声がした。
「手を頭の後ろで組み、ゆっくりこちらを向け」
言われた通りに振り向く。
さっきまで前を歩いていたはずの女が、拳銃らしきものをこちらに向けていた。
「そ、それ……本物?」
震える声で尋ねてしまう。
「勝手に喋るな。私の質問にだけ答えろ。いいな」
俺はものすごい勢いで頷いた。
「お前はレクトルか?」
「レ、レクトル? なんですか、それ」
「惚けるな。貴様は、わざわざここまで私を追跡してきただろう」
女の目が鋭くなる。
「私の顔を見て驚いた演技までしていたな」
何のことか分からない。
本当に分からない顔で、俺は言った。
「ごめん。本当に何言ってるのかわからないんだが」
女の眉がわずかに動いた。
納得していない。
というより、かなり怒っている。
その時だった。
「見つけたぞ、霧島カナ」
女の奥から、3人の男が現れた。
「チッ、レクトルか」
女——霧島カナは、俺を一瞥する。
「おい。巻き込まれたくなければ、さっさと逃げろ」
「死んでもらうぞ、霧島カナ——」
その瞬間。
空間が歪んだ。
次の瞬間、全員の横に数字が浮かび上がる。
彼女には——[103]
男たちには——[369] [203] [160]
俺には、そう見えていた。
そして、なぜか俺の横にも。
[999999]
「なんだよこれ……」
足が動かない。
逃げないといけない。
分かっているのに、体が言うことを聞かなかった。
「トリプルを2人も送ってきたか。よほど私を殺したいらしいな」
「公安には死を」
その言葉を皮切りに、戦闘が始まった。
3人の男が、同時に霧島へ襲いかかる。
全員が、先ほどまで持っていなかったはずの武器を手にしていた。
霧島もまた、拳銃ではなく大太刀を握っている。
3対1。
普通なら、勝負になるはずがない。
けれど、霧島は違った。
男たちの攻撃を紙一重でかわし、大太刀で弾き、斬り返す。
動きが速すぎて、俺の目では追いきれない。
「やはり、ほぼダブルの実力か」
「私より下位が何人いても変わらない」
その時、男の1人がニヤリと笑った。
俺にだけ、それが見えた。
そこから、[160]の動きが変わる。
大剣を持った男の腕が、異様に膨れ上がった。
武器も、腕に合わせるように巨大化していく。
そして次の瞬間。
[160]は、霧島を正面から押し潰し始めた。
「馬鹿な……上位者ではないはずだ。貴様、1605位ではないな!」
「へへっ。お前を嬲り殺して、そのまま使い倒してやるよ!」
1605位?
俺の目には、160位にしか見えていない。
「どうしたぁ! こんなもんか、霧島カナ!」
「くっ……!」
2人が斬りかかり、もう1人が石礫を放つ。
霧島は大太刀で受け流している。
けれど、少しずつ傷が増えていく。
1人は、身体を変化させている。
もう1人は、石礫を次々に生み出している。
そして、問題の男は——明らかに順位以上の力を持っていた。
いや、違う。
俺だけが、正しい順位を見ている?
「やはり、最近のレクトルはおかしいという報告通りだな」
霧島が、血の滲む腕で大太刀を構え直す。
「ランキングと強さが比例していない。油断した公安が殺されるケースも増えている」
「やはり、トリプル最上位は強いな」
(なんだよこれ……)
頭が追いつかない。
けど、違和感だけははっきりしていた。
見えている数字と、噛み合っていない。
このアルファベットは、順位に基づいてつけられていると思っていた。
だけど、1人だけ違う。
もう一度、相手を見透かすように必死で目を凝らす。
《103》
《369》
《203》
《160》
やっぱり、変わらない。
俺と、霧島たちが見ている数字が違う。
「お、おい!」
声が勝手に出た。
「あいつって、本当に1605位なのか!?」
「お前、まだいたのか!」
戦闘中のはずの霧島が、俺の方を見る。
「見えてる数字が違うんだよ……」
「なに?」
「あいつは1605位じゃない」
喉が震える。
それでも、叫んだ。
「俺には、160位に見えてるんだよ!」
路地裏に、俺の声が響いた。
ほんの一瞬、静寂が落ちる。
「……やはりな」
霧島が小さく呟いた。
男たちの表情が変わる。
額に汗が滲み、焦りが見えた。
「最近のレクトルは、順位と実力が一致していない奴が多い」
霧島の視線が、俺に向く。
「だが、お前の能力で確信した」
空気が変わる。
「もういい」
霧島の構えが、変わった。
それまでの防御ではない。
見極めるための戦いでもない。
殺すための構えだった。
彼女の持つ大太刀が、さらに大きくなる。
次の瞬間。
一閃。
男たち3人の体が、まとめて両断された。
「……は?」
何が起きたのか、分からなかった。
ただ、目の前で人が真っ二つになった。
それだけは、分かった。
霧島は血を払うように大太刀を振り、俺を見る。
「おい。名前は?」
「か、神城……神城透」
「神城透」
霧島は、感情のない目で言った。
「お前を連行する」
気づいた時には、俺の手首に手錠が嵌められていた。
——この時、俺の人生は終わった。
そして。
金に支配された世界が、俺を飲み込んだ。




