エピローグ
カインが悪魔界に戻って、8年後。
暗い森の中を、フードを被ったアイリーンが、ランタンを手に歩いていた。
彼女は頭上の丸い月を見上げながら、くすりと笑った。
(なんだか懐かしいわね)
暗い森の中を、早足でどんどん進む。
そして歩くこと、しばし。
彼女は、森の中央あたりにある空き地に出た。
空き地には、いかにも古そうな教会が、月明かりに照らされながら怪しく建っている。
彼女は扉に付いている鍵を開けると、ドアノブをゆっくりと押した。
キイィィ、と扉が嫌な音をしながら開く。
開いた先は、暗くガランとしており、床には分厚い重そうな絨毯がひかれている。
天井にある天窓から月明かりが差し込んでおり、教会内を青白く照らしている。
彼女はランタンを床に置くと、絨毯の端に手を掛けた。
持ち上げた瞬間、大量の埃が舞い上がる。
「……っ! ゲホゲホッ! 相変わらずね!」
咳き込みながらも、何とか絨毯をクルクルと丸めていく。
丸め終わり、彼女は絨毯がひかれていた床をランプで照らした。
石の床にあったのは、まるで赤黒いインクのようなもので描かれた、大きな魔法陣だ。
丸い円の中には、古代文字や図形がびっしりと描かれている。
彼女はランタンを掲げると、じっくりと魔法陣をながめ始めた。
ポケットから用意してきたインクと筆を取り出すと、新たに文字や記号を書き足していく。
それらが終わると、彼女は魔法陣の前に立った。
真上にある天窓から、丸い月を仰ぎ見る。
そして、バッと両手を挙げると、大きな声で唱えた。
「来たれ、魔界に住まう悪魔カインよ、我と契約を結ばん!」
結ばん、ばん、ばん、ば……
彼女の声が教会の中にこだまする。
しかし、どれだけ待っても何か起こる気配がない。
彼女は苦笑いした。
「……絶対気が付かないふりをしているわね」
彼女はそこから同じことを繰り返し始めた。
声の大きさを変えたりしてみるが、うんともすんとも言わない。
そして、10回目が失敗に終わり、彼女はキッと魔法陣を睨みつけると、天に向かって手を挙げて高らかに叫んだ。
「来たれ! 魔界に住まう悪魔カインよ! 我と契約を結ばん! ――というか、無視はやめなさいよ! わたくしが呼んでいるのよ!!」
ぐわんぐんわん、と大きな声が教会中をこだまする。
そして、ゆっくりとこだまが消え、完全に消えたと思った、その瞬間。
ぶわっと、魔法陣から生暖かい風が吹き出した。
凄まじい風が教会中を吹き荒れる。
「……懐かしいわね」
アイリーンは、両手で胸を押さえた。
心臓が早鐘のように打ち始める。
目の前の魔法陣から、風と共に紫と黒が混じりあったような光がドバーッと噴き出してくる。
そして、フッと風と光が止み。
アイリーンが魔法陣の上に目を凝らすと、天窓から差し込む月明かりの下、1人の男性が目をつぶって立っていた。
漆黒のような黒い髪に、整った顔立ち、すらりとした体。
布を巻いたような露出の高い服を着ており、高価そうな宝飾品をジャラジャラと着けている。
アイリーンが見ている中、男性がうっすらと目を開けた。
そして、薄闇の中でも分かるほど真っ赤な瞳を彼女に向けると、目を細めた。
「……もう悪魔は呼ばないようにと言ったはずですが」
「あら、そうだったかしら? もう8年も前のことだから、忘れてしまったわ」
そうとぼけた後、アイリーンは目を潤ませながら微笑んだ。
「久し振りね。来てくれないかと思ったわ」
「……本当は、応じるつもりはありませんでした。……でも、あなたの声を聞いて、耐えられなくなってしまった」
カインがぽつりとつぶやく。
そして、アイリーンを見て微笑んだ。
「少し見ない間にとても美しくなりましたね。もうすっかり魅力的な大人の女性だ」
「あ、当たり前よ! わたくし、もう25歳なのよ!」
アイリーンは真っ赤になって目をそらした。
どうしようもないほど心臓がドキドキする。
そして、息を軽く吐いて何とか心を落ち着けると、カインの赤い瞳を見た。
「実はわたくし、画家になりましたの」
「画家?」
意外そうな顔をする悪魔に向かって、アイリーンが得意げにうなずいた。
「あれから先生に何回か手ほどきを受けまして、2年前に王宮主催の絵画展で大賞を取りましたの」
エルミナスに「そろそろ世に出してみたらどうだ」と言われて出品したところ、いきなり大賞を取ってしまったのだ。
カインが面白そうな顔をした。
「それは、おめでとうございます。8年前に、野菜に目が付いたような絵を描いたお嬢様が、まさかそんなにお上手になられるとは夢にも思いませんでした」
「あれはバラの花束よ! あなたそんな風に思っていたの!」
「ええ、実は」
2人のくすくすという笑い声が、暗い教会の中にこだまする。
ややあって、アイリーンが口を開いた。
「それで、今や売れっ子画家のわたくしが、頼りになる護衛を探しておりますの」
「護衛ですか」
「ええ、絵を描きながら、方々を旅して回ろうと思っているのです。以前、城壁の上であなたが教えてくれた、山の向こうのそのまた向こうにある海や、別の国に行ってみたいのです」
カインが意外そうな顔をした。
「公爵家はどうなさるのですか?」
「叔父がいるからお任せしようと思うわ。それに――」
アイリーンがにっこり笑った。
「わたくし、あなたから学んだの。人は自由に生きれるって」
彼女は、カインを見た。
「あなた、きっとわたくしとは契約しないつもりでこちらに来たんでしょう?」
「……」
「でも、わたくしはあなたとずっと一緒にいて、旅がしたいの。だから――」
アイリーンが、懇願するように美しい悪魔を見た。
「わたくしと契約してくださらない?」
彼のことを、忘れようとずっと努力してきた。
どうせ報われない想いだからと、他の男性を好きになろうとしたこともある。
でも、どうしてもダメだった。自分はこの人と一緒に居たいのだ。
カインが、赤く美しい瞳でアイリーンを見つめた。
愛おしげにその頬に触れる。
そして、「仰せのままに」と彼女の前にひざまずくと、その左手を優しくとった。
「死が我々を別つまで、我が愛と忠誠をあなたに」
そうつぶやくと、その指先にそっと口づけをする。
その瞬間、アイリーンの手から青い光が放たれた。
薬指の爪に、青白く光る小さな契約陣が浮かぶ。
アイリーンは、手を目の高さまで上げた。
爪をながめ、「綺麗ね」と小さくつぶやく。
カインがゆっくりと立ち上がった。
美しい赤い瞳と、澄んだ青い瞳が交差する。
天窓から差し込む静かな月明かりに照らされながら、2人はそっと口づけを交わした。
ここまでお読み頂きありがとうございました!
書籍化にあたり、かなり加筆&修正を加えております。
コミカライズは、書籍版に準拠しておりますので、ご了承いただければと思います。
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