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凪の夜

 年が明け、章は仕事に復帰した。

 もう、営業部長づきの秘書などではない。

 係長の椅子は既に別の者に譲っていたし、しばらく職場から離れていたため、主任という立場に降格した。

 だが、本来の業務に戻ったのは確かだった。咲子は章の直属の部下ではなくなったが、同じ課の中で仕事ができるようになったことだけで、満足していた。

 顔色はずいぶん良くなったものの、かなり痩せたことはスーツの浮きを見ればわかる。

 章は、紺色のスーツが一番よく似合う。着る人によっては、高校の制服の延長や安っぽく見えてしまうが、章は違う。

 凛々しい横顔で働く章を見て、咲子は胸が熱くなるのと同時に、苦しくもなった。

 所詮、章の心を支配できるのは美珂だけだとわかったからである。

 美珂の手紙を読みたい、ただそれだけの願いが章に命を吹き込んだのだから、その力は絶大だ。

 章はまだ週に3日は通院することになっているが、ようやく医師から「もう栄養剤は注射しなくてもいいね。」と言われた。

「・・・生きたい、と思うと食べられるようになりましたから。」

「それが大切だよ。本当に良かった。」

「先のことはわかりませんが、まだ知らなかった美珂の言葉が未来に待っている、と思うと、どうしても生きたいと思うんです。」

「亡くなった奥さんの手紙・・だったね。だが、それを読み終えたら、その先は本当に何もないということをわかっているね?」

「わかっています。・・・怖い気もします。でも、もう、負けたくないんです。」

 章は病院から出る間際、かばんから白いマフラーを取り出した。それを丁寧に首に巻き、章は冬の都会に出た。

 1年半前だった。結婚したのは。

 その2ヵ月後、病気が発覚した。あの時医者は「あと2年」と言ったのに、手術に踏み切ったら手の施しようがないことがわかり、結局4ヶ月しかもたなかった。

 あんなに近くにいながら、何も気づいてやれなかった自分が恨めしかった。

 美珂が生まれて初めて編んだというマフラー。入院し始めの頃、あまりにも退屈だといって編み始めたものだった。

 なんだかんだ言いながら、美珂が章に残したものは少ない。あとは章がプレゼントしたイヤリングと、形見分けでもらった金のオルゴール、そんなものだ。

(いいんだ。「もの」の多さが慰めの度合いに比例するものではない。あいつが俺に残したものは、形のないものばかりだったというだけなのだから。)

 そんなことを考えながら、章は自分自身をだいぶ客観的かつ冷静に見れるようになったのを実感した。

 だが、こうして美珂の死に対し、少しずつ痛みを忘れていくことに疑問があった。愛する妻を失っておきながら、平気で仕事をしたり食事をすることは、許されるものなのか。カウンセラーは、「それが生きていくということなのだから、亡くなった人がそれを『裏切り』とか絶対に思いませんよ。」と繰り返した。

 断末魔との戦いに苦しみながら死んでいった美珂。

 若くして夢も希望もすべて絶たれ、この世に未練なく死んだとは思えない。

 それを思うと、やはり俯いて生きていかねばならないと考えてしまうのだ。

 それが章の「生」への躊躇いの原因であり、どうしても解けない「呪縛」であった。


 次の日、咲子は章と共に資料を探すことになり、二人で暖房も入らない倉庫に行った。

 悴む手を自分の息で温めながら、必要な書類をファイルごと取り出していく。

 そんな中、章は不意に言った。

「最近、祐善とはどうなってるんだ?」

 咲子はドキリとして、唇を閉じた。

 何も答えることなどできない。

 忍との関係は、まだ何の結論にも到達していない。

「毎晩、祐善が飲み歩いてるという噂を聞いたんだが・・何かあったのか?」

 章に背を向けたまま、咲子は苦笑した。

「別に・・・何でもありません。」

「一緒に出社もしてないだろう?」

「ですから、何でもないんです。」

 何でもないと言いながら、言葉とは裏腹に口調が強くなっている。章が不審に思っても当然だった。

「何もなくないだろう?祐善も緑川のことを全然話さなくなったし、二人ともどうなってるんだ?」

 咲子は、章の顔をまともに見ることができない。

「松谷さんに・・心配してもらうようなことではありません。」

「心配するさ。二人とも俺にとって、大事な友達なんだから。」

 ーーー 友達なんだから ーーー

 その一言が、咲子の胸をついた。

 堪えてきたものを氷の針でつつかれ、割れたようだった。

 咲子は振り向き、叫んだ。

「何でもないんです!私たちは、何も変われない!だって美珂がいないのに、すべてはあの瞬間から進むことなんてできないわ!」

「・・・緑川・・。」

「うまくいってたのに!何もかもあのままが良かったのに!一人でも欠けたらおかしくなるに決まってる!」

 章は眉をひそめた。

 美珂を失って苦しみ続けていたのは、自分だけではなかったのだ。

 咲子の苦しみを、今、初めて見た。

「でも、別れるわけではないだろう?」

「・・・。」

 咲子は、(これ以上口を開いたら言ってはいけないことを言ってしまう)と思った。

 しかし、章の詰問は終わらない。

「離婚するつもりなのか!?」

「・・・!!」

 心の中の叫びを、唇が音にしないように抑えつけるので精一杯だった。

 唇をかみ締め、何も言うまいとしている咲子を見て、章は溜息をついた。

「・・・わかった。もう、聞かない。」

 章の吐息が、咲子の胸を震わせる。

「二人には、俺たちの分まで幸せになってほしいと・・思っていた。」

 咲子は、昔からわかっていたのだ。自分という人間に、章という人間の愛が決して重なることはないと。

「・・・松谷さん。」

 咲子は震える唇を無理に開いた。

「教えてください。今、少しでも生きる希望を持って、幸せですか?」

「・・・この1年の記憶が、実はほとんどないんだ。いつも現実と夢の間を漂っていた気がする。ただ、ようやく生きていこうという希望とともに、独りで生きていかなければならないという自覚が芽生えた気がするんだ。だが、苦しみながら死んでいった美珂をよそに、自分一人生きていくのが申し訳ない気も・・するんだ。美珂がいない世界で幸せになるなんて、許されない・・・と思うんだ。」

 咲子は、章の気が狂う理由がやっとわかった気がした。

 気が狂うくらい苦しまないと、美珂に申し訳が立たないと思っているその気持ちが、章をいつまでたっても縛り付けているのだ。

 咲子は、必死に首を振った。

「それは違います。松谷さんが沈んでいるのを、美珂が見たいと思いますか?美珂が望んだのは、あなたの幸せだけです。あなたが不幸せだったら、死んでも死にきれないと思いますよ?」

「理屈では、そうだろう。だが、志半ばで死んでしまった美珂が可哀想でならない。もっと幸せになれたはずなのに、すべて絶たれてしまったことを思うと、俺一人幸せになるのは罪だ。」

 咲子は、章にずっと美珂を忘れないでいて欲しいと思っていた。だが、こんなことは望んでいない。いや、忘れないということは、「こんなこと」が一生ついて回る結果になるのか。だとすれば、咲子の望みはなんと残酷なものだろう。

「でも、」

 章は、乱雑に積み重なったファイルを整頓しながら言った。

「俺が本当にどうすべきかは、美珂の手紙に書いてあると信じている。俺も色々考え、迷いもあるし、不安もある。その答えが、手紙に書いてあると思うんだ。」

 咲子は、頷いた。

「私も、そう思います。松谷さんのことを一番理解し考えているのは、今までもこれからも美珂だけです。」

「・・・美珂の言葉が、聞きたいんだ。今の俺が正気で立っていられるのは、ただそれだけのためなんだ。そのために生きているといっても、過言ではない。」

 咲子は一度深呼吸し、尋ねた。

「あの社長令嬢のことは・・?」

「もう、会う必要もない。・・・彼女には、悪いことをしたと思っている。」

「美珂の手紙に再婚しろと書いてあったら、再婚しますか。」

 核心をつく質問だった。

 咲子は、まっすぐに章を見つめた。

 すると章は、「やめてくれ」というように笑った。

「わかるか?緑川。俺は美珂を愛したこの身体で他の女を愛することを想像しただけで鳥肌が立つんだよ。俺にとっての女は、美珂だけだ。それ以上の何者でもない。」

「・・・それでも・・。」

 いつかは、そんな日が来るのではないか。そう言いたかったが、やめた。

 章の言葉に、咲子の心が少しだけ凪いでいた。

 (この恋は・・。)

 章はたくさん重なったファイルを3分の1、咲子に持たせた。

「さあ、行こうか。」

 章の顔に、久しぶりの微笑が浮かんだ。

 ファイルの3分の2を両腕一杯に抱えた章は、咲子の先に立って歩き出した。

 その背を見て、咲子は瞼を閉じた。

(決して叶わない想い。届かない心・・何もないように、どうせかわされる。でもそれが、私の望みでもある・・・。)

 万が一、章が咲子の思いに応えるようなことがあったら、どうせ咲子は更なる自責の念にかられるだけではない。多分、美珂を裏切った章を蔑むのだろう。

 それが、身勝手な恋の限界だった。


 2月になった。

 その夜、章は自分から忍をバーに誘った。

 章自身はアルコールを禁止されているため、ソフトドリンクで忍につきあった。

「手紙・・いつくれるんだ?」

「見せても大丈夫、という確信を持てたらな。」

「それは・・。」

「とにかく、命日を待ってくれ。待っていて欲しい。」

 忍は、この手紙によって章の心が再び壊れてしまうことを懼れていた。自分から「賭けだ」とか思っておきながら、今更怖くなってきている。

 章が今正気なのは、美珂の未知の言葉を知ることができるという希望を持っているからだ。その支えがなくなったとき、章はどうなってしまうのか・・。

― もし、あの人が苦しむようなら渡して欲しいんです ―

(彼女の言葉を信じるほかないのか。松谷のことを誰よりも考えていると・・。)

― 忘れて欲しくない、というのもあるんです ―

(その後はどうする?手紙を見せたあと、どうすればいい?)

― 幸せになってほしい、あの人に ―

(重い役目だ。重すぎる・・・。)

 その重圧に、忍はぎりぎりのところで耐えていた。

 そのストレスは、どこかで破裂するのを待ち構えているようだった。

 次の日の退社時刻すぐに、忍が営業2課に来た。

 忍が咲子を呼び出すのを見て、章は、久々に二人一緒のところを見たと思った。

 忍も咲子も同じ屋根の下に暮らしているとは思えないほど、長く顔をあわせていなかった。 正月休みでさえ咲子は実家に戻ってしまったため、一緒には過ごしていなかった。

 忍は、廊下向かいの研修室に咲子を連れ込んだ。

「確認したいことがある。」

「何?」

「松谷は・・手紙にたとえ何が書いてあったとしても、それ以上に、手紙を読んでしまった後でも、正気でいられると思うか。」

 咲子は忍の表情を見て、相当悩み苦しんでいるのだと悟った。

「大丈夫とは言い切れないけど、覚悟はできていると思う。」

「・・・そうだろうか。今後100人の女と結婚するよりたった4ヶ月でも美珂さんと結婚したほうが良かったと思っているような男に、残酷な結果を生み出さないだろうか。」

「手紙の中身がわからないのだもの。判断しようもないじゃない。」

「よくそんな無責任なことが言えるな!?これっきりなんだぞ、アフターケア一切なしの、最後の切り札なんだぞ?これで駄目だったら、俺はどうすればいい?どう責任をとればいいというんだ!?」

 咲子の心は、再び荒れた。

「でも、あなたは散々言っていたわ、他の女と幸せになれるのならそれでいい、だなんて!そっちのほうがよほど無責任だったわ!結局、駄目になってしまったじゃないの!?」

「それは相手が悪かったんだよ。だから俺は覚悟しているんだ、今は、もう!咲子が松谷の支えになるなら、俺が身をひかねばならないと!」

 忍の告白に、咲子は引き裂かれる思いがした。

 忍がそこまで考えていただなんて。

「それで、平気なの?・・・そんなことになって私は私の恋が成就したって、私自身を許さないし、美珂を裏切った松谷さんだって許さないわ。あなたは、松谷さんと私が美珂を忘れて一緒になっても平気だというの?」

 忍と咲子のことが心配でたまらなかった章は、廊下に出てきたところで研修室から声が聞こえてきたため、思わず立ち止まった。何を言っているかはわからなかったが、それがまぎれもなく咲子の声であるのは認識できたからだ。

 章は人目を気にしながらも、思わず研修室の扉に耳をおしつけた。

 忍は叫んだ。

「平気なわけないだろう!?俺だって好きだったんだ、あの二人の恋愛が!ずっと恋愛よりも仕事をとってきた男と女が互いを見出して生きていく姿に惚れていた!忘れてほしくない、あの恋愛を、壊して欲しくない!勝手を言えば、俺は松谷にずっと独りでいて、美珂さんだけを思っていて欲しいさ!だけどそんなの、俺の勝手じゃないか。俺の独りよがりな欲望だよ!松谷の人生だ、ずっと重荷を背負うのは俺じゃない、涙を溜めて生きていくのは、松谷本人なんだよ!」

 自分の話をしていることに驚いた章は、息を凝らした。

 咲子は、何も言えないでいる。

「俺の勝手な願いのために、松谷に悲しみをずっと忘れずに生きてくれなんて言えるか?言語道断じゃないか。」

「忍さん・・。」

「松谷が他の女と歩いているのを見て、辛かったよ。だけど、所詮苦しんでる俺は他人だ。美珂さんを忘れられないで苦しんでいるときにホッとしている俺は、醜い。」

 忍が咲子と同じ気持ちでいながら、咲子以上に自分を戒めていることを初めて知った。

「私、あなたの思いを何も知らないで・・。」

「俺は美珂さん自身に惚れているわけじゃないからな。その分、咲子より冷静だったというだけさ。もし、逆の立場だったらどうなっていたかわからない。松谷が死んで、生き残った美珂さんを見ていたら、俺もどうなっていたかわからない。君が、松谷を愛してしまったように。」

 章は一瞬、自分の耳を疑った。

 今、忍は何と言った?

 だが、退社時刻を過ぎて廊下に出てくる人が多くなってきたため、章はその場を離れざるを得なくなった。

 章は自分のデスクに戻ると、じっと宙を睨みながらさっきのことを回想した。

― 君が、松谷を愛してしまったように ―

 忍は確かに、そう言った。

― つまり、緑川が・・・? ―

 聞き間違えたとは思えない。

 やはり、確かなことだ。

― 一人でも欠けたらおかしくなるに決まってる! ―

 咲子の言葉は、それを示していたのだろうか。

 もし本当に自分のことで咲子と忍が離婚でもしたら、どうしたらいいというのだろう。

(いつから・・・?一体いつから、そんな・・・。)

 章が美珂を溺愛しているのを一番知っているのは咲子だったはずではないか。

 あの美しい横顔の曇りは、自分のせいだったのか。

(だからって、俺に何ができる?何が・・・。)

 章は両手で頭を抱えた。

(美珂、早く教えてくれ。どうやったら明日を生きられるのか。この悲しみを、いつまで抱いたら終わるのか。)

― 悲しまないで。きっと皆が言うわ、新しい幸福を見つけろ、と ―

(新しい幸福なんていらない。明日さえ、いらない。今生きているのは、お前の残した手紙を見たいからだ。それだけだ。)

 まったく知らなかった。

 忍と咲子の仲がおかしくなった原因が、自分にあったなんて。

 自分だけが苦しんでいるのではない。

 咲子も、忍も、こんなに苦しんでいる。だが、そんな中、二人は懸命に生きている。苦しみと戦っている。悲しみを乗り越えようとしている。

(俺が・・しっかりしなければ。)

 前を見て歩いていくことに、後ろめたさがあった。

 美珂がいないこの世界で楽しんだり幸せを感じることは、罪だと思っていた。

 未来を夢見ることは、許されないと思っていた。

 いつまでも美珂を忘れずに俯いて生きていくべきだと思っていた。

 何かを願ったりしてはいけないと思っていた。

 だが。

 章は、一人で生きているわけではない。

 美珂がいなくなったとしても、忍や咲子、家族、会社の仲間、上司・・・多くの人たちの支えによって存在できているのだ。生かされている以上、その支えてくれる人たちのことも考えねばならない。そのために前を見て、しっかりと歩いていくことは罪ではないだろう。美珂を裏切ることにはならないだろう。

 そう悟った章は、次の日、忍を誰もいない屋上に呼び出した。

 寒いながらも透き通った空の下、章は忍と向き合った。

「本当に長いこと心配をかけて、すまなかった。」

「・・・松谷。」

「やっと、自分の気持ちに整理がついた。俺は美珂を忘れたいと思っても無理だし、忘れたとしても他の女には絶対心が動かないと思う。そしてそんなことに慰めを見出そうとも思わない。」

「それを美珂さんが望んでも、か。」

「美珂の望みだろうと、誰かの命令だろうと、人の心なんてどうにもならないだろう?」

「松谷を・・・深く愛する女性が現れても、相手にしないと?」

「俺が愛せなければどうしようもないだろう?それは、理屈じゃないんだ。」

「・・・・誰であっても・・・?」

「誰であってもだ。」

 忍は、章の瞳に確かな生きる色を見た。

「気持ちは、決まっているんだな。」

「ああ。」

 忍は章の心を聞いて、もう何も言うまいと思った。

 章は、大丈夫だ。

 もう、本当に、大丈夫だ。

「寒いから、オフィスに戻ろう。・・・週末は雪の予報だ。」

 忍は章の肩を抱いて、建物の中へと誘った。

 忍は目の前を凝視し、言った。

「渡すよ。」

「・・・え?」

「命日の日に、松谷の大切な人からの手紙を渡すよ。」



 灰色の厚い雲の下、松谷美珂の一周忌の法要が行われた。

 親戚縁者が一年ぶりに会し、それはつつがなく行われた。

 美珂の両親は、章がしっかりと地に足をつけて立っていることに心から安堵し、喜んでいた。章の両親も、この2ヶ月の章の回復振りに目を見張っていた。

 美珂の墓の前から皆が去っていこうとしたとき、忍は章を呼び止めた。

 忍は黒いコートの内側から、手紙を取り出した。

「約束どおりに。・・・松谷が悲しんでいたら渡して欲しいと、美珂さんから言われて持っていたものだ。」

 章は震える手で、その白い封筒を受け取った。

「・・・ありがとう。」

「俺たちは先に行ってる。一人でゆっくりと、美珂さんと話すといい。」

 忍は章に背を向け、少し先で待っている咲子のところまで歩いてきた。

「・・・手紙、渡したのね。」

「ああ。大丈夫だ。手紙に何が書いてあっても、松谷は松谷だよ。」

「信じるわ、あなたを。松谷さんを。そして、美珂を。」

 と、その時だった。

「・・・あ、」

「雪・・・。」

 二人は思わず空を見上げた。

 灰色の雲の間から、白い花びらのような雪が、次から次へと舞い降りてくる。

 咲子は、睫毛の上で溶ける雪を感じた後、美珂の墓の前で一人佇む章を振り返った。

 俯いたまま手紙を読んでいる章を見つめて、咲子はハッとした。

 章が、泣いている。

 章は手紙を読み、美珂の死後、初めて泣いたのだ。

 美珂の手紙の最後には、こう書いてあった。

― あなたが私を忘れない限り、私は一片ひとひらの雪になって、あなたに降り注ぐ ―

 この雪は美珂だ。

 そう思うと、章は、身体中の血液が熱く流れ出すのを感じた。

 3枚にわたり綴られた手紙を章は胸に抱きしめ、熱い涙を頬に流し続けた。

 この一片が美珂の魂だと思うと、もう寂しくはなかった。

(美珂は雪になったんだ。死んで、俺が愛して止まない、この美しい一片になったんだ。)

 頭の中を、思い出が交差する。

 色々なことがあった。

 たくさんのことがあった。

 いつも、美珂の優しさに包まれていた。

 美珂との日々が輝いて、雪の中に溶けてゆく。

 手のひらを差し出せば、その上に舞い降りる一片の雪。

 それを握り締めて、章はゆっくりと目を閉じた。

 美珂は、今も自分の近くにいる・・・そう思う。

 決して自分を置き去りにせず、いつもこんなに近くにいてくれる。

― だから、私の分まで幸せに生きて欲しい。あなたがいてくれただけで私は幸せだった。でも、もう私は何もしてあげられない。だから私はあなたが好きな一片の雪になって、あなたの下に舞い降りる ―

 章はコートの襟に、涙で凍った頬を埋めた。

(死んでしまったんだ。どうあがいても死んでしまって、この雪になってしまったんだ。)

― もう、何もしてあげられないけれど ―

(美珂・・・どうして・・・!どうして死んでしまった・・?)

― 私は一片の雪になって、あなただけを、ずっと見ています ―

 章は肩を震わせ、思い切り泣いた。

 美珂を愛している。

 今も変わらずに、愛している。

 手紙を胸に抱き、章は泣きたいだけ泣いた。

 それを見ていた咲子の瞳に、初めての涙が浮かんだ。

 隣にいた忍は、それを見て思い出した。

 咲子が、「章が泣かない間は自分も泣かない、涙を堪えるのだ」と言っていたことを。

 咲子は章の涙を見て、やっと、自分も泣けると思ったのだろう。

 この1年耐え続けた思いが、今、一気にあふれ出したに違いない。

 忍は、咲子の肩を押した。

 驚いた咲子が忍を見つめると、「章のところへ行け」と促すように、忍は章の方へ顔を向けた。

「忍さん・・・。」

 咲子はもう一度その真意を確かめるように、忍を見つめた。

 忍がしっかりと頷いてみせたため、咲子は躊躇いを捨てた。

 雪で濡れた砂利を静かに踏みしめ、咲子は章の近くに立った。

 章は咲子の気配を感じながらも、振り向きはしなかった。

 咲子は、かまわずに言った。

「・・・一つだけ、お願いがあります。」

 章が、コートの襟から赤くなった瞳を覗かせた。

「一緒に、泣かせてください。」

「・・・・。」

「松谷さんが泣かない限りは私も泣くまいと思って、美珂が死んでから一度も泣かずに耐えてきました。この1年、ずっとです。」

 章は、何も言わない。

「もちろん、こんなのは私の勝手です。松谷さんには、何の関係もないことです。でも・・・。」

 咲子は溢れそうになる涙を堪えながら、懇願した。

「お願いです。・・・もう、泣いてもいいとおっしゃってください。」

 こみあげる思いに、握り締めた指が震えている。

「許しが欲しいんです。・・・もう泣いてもいいという、松谷さんの許しが欲しいんです。」

 咲子は、そう言って初めて気付いた。自分がずっと欲していたもの・・・それが、何だったのか。

 長い沈黙の間に、目の前が雪で白く滲んでいく。

 咲子は心からの思いを振り絞った。

「どうか・・!」

 

 次の瞬間


 咲子は、章の腕の中にいた。


 章の肩に涙で濡れた頬を埋めながら、咲子は震える手で章の背を掴んだ。

 声を押し殺して泣いている章の細かな息遣いを感じ、咲子は更に嗚咽を強めた。

 章の背は広く、触れた指先から痺れるような愛おしさを感じていた。

 章は、自分の気持ちを知っているのだろう。

 それでいて一寸のやましさもない自信から、こうして美珂の墓の前で自分を抱きとめてくれているのだろう。

 咲子が流しているのは、一年分の思い。

 章と美珂に対して抱いた、そして忍に抱いた、色々な思い・・・

 二人はしばらくの間、強く抱きしめあったまま涙をわかちあった。

 わかっている。

 また明日から、強く、生きていかねばならない。

 この足で、自分の道を、歩いていかねばならない。

 美珂の化身が舞う中、咲子は、自分の気持ちが昇華していくのを実感していた。


 雪は、激しくなることなく・・・

       優しく、温かく、二人の上に降り続けた。



 どれほどの時間が経ったのか。

 章は咲子から身体を放すと、すぐに背を向けた。

「・・・ありがとう。おかげで、明日も、その次の日も、生きていこうと思えるようになった。」

 咲子は頬の涙をぬぐいながら、微笑んだ。

「お礼を言うのは私の方です。それにしても、さすがは美珂です。松谷さんのことを誰よりわかっていて、唯一人、あなたを救うことができる。」

「今まで、本当に散々迷惑をかけてすまなかった。」

「・・・そんな。」

「祐善にも、何と言っていいかわからないくらいに、申し訳なく思っている。」

 咲子は懸命に首を振った。

「いいえ・・!迷惑だなんて思っていません。私も忍さんも、そんなふうに考えません!」

 章はゆっくりと振り向き、咲子の瞳をとらえると、悲しい笑みを浮かべた。

「俺はもう、大丈夫だ。本当に、一人で大丈夫だ。苦しみも悲しみも寂しさも、すべて背負って生きていける。だから・・・ 」

 咲子はなんともいえない感情で胸がしめつけられそうだった。

 それを、章の一言が突き破った。

「だからもう、祐善の元へ戻れ。」

「・・・!」

「・・・心配してくれて、ありがとう。」

 章はそう言って、再び咲子に背を向けると、歩き出した。

 章の言葉が何を意味しているのか。

 それを確信しながら、咲子は章を呼び止めた。

「待ってください!」

 咲子は、声だけで章の背にすがりついた。

「どうか・・友人という繋がりだけは、どうか、これからも絶たないで下さい・・・!」

 章は小さく頷き、そして、去っていった。

 ― 祐善の元へ戻れ ―

 なんという、残酷なほど的を得た答えだろう。

 咲子の想いを拒絶した、これ以上の台詞はない。

 咲子は一気に力が抜け、その場に膝をついた。

 冷たい墓石に触れ、咲子は痛いほどにわかった。

 松谷章という男と人生を共にできるのは、美珂だけなのだと。

 そして、自分が愛していたのは、章という男そのものではなく、美珂を一途に愛する男の姿だったのだということを。

 やがて咲子は肩を震わせ、再びすすり泣いた。

 咲子もまた、一つの心の区切りをつけようとしていた。

 美珂の死後から始まった長い夢は、今、朝の目覚めを迎えようとしていた。



 冬の朝は、いつも慌しい。

 寒くて、どうしても布団の中で一分でも長くまどろんでいたいと思うからだ。

 それが1分ではすまず、すぐに10分、20分と経ってしまう。

 朝食より化粧最優先の咲子を横目に、忍は手馴れた様子だが、切迫した顔でネクタイを結んでいる。

「俺は朝一で会議だから、もう出るぞ。」

「朝ごはんは?」

「時間がないから、いい。何とでもなる。」

「ごめんね。ほんっとうにごめん。」

「いいから、咲子も急げよ。」

 

 美珂の一周忌の日の夜、咲子は忍と一晩中話し合った。

 咲子は心から謝罪し、もう一度やりなおしたいと願った。忍は元々咲子への愛情は残ったままだったし、咲子の真剣な懇願を受け入れた。忍としても、咲子の心の揺れは理解できたし、咲子がそのまま章を選ぼうと、忍の下へ戻ろうと、すべてを受け入れるつもりでいた。

 しばらくは、わだかまりが残るかもしれない。

 だが、それくらいは乗り越えねばならない。

 それが、「一生を共にする」という約束を交わしたということなのだから。

 

 その晩、久しぶりに3人で食事をした。

 有楽町のレストランを出ると、忍は言った。

「章、これからどうする?」

「俺は、霞ヶ関を少し歩いて帰るよ。」

 咲子は、優しい眼差しで章を見つめた。

「美珂の好きだったオフィス街の散策コースですわね。」

「・・・ああ。」

「松谷は本当に、美珂さんを今も好きなんだな。悲しいくらい・・・大切なんだな。」

 章は笑って頷き、そして踵を返すと、日比谷方面への人ごみに紛れていった。

 それを見届けながら、咲子は言った。

「・・・あの手紙に、美珂は『一片の雪になって見守ってる』と書いたんですって?」

「ああ。章も美珂さんも、雪が好きだからな。」

「でも・・・やっぱり美珂は松谷さんに忘れて欲しくなかったのよね。一生、よほどのことがない限り、松谷さんは雪が降るたびに美珂を思い出すわ。」

「都会の雪は、冬の、ほんの数日だけだ。1年のうち、それくらいは思い出して欲しいってことじゃないのか。」

「1年のうちの・・・。」

「ほんの、数日だけ・・・。」

 二人は、何となく同時に空を見上げていた。

 華やかなネオン街から除く小さな夜から、不意に、白いものが舞い降りた。

「・・・雪・・・!」

 思わず差し出した二人の手のひらの上で、薄い花びらのような雪は、フワッと溶けた。二人はもう一度空を見上げたが、もう、何も降りてくることはなかった。

 今のは幻想だったのだろうか。

 そんなことはない。

 だって、確かな雪の感触を二人同時に味わった。

 咲子は、静かに言った。

「美珂は、ちゃんと私達のことも見てくれているのね。」

 忍はゆっくりと宇宙そらの果てを見上げ、目を細めた。

「ああ、・・・そうだな。」

 二人は横に並んで、ゆっくりと歩き出した。

 細い街路樹の固いつぼみが、間もなく訪れる春をつげていた。


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