おまけ:黒き虎が生まれた日
チベット自治区崑崙山脈・山林地帯ーーー。
「竜吉ッ!」
日も暮れる時間に、スコールのような雨が降り注ぐ中。
彼は、険しい斜面で木の幹にもたれるように倒れた女性兵に、斜面を跳ねながら駆け寄った。
「虎……」
「しっかりしろ! お前、怪我を……!」
彼女の腹は、銃弾に貫かれて血を垂れ流していた。
重い怪我を今まで隠していたのだ。
「死にかけた体でも……動ける。装殻はやはり、便利なものだ」
「バカが! 何故すぐに言わなかった!」
フーは、自身の虎の装殻を解除してキットでロンジィの止血を始めたが、既に彼女の顔には死相が浮かんでいた。
「私を気にしていては……お前が鈍って、逃げ切れなかったかも、知れないだろう?」
「俺を逃して、自分が死んだら意味がないだろうがッ!」
彼らは、中国の前線部隊の兵だった。
中国が侵略した国土に対して、ゲリラ戦を仕掛ける為に配置された捨て駒の兵士……突然基地へ呼び戻され、本部を守れと最新型の装殻を与えられた。
防衛に当たる彼らに待っていたのは、基地に駐屯していた本隊の逃亡と、敵の大攻勢だった。
本当に捨て駒にされたのだと気付き、基地を放棄して命からがら逃げ出したと思っていたのに。
フーは歯噛みしながらロンジィの止血を終えて防寒シーツに包むと、再び装殻を展開して彼女を背負った。
「捨てていけ、フー……どうせ、街にたどり着くのは死体、だ……」
「黙っていろ……! 死なせはせん……!」
ロンジィは、彼の恋人だ。
捨てていくなどという選択肢はなかった。
どうにか雨を凌げるところまで、と視界が煙るほどのスコールの中を駆け抜けたフーは、やがて滝の近くにある崖の側で止まった。
巨大な木が枝を折り重ねた場所を見つけて、その下に逃れる。
スコールは長くは続かない。
雨がやめば、すぐに動くつもりだった。
突然の増水により巨大な水音を立てる滝の側で、彼の肩にもたれかかるロンジィが朦朧と言う。
「覚えているか……フー。以前の、休暇の、時……」
「ああ……」
彼女が意識を保ち続けられるよう会話に応じたフーに、ロンジィは小さく笑う。
「ふふ……約束は……果たせそうにないな……」
「雨がやめば街へ向かう。もう、すぐそこだ。諦めるな」
言いながら、フーはあの時の事を思い出していた。
※※※
真夏の炎天下、青く透明な海でのバカンス。
引き締まった兵士の肉体を持つロンジィだが、筋肉質である事を除けば、しなやかでプロポーションが良い体をしている。
フーは眩しさに目を細めながら、彼女を眺めた。
ビキニ姿がよく似合う。
三日後には再び前線だが、二人で一週間の間、存分に楽しんだ婚前旅行の最後に相応しい、眼福な光景だ。
「なぁ、フー」
遊び尽くし、夕暮れ時。
彼女は指に嵌めた龍の意匠の装具を光に翳しながら言った。
「この装具を、結婚指輪にしないか。兵士に相応しいと思うんだが」
「いいな。じゃあ、次の休暇には、二人で装具を嵌めて婚姻届を出しに行こう」
そう言って、フーはロンジィと笑い合い……。
※※※
「フー。最後に……キスを」
顔を上げるロンジィに、フーは奥歯を噛み締めながら口づけをする。
「最後なんて、言うな。お前は助かるんだ……」
彼女の頭を片腕で抱きしめ、フーはその濡れた髪を指ですく。
ロンジィの肌は、もう、氷のように冷たかった。
雨は、もうすぐ止むと言うのに。
「フー……あなたに会えて良かった。……だが、お別れだ」
そう言って、震える指で薬指の指輪を撫でたロンジィは。
龍の意匠を持つ装殻を展開し、突然、フーを投げ飛ばした。
「ロンジ……ィ!?」
滝壺に向かって吹き飛びながら、咄嗟に装殻を展開したフーの目に。
装殻がすぐに解除されて、ぐらりと倒れかけたロンジィの姿と……森の中から一斉に飛び出して来る敵の装殻者達の姿が映る。
激しい決意を秘めた目で、満足そうな笑みを浮かべたロンジィの口元が動く。
『いつまでもあなたを……』
そうとだけ口にしたロンジィが、敵の銃弾に蜂の巣にされるのが見えたのを最後に、フーは吼えながら崖下の滝壺に沈んだ。
※※※
下流まで流されたフーは、ざばり、と水から這い上がり、虎の意匠の顔を両腕で押さえつけながら慟哭を押し殺す。
「ロンジィ……ロンジィ……!!」
皆死んだ。
仲間も、ロンジィも。
俺たちが何をした。
基地を捨てるだけならば、我々を残す必要などなかった筈だ。
祖国の為に戦い、その仕打ちがこれか……!
胸に滾る想いが、忠誠も、諦念も焼き尽くしていく。
祖国と、恋人。
守るべきだった二つのものを秤に掛けたフーは……自分の腕から永久に失われたものを、取った。
「決して、決して許さん……!」
理屈ではないのだ。
復讐を。
フーはゆっくりと立ち上がり、川の脇にあった森林の中へと、姿を消した。
追っ手は振り切れていない。
ーーーだが、死ぬ訳にはいかない。
「どれ程の時が掛かっても、必ず、報いを受けさせてやるぞ……!」
そして、彼の祖国は一人のテロリストを、自らの手で生み出した。
失った愛の重さに、牙を剥いた虎の名は。
ブレイヴ=リー。
〝白額虎〟の異名を持つ、ゲリラ戦の覇者ーーー。