漆黒の闇、追跡者
三日目
日中
三日目の朝も、アオイは寝不足で重い体を起こした。昨夜の物置小屋での出来事が、まだ脳裏に焼き付いている。あの黒い「染み」の不気味さは、現実で味わうどんな恐怖よりも生々しかった。朝食も喉を通らず、食欲は湧かない。
午前中、共有スペースへ向かうと、すでにユウキとケンタがソファに座っていた。二人とも、アオイと同じように顔色が優れない。目の下に薄いクマができているのは、寝不足の証拠だろう。
「よお、アオイ。今日も悪い夢見たか?」ユウキが気だるそうに声をかけてきた。
「ああ。お前らも見たのか?」
アオイが尋ねると、ユウキが重いため息をついた。「ああ。今度はさ、俺の家のリビングだったんだ。テレビがついてるのに誰もいなくて、なぜか妙に寒くて……そしたら、カーテンの隙間から、昨日のお化けみたいな影が、ゆっくりとこっちを覗き込んでくるんだよ」
ユウキは肩を震わせた。「すげーリアルでさ。声も出ないし、体も動かないし。もう、夢だって分かってるのに、マジでやばかった」
ケンタも頷く。「俺もだ。今度は学校の屋上だったんだけど、誰もいないのに誰かの視線を感じるんだ。下を見たら、校庭の真ん中に真っ黒な影が立ってて……それがだんだん大きくなって、こっちに手を伸ばしてくるんだよ。足がすくんで動けねぇし、もう死ぬかと思った」
アオイも自分の見た夢を話した。クローゼットの奥の「気配」と、物置小屋の「黒い染み」。場所は違えど、二人と同じように、明確な形を持たない「何か」に追い詰められるような恐怖だったことを伝えた。
「夢の中でこれは夢だってことを感じれるのはあのヘッドギアのせいなのか?この悪い夢を見せてるのも...。」アオイは指摘した。「たしかに夢のなかでは自分の意思で動いたりできないもんな。あの夢だってここにきてから見るし。」
三人は顔を見合わせる。単なる偶然で片付けるには、あまりにも共通点が多すぎた。あのヘッドギアや、この治験と関係があるのだろうか。漠然とした不安が、言葉にならないまま、俺たちの間に漂った。
その時、一人の少女が、俺たちの座るテーブルにゆっくりと近づいてきた。長い黒髪を揺らし、手に持っていた文庫本を胸の前でぎゅっと抱きしめている。
名前はサクラだ。
彼女は、おどおどした様子で俺たちをちらりと見上げると、震えた声で話し始めた。
「あ……あの……」
透き通るような声だったが、その中に明らかな怯えが混じっていた。彼女の顔は青ざめ、大きな瞳は不安に揺れている。
「も、もしかして……皆さんも……へんな、夢……見てますか……?」
サクラの問いかけに、俺たちは顔を見合わせた。ユウキが最初に口を開いた。
「ああ、見てるよ。すげーリアルな悪夢。なんか、ずっと黒い影に追いかけられてさ」
ケンタも頷く。「俺も。マジで心臓に悪いって。夢だって分かってても、汗びっしょりで目が覚めるんだよな」
二人の言葉に、サクラの顔に微かな安堵の色が浮かんだ。彼女は文庫本を抱きしめる腕の力を少し緩め、再び震える声で話し始めた。
「私……今朝、目が覚めた時、声も出なくて……。夢の中で、ずっと誰かに名前を呼ばれてるのに、振り向いたら誰もいなくて……でも、視線だけは、ずっと背中に感じてて……。それがだんだん、私の部屋の壁とか、天井とかから、真っ黒い手が、にじみ出てくる夢だったんです。私、もう怖くて怖くて……」
彼女の声は途切れ途切れになり、目に涙が浮かんでいる。サクラの悪夢は、俺たちのそれよりも、さらに直接的な恐怖を伴うものだったらしい。部屋の壁や天井から手が滲み出てくる、という描写は、俺たちの見た「黒い染み」や「影」の、より進化した形なのかもしれない。
アオイはたまらず、サクラの言葉を遮るように言った。
「大丈夫だよ、サクラ。それは、ただの夢だ」
ケンタも慌てて同意する。「そうだよ! 怖いのは分かるけど、所詮は夢だから。どんなにリアルでも、死ぬわけじゃないし、大丈夫だって!」
ユウキも柔らかい声で続いた。「そうそう。俺も一回、夢の中で崖から落ちたことあるけど、目が覚めたらちゃんと生きてたし。大丈夫だよ」
俺たちは、サクラを励ますように、それぞれが経験した「所詮は夢」エピソードを語った。自分たちも怖い夢を見ているからこそ、サクラの恐怖が痛いほど理解できた。だからこそ、そう言ってあげたかった。
サクラは、ほんの少しだけ顔に血色を取り戻し、小さく頷いた。「そうですよね……。夢、ですもんね……。でも、なんか、ここに来てから、ずっと体が重くて……」
彼女の言う通り、俺たちも疲労感を抱えていた。夢がリアルな分、精神的な消耗も激しいのだろう。
「そうだよ、夢だよ。でも、本当にリアルすぎて、疲れるよな」
アオイはそう言いながら、どこか安心している自分に気づいた。みんな同じ夢を見ている。きっと大丈夫。これは高額な報酬に見合った、単なる治験なのだ。そう信じたかった。
サクラは、ほんの少しだけ顔に血色を取り戻し、小さく頷いた。「ありがとうございます……」
共有スペースには、再び穏やかな時間が流れた。しかし、その根底には、皆が共有する、形のない「悪夢」の影が、ぼんやりと横たわっていた。
夜
その日の夜も、ベッドに横たわり、ヘッドギアを装着する。昨日までの悪夢を思えば、正直気が滅入るが、逃げる選択肢はない。10日間。たったそれだけ耐えれば、この生活は終わる。そう言い聞かせながら、アオイは意識を暗闇へと沈めた。
次に目覚めた時、アオイはまた自分の部屋にいた。しかし、昨日の物置小屋のように薄暗くはない。夕暮れ時の、どこか物悲しい光が窓から差し込んでいる。リビングからはテレビの音が聞こえ、親しい人の気配がする。安心感が胸に広がる。もしかして、今日は普通の夢なのか?
アオイはリビングへ向かった。そこには誰もいなかった。テレビだけが意味もなくつけっぱなしになっている。そして、またあの冷気が肌を撫でた。
カーテンの隙間。テーブルの影。ソファの隅。視線を感じる。それは、昨日まで感じていた「気配」だ。だが、今日のそれは、より明確な殺意を帯びているように感じられた。
アオイはゆっくりと後ずさる。リビングの奥、キッチンの入り口の暗がりから、何かが「這い出てくる」ような音と、焦げ付くような不快な匂いがした。具体的な姿はまだ見えない。だが、それは確実にアオイに向かってきている。
「う、うわぁっ……!」
反射的に背を向け、玄関へと走り出した。恐怖で足がもつれる。鍵を開け、ドアノブをひねり、がむしゃらに外へ飛び出した。
そこは、アオイの住むアパートの前の、見慣れた路地だった。いつも通る道。だが、振り返ると、アパートの玄関のドアは漆黒の闇を吐き出すかのように歪んでいた。その闇の中から、影がずるりと這い出てくる。それは、二本の足で立ち、明らかにアオイを追跡しようとしている。
アオイは息を呑んだ。今度は違う。漠然とした恐怖ではない。これは、明確な「追跡者」だ。
「やめろ……!」
叫んでも声にならない。アオイは全力で走り出した。曲がり角を曲がり、また曲がり。見慣れたはずの景色が、まるで無限に続く迷路のように感じられる。背後からは、引きずるような、ぬめるような音が追いかけてくる。
無我夢中で、アオイは知らない路地へと逃げ込んだ。こんな道、通ったことがない。細く、薄暗く、両側には古びた民家が壁のように連なっている。壁には見たことのない落書きがされていて、道端には見たことのない雑草が生い茂っている。
その路地を駆け抜けようとした、その時――
目の前の景色が、一瞬にして歪んだ。まるでテレビの砂嵐のように、全てがぐちゃぐちゃになる。