押し掛けスタート
優はモーターホームの中に一人でいた。
朝のフリー走行を終えて、セッティングもタイヤも問題ない。500ccのマシンがフリー走行ためのウォームアップをしている。それが終われば、いよいよ決勝が始まる。
下着だけの姿でストレッチをする。
「お父さん、やっとヨーロッパまで来たよ。スペインの空に日の丸揚げるから見ててくれ。よく見えるように一番高い所に揚げるから」
目を閉じて、天国にいるであろう父親に話しかけた。それは自分への語りかけでもあった。
予選三番手の優は、フロントロー、つまり一番前の列からのスタートだ。スタートには自信があった。自分の前には誰もいない。
エンジンを停止した状態からバイクを押して始動させるスタート方式では、押し掛けもレースを左右する重要なテクニックだ。
(今、自分は世界の一番前にいるんだ。125のすべてのライダーが僕を追いかけてくる。ファンもマスコミも注目している。みっともない走りは出来ない。だけど僕たちはいつも挑戦者だ。全力で走るだけだ)
押し潰されそうなプレッシャーを振り払い、集中しようとした。しかし必要以上に神経が昂ぶり、返って雑念が溢れてくる。
軽く体を動かしただけなのに、べとべとした汗が浮かんでくる。
優は汗ばんだ下着を脱ぎ捨て、全裸になった。もう一度頭の中を空にしようと努力するが、外から聞こえる2ストローク500ccの排気音が彼の神経を苛立たせた。真新しい下着を身に付け、吊してあった皮つなぎを着込んだ。ブーツを履き終えるとミネラルウォーターのペットボトルを冷蔵庫から取り出した。キャップを開け、一気に飲み干した。
「挑戦者は全力で走るだけだ。全力で走るしかないんだ」
そう呟くと胸のファスナーを引き上げた。頭の中は無とは程遠いが迷いはない。
「行くぞーっ!」
大声で叫んでモーターホームの扉を開けた。
スペインの眩しい太陽の光とGPマシンの凄まじい排気音、パドックの喧騒と観客の熱気が一気に優を包み込んだ。これから本当のグランプリが始まる。
フォーメンションラップを終えて、ライダー達がメインストレートに戻って来た。
優は一列目インから三台目のグリッドについた。
ギアをセカンドに入れ、エンジンを切る。
バイクを押してピストンが混合気を圧縮するのを感じる。
自分の身体の一部であるかのように、エンジンの内部、ギアの歯車のひとつまで感じられる。ピストンが一番上まで来たところでクラッチを握り締め、スターティンググリッドのラインぎりぎりにフロントタイヤを合わせた。
ピットウォール越しに愛美がカメラを構えて、盛んにシャッターをきっていた。隣にはエリカと浩もいた。
優にはそんな周りの状況など、まったく目に入っていなかい。彼の視界に入っているのは、スタートシグナルと自分の前にまっすぐ1コーナーへと伸びているラインだけだ。もちろんそんなラインなど実在せず、優にだけしか見えない。そのラインは誰にも邪魔されず、先頭で第1コーナーへ入っていける確信がある。根拠はない。だが思い込みとも違う。グリッドに着いた瞬間から明確なイメージが浮かんでいた。不思議な感覚だ。観客の騒ぎも聞こえない。正確には視覚も聴覚も走る以外のものは意識に入らない。
優には右足にハンディがある。押しかけで何歩も走る事が出来ない。苦心の末、両脚で路面を蹴り、一歩でエンジンに火を入れるスタイルを完成させた。上手くいけば従来の方法と変わらないか、むしろ早くなったほどだ。だがミスすれば、挽回出来ないほど後方に置いてかれる。だが今日はまったく失敗する気がしない。失敗するという意識すら上らぬほど、研ぎ澄まされた神経はこれから為すべき事のみに集中されていた。
縦に並んだ赤いシグナルが上から一つずつ消えていく。そしてグリーンのランプが灯った!
優は腕でハンドルを押し出しながらブレーキレバーを離すと同時に両脚でアスファルトを蹴った。沈み込んでいたサスペンションが伸びる。そのままマシンに飛び乗り、シートに体重が架かる瞬間クラッチを繋ぐ。上死点にあったピストンはスポッと圧縮を抜き、クランクに勢いをつける。新たな混合気を吸い込みながら、ピストンは再び上がって来て、頂点に達しようとした時、スパークプラグから飛んだ火花が一気にガソリンを含んだ混合気に燃え移った。
観客のボルテージは一気に上がる。小排気量特有のカン高い排気音が次々にあがる。真っ先に白煙を噴いて、他のライダーがまだバイクに跨っていない内に飛び出したのが、優だった。
1コーナーに向かうラインを、ほとんど下しか見えないほど頭を下げてトレースした。コーナー手前50mで頭を僅かに上げてコーナーに備えた。誰もいなかった。スタート直後でスピードはマックスに達していないからノーブレーキでマシンをバイクを寝かし込んでいく。突然外側から真横に並んで来るライダーに気づいた。恐れを知らない地元スペインの少年、パウロ・フェルナンデスであった。
優のスタートは完璧だった。
その後の加速もほとんどカウルに伏せたまま、ギリギリまで加速し続けた。
たとえ多少のエンジンパワーやウエイトハンディの差があったとしても、他車を置き去りにするロケットスタートだった、はず。
グリッド2列目外側から、同じように完璧なスタートを成功させたライダーがいた事に、1コーナーで初めて気づいた。
2台はほぼ同じ速度であったが、外側から大きな弧を描いて進入してきたパウロの方が余裕がある。並んだままパウロはバンクを浅く起こし、アクセルを大きく開け始める。
優も遅れまいとアクセルを開けていく。外側のパウロの方へ寄っていくが、どちらも動じない。
それでもアウトのゼブラいっぱいまで達した時には、パウロが前に出ていた。彼が少しでも加速を鈍らせていたら、優は行き場がなくなっていただろう。
小排気量車の場合、一度アクセルを戻すと再び加速するのに時間を要す。一度減速すれば、取り戻すのに幾つものコーナーが犠牲になってしまう。競争心を剥き出しに競り合いながらも、まるで息のあったペアのように、シンクロした動き。レベルの低いレースでは絶えずマージンを見て走る事になるから、こんなギリギリの走りは出来ない。相手の実力があってこそ、全力で走れる。
優は愉しかった。
(あのスタートは、今までで最高だった。浩だって着いてこれないよ。なのに、同じクラスで、同じレースで、同時に完璧なスタート決める奴がいるなんて。しかもあまり知らない奴だ。根性も本物だよ、コイツ。やっぱり世界は最高だよ)
優は鈴鹿で2年連続優勝して、世界を甘く見ていた訳ではないが、実力では負けない手応えを掴んでいた。浩ほど自信家ではないが、客観的に診てもトップクラスである事は間違いない。ホームとはいえ、自惚れで2回も勝てるほど甘くない。
世界には、とんでもない強豪がいる。彼自身も含めて、才能溢れるライダーがひしめいている。
優はパウロの背中を追い、抜けるポイントを探った。駆け引きは考えてない。とにかく全力で行くだけだ。レース前に決めた通り全力で走った。
ごちゃごちゃやっていれば、百戦錬磨の強者集団に追いつかれてしまう。混戦になると面倒だ。若いパウロも同じ事を考えていたのだろう。ブロックラインはとらず、レコードラインのみを走る。当然隙が生まれ、優の方が速い区間は楽に前に出る事が出来た。優もまた、速く走る事だけに集中した。
協定を結んだ訳ではないが、結果として二人のペースはセカンドグループを大きく引き離していた。
だが、さすがにレース終盤になると全力で走るだけではいかなくなってきた。
ストレートのコントロールライン付近ではロリスの方が速い。どこかで仕掛けて突き放さなければ勝てない。パウロも警戒し始めた。