第19話 退避配信
第3試験区画で白線を引いた時と同じように、今度は会場図の上で人を退避させる道順を決める。
その先にある第2観客通路の石畳の溝に、細い魔素汚染の跡が残っていた。
第3試験区画の搬出扉前ほど濃くはなく、黒い手にも見えず、素材を持ち上げるほどの力もない。
でも、同じ向きだった。
石畳の溝の底に、会場奥から入口側へ戻るような魔素汚染の跡が薄く残っている。
「第2観客通路、使えません」
私が言うと、会場が小さく揺れた。
未報告ゲートは止めた。ハルトさんの白線で、搬出台車も深層素材も証拠も守った。
だからこそ、会場側へこれ以上魔素汚染を広げる前に止める。
『第2観客通路を閉鎖候補に入れます』
マシロさんの声が、会場に響き、配信にも流れた。
大型スクリーンに深層フェスの会場図が開く。
第1観客通路、第2観客通路、展示ブース区画、物販エリア、配信者控室、第3試験区画。
さっきまで「どこが見やすいか」「どこが映えるか」で選ばれていた通路が、今は全部、別の基準で見られていた。
石畳の溝と、魔素汚染の跡の向きだ。
『第2観客通路、来場者約180名。物販エリア側に120名。配信者控室周辺に関係者46名』
マシロさんが数字を重ねる。
数になると、急に清掃バッグの重さが肩に戻った。
1人なら足元を見ればいい。
10人なら声をかければいい。
でも数百人になると、足元を見る人、声を渡す人、白線を守る人が別々に必要になる。
誰か1人が走れば白線は踏まれ、誰か1人が「出口」と叫べば、別の誰かの靴が魔素汚染の跡を踏む。
『事故調査課、夏目』
夏目主任の声が、ざわめきを押さえた。
『深層フェス全域を一時退避対象とする。命令系統は事故調査課に一本化。三倉ミオ、全体退避導線の設計を依頼する』
依頼、という言葉で、白テープのロールを持つ指に力が入った。
コメント欄には、まだ別の不安が流れている。
《人まだ残ってる?》
《第2通路映して》
《運営どこ》
《フェスは?》
『コメント欄は、こちらで拾います』
マシロさんの声が入った。
コメント欄まで拾えば、最初の指示が出せなくなる。
だから、私は画面を見ない。
今は、流れてくる声を拾う時間ではない。
「まず、人を止めます」
『止める? 避難させるんじゃなくて?』
レオさんが聞いた。
声は近い。第3試験区画の入口側で、まだカメラを下げている。
「うかつに避難させると、第2観客通路に人が集まります」
「その場所へ人の列が入ると、足を滑らせて転倒が連鎖します」
『全員、聞け』
レオさんがすぐに中継へ切り替えた。
『走るな。出口へ行くな。ミオが退避ルートを決めるまで、その場で止まれ。足元を見るんだ』
いつもの煽る声ではなく、短く硬い、止めるための声だった。
コメント欄の流れが変わる。
《今走るな》
《え、出口じゃないの》
《第2通路だめなの?》
《スタッフの誘導見て》
《押すなって》
《顔いらん、床映して》
顔を映せ、泣いている人を映せ、という文字は、ほとんど流れなくなっていた。
画面を埋めているのは、足元と列の話だった。
「マシロさん、会場図に石畳の溝の向きを重ねてください。来場者密度は色で」
『表示します』
「トウマさん、各配信者の映像は切らないでください。ただし顔ではなく足元を映すよう呼びかけを」
『法的保全と安全誘導を分けます』
『原本映像は保存、誘導用には足元だけを切り出して公式画面へ投影します』
トウマさんの言葉は、いつも少し冷たい。
でも、その冷たさがありがたい。
後から「誘導のせいで混乱した」と言わせないための布石を、もう打っている。
「リコさん、第2観客通路の入口を照らせますか。人ではなく石畳の溝です」
『行ける。白線の外からでいい?』
「はい。中へ入らないでください。石畳の溝の魔素汚染の跡が入口側へ続いているかだけ見たいです」
『了解』
リコさんのライトが、会場図の端で動いた。
配信者用の強いライトで照らすのではなく、石畳の溝に残った細い跡を読み取れる角度。
第3試験区画で覚えた光だった。
『第2観客通路入口、魔素汚染の跡あり。濃くない。でも、こっちへ戻ってる』
「その通路は退避に使いません」
『閉鎖表示を出します』
マシロさんが会場図の第2観客通路を赤く塗った。
赤は危険を示す。けれど、会場の何人かが、その赤い通路へスマホを向け始めた。
「赤だけだと見に行く人が出ます。灰色にしてください。『使用停止』だけ」
『変更します』
第2観客通路が、目立たない灰色に沈んだ。
行きたいと思わせない色。来場者の視線が、ようやく出口側へ戻る。
「第1観客通路は?」
『石畳の溝は出口方向へ続いています。ただし途中で展示ブース区画の溝と交差』
「交差点で詰まります」
私は会場図を見ながら、石畳の溝と搬出導線を思い出す。
説明会へ入った時、展示ブースの前で靴裏に細かいざらつきがあった。
人気ブースの前だから人が多いだけだと思っていた。
でも、靴裏に残ったざらつきは、人の列が止まった場所で灰色の魔素汚染が広がった跡だった。
あそこは石畳の溝が浅く、大勢がそこへ入れば、靴ごと横へ滑る。
「展示ブース前を、直進させないでください。2列に分けます」
『2列?』
「第1観客通路を使う人は、壁側1列。物販エリアの人は、ブース裏のスタッフ通路へ。合流させない」
『スタッフ通路は一般来場者の通行禁止です』
会場運営の誰かが上ずった声で言い、私は石畳の溝から目を上げた。
「今は退避です。通行禁止かどうかではなく、いちばん安全に使える通路を選びます」
『許可する』
夏目主任が即答した。
『深層フェス運営規定より、事故調査課の退避命令を優先する』
『スタッフ通路を臨時退避導線として開放。責任は事故調査課が負う』
責任。
その言葉で、運営スタッフの肩が少し落ちた。
スタッフが警戒していたのは、扉を開けることだけではない。
後で責められる分まで、夏目主任が引き受けた。
「スタッフ通路の足元映像が欲しいです」
『公式カメラがありません』
マシロさんが言う。
『近い配信者、います。控室側の2名』
レオさんが拾った。
『聞こえてるか。控室側の配信者、足元カメラをスタッフ通路へ向けろ。顔はいらない。石畳だけだ』
『俺、行けます!』
『こっちも映す!』
知らない配信者の声が重なった。
少し前まで、誰が一番おいしい画を撮るかで競っていた人たちだ。
今は、足元の映像を渡してくれている。
画面にスタッフ通路が映る。
狭い。でも石畳の溝は浅く、魔素汚染の跡は出口側へ薄く続いている。
入口側へ戻っていないなら、止めずに通した方が詰まらない。
途中に段差が1つ。
段差の手前には、灰色の魔素汚染が薄く溜まっている。
「段差前で止めないでください。止まると詰まります。白テープで2歩手前に踏み替え線を入れます」
踏み替え線。歩幅を縮めるための、ただの白テープだ。
『誰が入れる』
夏目主任が聞く。
「会場スタッフさんで、清掃用白テープを持っている人」
『私、あります!』
若いスタッフの声。
物販エリア側だ。
「段差の2歩手前に短く横線を置いてください」
「テープは長くしないでください。足を止めるためじゃなく、歩幅を変えるためのテープです」
『2歩手前、短く横線。長く貼らない』
「貼ったらすぐ離れてください。そこに立たないで」
『はい』
画面の端で、短い白テープが石畳に置かれた。
段差で足を取られにくくなる。
「次、物販エリアの人を10人ずつ移動させます。一気に動かさないでください」
『10人ずつ、誰が数える』
「コメント欄に数えさせないでください。現場スタッフが手で区切ります。配信者は数を叫ばない。焦ります」
『了解。現場スタッフ、10人単位で区切れ。配信者は数字を煽るな』
レオさんが復唱する。
そのあと、少しだけ声を止めた。
『……俺が、こういうのを捨てた』
会場がまた静かになった。
カメラは石畳の溝と白テープを映している。
レオさんの顔は映っていない。
だから、声だけが残る。
『三倉ミオの清掃ログを、配信にいらないって捨てた』
『その捨てたログに、今、俺たちは救われてる』
『すまなかった。お前の仕事は、必要だった』
長い謝罪劇にする時間はない。
私も、それを受け取って泣く時間はない。
だから一度だけ、頷いた。
「今は、退避を続けます」
『ああ』
レオさんの声が、すぐに戻った。
『聞こえたな。謝罪配信じゃない。退避配信だ。足元を見ろ。止まれ。押すな。ミオの白線に従え』
コメント欄が一斉に流れた。
《謝った》
《今それどころじゃない》
《押すな》
《列ぐちゃぐちゃ》
《スタッフ聞いてる?》
誰かを責める言葉より、誰かを止める言葉が多い。
それが、いちばん助かった。
『物販エリア、第1群移動開始』
マシロさんが告げる。
会場図の小さな点が、スタッフ通路へゆっくり動く。
速すぎず、詰まらない。
段差の手前で1人の足が少し迷う。
白い踏み替え線を見て歩幅を縮め、段差を越える。
後ろの人もそれを見て、同じように越えた。
「大丈夫です。その速度のまま」
『第1群、通過』
『第2群、待機』
リコさんが第2観客通路入口を照らしたまま言う。
『こっち、まだ戻ってる。薄いけど、入口側へ魔素汚染の跡が伸びてる』
「第2観客通路に人を入れないでください。入口前の人は、壁沿いに1歩ずつ後退」
『壁沿いに1歩ずつ後退! 中央へ出るな!』
レオさんの声。
そのあと、別の配信者たちも、マイクを下げたまま短く繰り返す。
『壁沿い』
『1歩ずつ』
『中央へ出ない』
『走らないで』
近くのカメラから遠くのカメラへ、低い声が移っていく。
叫ぶと人が走るから、誰も煽らず、同じ短い言葉だけを渡した。
マシロさんの会場図で、第2観客通路前の赤い密集が少しずつ薄くなる。
『展示ブース区画、交差点で滞留』
「止めます。直進は禁止。壁側の人はそのまま第1観客通路。中央の人はブース裏へ回してください」
『ブース裏、足元映像あります』
マシロさんが切り替える。
石畳に、青く光る結晶片が細く並んで残っていた。
薄い。でも、第3試験区画で見た深層素材由来の青い結晶片と同じ色。
「そこ、踏まないで」
私は反射的に言った。
『どこですか』
「ブース裏、青い結晶片の列。左端です。そこを踏むと靴底に付きます。出口まで運ばれる」
『迂回できます』
「白テープで小さく三角を作ってください。踏ませない印です。囲わないで、三角の頂点を出口側へ」
『三角、頂点出口側』
スタッフが動く。
白テープが石畳に置かれる。
列の先頭が小さな三角を避け、後ろの人も同じ角度で曲がった。
青い結晶片の列は踏まれなかった。
『ブース裏、通過開始』
『物販第2群、段差通過』
『第1観客通路、出口側へ流れています』
会場図の退避完了率が増えていく。
数字を見た列の後ろが、1歩だけ前へ詰まった。
「マシロさん、退避完了率は出さないでください」
『出さない?』
「あと少し、が一番危ないです。全員が急ぎます」
『了解。完了率非表示。区画別に安全通過のみ表示します』
大型スクリーンから数字が消えた。
代わりに、通過済みの通路だけが静かに青くなる。
青。でも派手ではなく、そこはもう走らなくていい、と伝える色。
『ミオさん』
トウマさんの声が入った。
『関係者窓口に問い合わせが殺到しています』
『自治体、探索者ギルド、学校訓練区画、清掃会社。現時点で100件を超えました』
『同種の相談を、仮分類へまとめます』
『仮分類名は、安全経路受付(仮)。開封せず、送信元と時刻だけを束ねます』
「今は開かないでください」
『はい。内容は開かず、受信時刻と送信者だけ保存します。確認は退避後に回します』
「お願いします」
100件という数字で、指が一瞬止まりそうになる。けれど、私の個人端末で開けば、目の前の1人を見落とす。
今は、問い合わせを分担してもらえる。それだけで、画面へ目を戻せた。
『配信者控室側、最後尾です』
マシロさんが言った。
控室前に残っていた点が動く。
キャスター付きの機材ケースを引く人、怪我をしたスタッフを支える人、まだカメラを足元に向けている配信者。
その列がスタッフ通路へ入り、白い踏み替え線を越えた。
最後尾で、そのケースの車輪が石畳の溝にはまった。
ケースを引いていた人の体が斜めに傾き、靴先が第2観客通路へ向く。
「止まって。ケースを引かないで。持ち手を壁側へ倒してください」
持ち手が壁側へ倒れ、人の列が一拍止まる。
魔素汚染の跡の手前で、靴先が戻った。
『第3試験区画内、関係者退避は』
夏目主任が聞く。
『事故調査課、ヴァルト関係者、証拠保全班を除き完了』
マシロさんが答える。
「証拠保全班は動かさないでください。搬出扉前の白線を踏まない位置に固定で」
『了解』
リコさんのライトが、第2観客通路から戻ってきた。
『第2観客通路、誰も入ってない。魔素汚染の跡も、さっきより薄い』
「ありがとうございます。ライトを石畳から上げないで、そのまま入口を見ていてください」
『うん』
リコさんの返事は短かった。
でも、そこに迷いはなかった。
マシロさんの画面で、最後の点が出口側へ抜ける。
それでも、私は数秒待った。
足音が減り、ざわめきが遠くなり、石畳の溝に残った魔素汚染の跡がもう人の靴底に乱されない。
第2観客通路の魔素汚染の跡が、入口手前までで止まっている。
深層フェス全体の通路が、ようやく静かになった。
『一般来場者、配信者、運営スタッフ、全退避完了』
マシロさんが言った。
『負傷者、転倒者、現時点で報告なし』
誰も死なず、誰も踏み潰されず、灰色の魔素汚染を踏んで会場外へ運ぶ人も出なかった。
白テープの横で、誰かの靴先が一度だけ揺れた。
力が抜けたようなその動きまで、足元カメラの端に映った。
負傷者なし、と流れた瞬間、コメント欄が跳ねた。
でも、レオさんがすぐに言った。
『まだ拍手するな。足元カメラ、そのまま』
流れていたコメントが、途中で形を変える。
《まだ動くな》
《最後尾出た?》
《もう拍手していい?》
《拍手はあと》
《カメラ下げるな》
会場外へ出た人たちはすぐには騒がず、多くの人がまだ足元を見ていた。
配信者たちも、顔ではなく石畳の溝と白テープを映したままだった。
白い踏み替え線で歩幅を変えた。
小さな三角は踏まれなかった。
使わなかった第2観客通路の入口にも、誰も入らなかった。
勝った、と思うより先に、静かだ、と思った。
大事故が起きなかった場所は、こんなに静かになる。
私は白テープの端から指を離した。
肩の力を抜いてから、清掃バッグのベルトをずっと握りしめていたことに気づいた。
指が震えて、白テープの芯を落としそうになる。
リコさんが、横からそっと支えてくれた。
『ミオ、ここから先は1人で抱えちゃだめ』
小さな声だった。
『私、配信は続けるけど、ミオの会社、たまに手伝っていい?』
もう一度、同じくらい小さな声だった。
トウマさんも、すぐに続ける。
『依頼は、ミオさんの個人端末へ直接届かないようにします』
『受付で分けます。ミオさん1人に背負わせないように』
短いコメントが流れる。
《誰も死んでない》
《え、全員出た?》
《ミオたん座ってナリ》
《止まってよかった》
《窓口って何?》
その疑問に答えるように、会場スクリーンの隅へ小さな仮項目が出た。大きな看板ではなく、退避導線図の端に置かれた項目だった。
――安全経路受付(仮)
未開封 100件以上
送信元・受信時刻のみ保存
『三倉ミオ』
夏目主任の声が、会場に響いた。
『深層フェス全体退避導線、完了を確認した。事故調査課主任として、あなたの現場判断に感謝する』
「私は、石畳に残った危険を見ただけです」
『その危険を、誰も見ていなかった』
それ以上は、夏目主任も言わなかった。
言葉を飾る時間ではない。公開説明が、残っている。
退避した人たちへ。
配信を見ている人たちへ。
スポンサーへ、ヴァルト本社へ、ダンジョン庁へ。
この会場の通路で何が起きていたのか、説明しなければならない。
会場前方の公開説明用ステージに、関係者が並び始めた。
ヴァルト本社の担当者、スポンサー企業の代表、ダンジョン庁の夏目主任が並び、トウマさんはその横で保全済みログの一覧を確認している。
マシロさんの画面には、第3試験区画の白線と、フェス全体の退避導線が並んで表示されていた。
レオさんはまだカメラを足元に向け、リコさんのライトもまだ消えていない。
私は白テープの端を指先でつまんだ。
粘着面が、少しだけ指に貼りつく。
そのとき、夏目主任が私を見た。
『三倉。公開説明の場で、正式に話がある』
「話、ですか」
『未報告ゲート封鎖と深層フェス退避導線の実績を踏まえ、ダンジョン庁、スポンサー各社、そして複数の現場から要請が出ている』
ステージ上の視線が、こちらへ集まる。
逃げ道を探す癖で、私はステージ脇の白テープを見た。
さっきまで、その周りには靴音と誘導の声が絶えなかった。今は、誰にも踏まれずに残っている。
『三倉ミオ』
夏目主任が言った。
『あなたが白線で示した安全な退避ルートの相談を、個人端末ではなく正式な受付で受けるための話だ』
会場スクリーンの「安全経路受付(仮)」は、まだ仮のままだった。
未開封の件数と送信元だけが灰色の枠に積まれ、内容欄は閉じられている。
コメント欄が、一瞬止まった。
次の瞬間、コメント欄が埋まる。
《窓口?》
《誰が確認するの?》
《白線の人》
《個人端末に送るのは違うだろ》
私はまだ返事をせず、その白テープを見ていた。
会場スクリーンの端では、さっき貼った白テープの記録の横に、問い合わせ通知が積み上がっている。
ステージの光が、白テープの端まで届いた。




