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第1話 掃除係はいらない


 画面の中で、天井が割れた。

 罠が目を覚ました。


 東京都第7ダンジョン、通称・深草迷宮。

 

 そのダンジョンの第3層右ルートは、青い結晶灯の光に満ちた人気の撮影スポットだ。湿った石壁を這う光る苔が、青い光を黄緑色に散らし、足元の石畳までが水底のような静けさに沈んでいる。


 けれど今、その幻想的な静寂には影があった。光の届かない隠し部屋から、低い唸り声と機械の駆動音が聞こえてくる。暗がりの奥では、小型犬めいた獣像の半開きの顎と、金属の牙が、青い光を鈍く反射している。


 人気探索者パーティー「グリッター・ファング」の生配信は、悲鳴とコメントで埋まっている。


 《落ちる落ちる落ちる》

 《これ演出じゃないだろ》

 《誰か止めろ》

 《右ルートまだ清掃中じゃなかった?》

 《リコちゃん逃げて》


 本配信の同接は8万4千。

 派手な逆転劇を待つコメントと悲鳴が入り混じる中。


 いちばん早く危険に気づいたのは、もうこのパーティーにいない1人だった。


「……あ、あのっ!」


 息を一度だけ整える。

 配信画面上の異常を見逃さないように、視野を端まで広げる。


 パーティー通話用の端末を強く握りしめる。

 廊下の大型モニターの前で、私は接続先に向かって叫ぶ。


「ぜ、全員、動かないで!1歩も!今から、1人ずつ動く場所を伝えます」


 私には戦う力も、剣も、魔法も、配信映えする必殺技もない。

 けれど、私だけが見ていたものはある。

 獣像の牙に挟まった黄色い札の破片、張り詰めた鎖、石畳に残った黒い擦れ跡。


 その3つが重なった時、次にどこが危険なのかだけは分かった。


 実はつい先ほど、私は彼らに捨てられたばかりだ。

 それでも、さっきまで同じチームにいた人たちが危険にさらされているのを、見過ごすことはできなかった。

 そう、これまで数々の探索者がその餌食になってきた、あの凶悪な罠。


 スーパーギガデスチワワかみくだき地獄に。


「掃除係はいらない」と追い出された、その直後、

 なぜ私は彼らの命を預かることになったのか。


 話は、今朝のミクラ・クリアリングに戻る。


 ◇ ◇ ◇


 ミクラ・クリアリング、18時12分。


 民間ダンジョン清掃会社の小さな事務所は、休憩室と事務机が同じ床に並ぶ1フロアしかない。


 窓際の棚に、サボテンが1つ。いつものように、お辞儀をするような角度で傾いている。その下に、新しい白テープのロールと、業務端末の予備ケーブルと、半分めくれた現場日報が積まれていた。


 今日の現場は、東京都第7ダンジョン、通称・深草迷宮。人気探索者パーティー「グリッター・ファング」の登録者50万人記念配信に、清掃班として立ち会う。


 業務はそれだけ。立ち会って、罠の戻りを記録して、汚染を拭いて、白テープを貼って、次に通る人が安全に歩ける道を整える。

 私は灰色の清掃服の袖をまくり、棚から新しい白テープを取って清掃バッグの内ポケットへ入れた。


「……行ってきます」


 サボテンに、短く声をかける。

 これは誰もいない朝だけの、ささやかな癖だった。


 返事の代わりに、奥のドアからコーヒーの匂いが流れてきた。


「あんた、まだサボテンに挨拶してるの」


 姉だ。

 ……既に起きていたらしい。


 片手にコーヒーカップを持って、新聞を脇に抱えている。新聞は半分に折ってあって、一面の見出しは半分だけ折り目の下に隠れていた。


「だ、誰もいない時だけ……」


「私がいるじゃない」


 姉はそう言って、コーヒーカップを事務机の端に置く。


「今日はグリッター・ファングの撮影日?」


「うん。清掃班として立ち会い。3層右ルート」


「ふうん」


 姉は新聞のページを一度繰った。


「右ルート、また未清掃のままじゃないでしょうね」


「申告は昨日出した。17番扉の前。会社にも上げてある」


「OK」


 姉は折った新聞を逆側へめくり、ちらりと見る。


「グリッター・ファング、登録者50万って書いてあるよ。お祭りなんでしょ」


「お祭りなのは、向こうだけなので……」


「あんた、向こう向きじゃないものね」


 会話の合間に、姉は休憩室の棚から小さなアルミ箔の包みを取って、こちらに差し出した。

 中身は確かめなくても分かる。塩を多めにした、海苔のおにぎりが2つ。


「潰れないように、清掃バッグの底じゃなくて、上に入れてね」


「うん」


 受け取った包みを、清掃バッグの一番上、白テープのロールの隣に置く。バッグの口を閉じる前に、姉は事務机の端からコーヒーカップを取り直し、その縁越しに私の方を見て、それから少しだけ言葉を選んだ顔をした。


「ねえ、ミオ」


「うん」


「あの時の現場、夢に出なくなった?」


 私は白テープのロールの上で指を止めた。


「あの時の」と姉は言って、それ以上は聞かない。


「……まだ、たまに」


 私は短く答えて、バッグの口を閉じた。


「OK」


 姉はそれだけ言って、新聞の見出しの方へ視線を戻した。


 髪を後ろでまとめ直し、口に髪ゴムを咥える。清掃服の袖口が、手首で少しだぶついた。手袋を引き出して指の根元まで通すと、靴底の樹脂が床の埃に擦れる音がした。


「気をつけて」


 姉の声は、玄関に向かう私の背中に向けて、ひと言だけ届いた。


 私は、もう一度サボテンの方を見て、それから外へ出た。


 ◇ ◇ ◇


 深草迷宮、地下1階。18時30分。


 配信者用控室は、地上のミクラ・クリアリングよりも明るくて、もっと忙しい。蛍光灯の光と、配信用の白いLED照明と、機材ケースの天面で点滅する待機ランプが、廊下に並んだ機材ケースを順番に照らしていた。


 控室の前に着くと、私は廊下の床に短い白テープを1本、貼り直した。昨日、配信スタッフの台車がここを擦って、テープを剥がしていった位置だ。線が消えると、急いで通るスタッフが、置いてある清掃道具を蹴ってしまう。


「お疲れさま、ミオさん」


 声がした。


 控室から出てきたのは、グリッター・ファングの女性アタッカー、藤堂リコさん。配信では「リコちゃん」と呼ばれている。


 リコさんは私の手元の白テープのロールを一度だけ見て、それからまた目線を上げた。


「うん。今日もよろしく」


 すぐ後ろから、もう1人。


 久我アキトさん。盾役。重装備の革帯は、まだ片方が留まっていない。彼は私の顔を見ず、廊下の床に貼った白テープの位置を確認すると、踏まないように足を1歩だけ後ろに引いた。


 控室の扉の向こうから、レオとハヤテさんが談笑する声が漏れている。配信開始まで、あと30分。


 私は清掃バッグを肩から下ろさず、控室の扉を押した。


 ◇ ◇ ◇


『登録者50万人記念、未公開ルート突入!』


 控室の壁モニターは、待機画面を派手に動かしていた。


 金色のロゴが回転し、赤いカウントダウンが秒を刻み、画面の下半分にスポンサー名が右から左へ流れていく。控室に並んだスポンサー小物——ロゴ入りボトル、装飾鎖、銀のラインが入った替えの肩当て——も、その光を受けて、撮影前のショールームみたいに見えた。


 その明るさの下で、私の灰色の清掃服だけがいちばん古びて見えた。


 テーブルの向かいに座っているのは、グリッター・ファングのリーダー。黒瀬レオ。配信名はレオ。


 銀のラインが入った防具がいちばん映える角度に椅子を引き、まだ配信は始まっていないのに、画面用の笑顔がもう作ってある。レオの隣ではハヤテさんがメインカメラのレンズを丁寧に拭き、リコさんは膝の上で手袋を握り直していた。アキトさんは壁際に立ったまま、視線だけをルート表の方へ落としていた。


「さて、あらためてだけど。ミオ。今日で契約、切らせてもらうから」


 レオは、モニターの待機画面と同じ笑顔でそう言った。


 モニターの向こうの視聴者に告げるのと同じ温度で、あっさりと。


「……え?」


 返事が遅れた。


 契約を切る、という言葉だけが、少し遅れて頭の中で形になる。


「クビってこと、ですか」


 自分で言ってから、端末を握る指に力が入った。


 途端に視界が狭くなる。


 笑顔のままのレオ。


 カメラの上、まだ未点灯の赤いランプ。


 壁モニターの待機画面。待機人数の数字が、また1つ増えた。


 カメラの赤いランプはまだ消えているのに、レンズの黒い丸がこちらを向いていて、その奥にもう視聴者がいるみたいだった。


 息が、浅くなる。


 大勢の前で何かを言おうとすると、いつもこうだ。声の出し方だけが分からなくなる。誰にも聞かれていない控室の中ですら、レンズが1つこちらを向いているだけで、肩が縮まる。


「……え、えっと。あの……」


 駄目だ。


 でも、今日の現場の注意だけは、契約の話より先に止めなければいけなかった。


「あ、あの。契約の話の前に、今日の3層、右ルートはやめたほうがいいです」


 私はレオの前に置かれたルート表を押さえた。


 指先は少し震えていたけれど、赤丸をつけた場所だけは隠さない。


 3層右ルート、17番扉。


 昨日、17番扉の前に立てた黄色い清掃中の札は、戻った時には獣像の歯に噛み裂かれていた。


「またそれ?」


 ハヤテさんがカメラを肩に担いだまま笑った。


「ミオさんさあ、もうちょっと配信のことも考えようよ。昨日から告知してるんだよ。『登録者50万人記念、未公開ルート突入』って。今、配信待機が8千人もいるんだよ?未公開タグで待機がさらに伸びてるし、スポンサー案件も4つ走ってる。未公開って言えば待機人数は増えるけど、未清掃って言ったら配信そのものが始められないでしょ」


 ハヤテさんの口からは、いつも数字が出てくる。いつもそうだ。リコさんが装備を整え、アキトさんが体重移動を確認している間、彼はずっと配信ダッシュボードの方を見ている。


 レオは、ハヤテさんの言葉を遮らなかった。

 数字の話はハヤテさんに任せる、というのがレオのいつものやり方だった。


「未公開は、まだ配信に出していないだけです。未清掃は、安全確認が終わっていない区画です。危険なんです」


 声が、いつもより少しだけ通った。


「未清掃なら、本来は立ち入りを止める状態です。そこへ入ったら、宣伝じゃなくて管理違反になります」


 ハヤテさんは肩をすくめて、メインカメラの三脚を片手で立ち上げた。

 リコさんの手袋を握る指の関節が、白く浮いた。アキトさんは何も言わない。視線だけが、ルート表の赤丸へ落ちている。


 レオは私の警告メモを2本指でつまみ上げた。


 赤丸、矢印、スーパーギガデスチワワかみくだき地獄の攻撃ライン。私が夜の2時まで残って書いたものだ。


「三倉ミオさん」


 急にフルネームで呼ばれて、背中が強張った。

 『三倉』は、私の姓だ。ミクラ・クリアリングの『ミクラ』と、同じ音になる。


 レオがこう呼ぶ時は、相手を仲間ではなく、契約相手として扱う時だ。


「君、探索者ランクDだよね」


「清掃資格は2種です」


「戦えないよね」


「……はい。でも、清掃員として、安全の確保は——」


「そこなんだよ」


 レオは笑顔を崩さなかった。


 けれど、視線は私ではなく、壁モニターの待機人数を見ていた。


「君の仕事が大事なのは分かる。滑落防止も避難経路も必要だ。でも今日は50万人記念で、スポンサーも入ってる。スタッフも視聴者も、危険な未公開ルートに踏み込む絵を待ってる。そこで掃除係が横から『危ないからやめましょう』って言うシーンを、出せると思う?」


「そ、それは……」


「それに君、配信に映ったらもう使い物にならないだろ」


 声は最後まで穏やかだった。


 穏やかなぶん、もうレオの中では確定しているのだと、はっきり分かった。


 リコさんが、手袋を握る指をさらに強くした。視線はルート表に落ちたままで、レオの方を見ない。

 それでも口は開かない。リコさんが口を開けば、グリッター・ファングの中でいちばん早く立場を失うのは彼女だ。


 アキトさんは、出入口の白テープのほんの数センチ手前で、もう一度だけ足を引いた。靴の先が、紙の縁ぎりぎりまで近づき、それから離れた。彼の動きを見ていたのは、たぶん私だけだった。


「も、盛り上がらなくても、生きて帰れます」


「生きて帰るのは前提。その上で、見てもらえるものにしないと次がない」


 レオの指が、私の書いたメモを挟み込む。


「グリッター・ファングは、今日からもう1段上に行く。必要なのは、強い絵を作れるメンバーだ。心配性の裏方じゃない」


 紙が、くしゃりと潰れた。


 潰された紙から目を背けるように、机の隅の清掃ログ端末を手に取る。ケースの角が、指の腹に食い込む。


「契約終了なら、今日の清掃責任は不在になります」


「そうだね」


「なら、管理者として未清掃申告を出してください。清掃員が外れた区画へ探索者が入る時は、配信前に『未清掃のまま入る』と申告する決まりです」


「それは出せない」


 レオは即答した。


「出した瞬間、配信許可が保留になる。17番扉は確認が終わるまで閉鎖。告知も案件も飛ぶ。分かるだろ、ミオ。安全確認はあとで入れる。今日は記念配信なんだ」


「でも、事故が起きる危険性が——」


「起こさない。起きても、俺たちなら立て直せる」


 レオはスポンサーのボトルを取り、ラベルがカメラに向くように置き直した。


 悪いことをしている顔ではない。


 配信前に必要な準備を、ひとつ済ませたというだけ。


「……分かりました。清掃ログと警告メモは、会社とダンジョン庁に提出します。管理者から申告が出ないなら、清掃員からの未清掃報告として出します」


「好きにすれば。どうせ誰も見ないよ、掃除の記録なんて」


 誰も見なくても、記録は残る。


 そこだけは私の、清掃員の仕事だった。


 ハヤテさんが扉を開けた。廊下の向こうから、配信スタッフの明るい声が入ってくる。


「グリッターさん、5分前です!」


「はいはい。行くよ、リコ」


 レオが立ち上がる。


 ハヤテさんはメインカメラを抱え、配信スタッフに向かって何か数字を返しながら出ていった。


 アキトさんは、私の貼った白テープの上を踏まないように、そっと避けていった。


 最後に出ていったリコさんは、一度だけ私を見た。


 ごめん、と唇が動いたように見えた。

 彼女は出ようとして、出口の手前で半歩、足を止めかけた。ルート表の方を振り返りそうになり、結局振り返らず、ハヤテさんに肩を押されるようにして扉の向こうへ消えた。


 控室には、私と、清掃バッグと、丸められた警告メモだけが残った。


 掃除係はいらない。


 言われ慣れているはずなのに、丸められた警告メモを見るたび、その言葉が耳の奥に残り続けた。


 ◇ ◇ ◇


 控室の扉を閉めて、廊下のベンチへ歩いた。


 ベンチの脇に清掃バッグを下ろし、業務端末を取り出す。


 契約終了報告。清掃員からの未清掃報告。警告メモの写真。17番扉。右ルート。スーパーギガデスチワワかみくだき地獄。順番に添付して、送信ボタンを押すと、受付番号が表示された。


 これで少なくとも、記録は残る。


 次に、個人端末の方を取り出す。短縮ダイヤルの一番上は、姉だ。前職を辞めた日からずっと、一番上にある。


 通話マークを押すと、2回鳴る前に出た。


「契約、終わった」


 私は、口に出した第一声でそう言った。


 大勢の前ではどもる声が、姉の前ではすんなり出てくる。


「ふーん」


 姉が短く息を漏らした。


「で、現場どうするの」


「未清掃申告、もう出した。会社にも上げてある。ダンジョン庁にも出した」


 姉が一拍だけ間を置いた。


「OK、後続呼ぶ」


 通話の向こうで、姉がコーヒーを置く音がした。


「あんた、また同じ顔してたよ」


 私は廊下のベンチの端で、業務端末の上に置いていた指を、少しだけ離した。


「……そう?」


「契約、終わったって電話してくる時のあんた、声が沈んでる。前の時もそうだった」


 前の時、と姉は言う。前職を辞めた日のことだ。


 私は答えなかった。


「現場の手配は私がやる。あんたは、配信、見ててな」


「うん」


「気をつけて」


 通話が切れた。


 切れた直後、廊下の壁に背中を預けた。息を一度長く吐く。

 ずっと押し込めていた息が、姉のひと言のあとでようやくほどけた。


 今日はもう、私の現場じゃない。


 そう思いたかった。


 でも、業務端末の画面の片隅では、グリッター・ファングの配信開始カウントダウンが、もう30秒を切っていた。


 ◇ ◇ ◇


『昨日の告知見てくれた人、ありがとー!今日は例の右ルート、なんと未公開ルートに初挑戦します!』


 廊下の大型モニターから、レオの声、派手なBGM、流れるコメント。


 《きたああああ》

 《右ルート!?》

 《危険って噂なかった?》

 《グリファンなら余裕》

 《リコちゃんかわいい》


 画面の中で、彼らはもう17番扉の前にいた。


 扉の向こうには、青い結晶灯の回廊が広がっている。湿った石壁を、光る苔が帯のように這う。カメラ越しには何もかもが幻想的だった。


 けれど、私は足を止めた。


 配信用の照明が、壁に並ぶ獣像を横から照らしている。


 一番手前の獣像、その歯の間に、黄色い清掃中の札の破片が、まだ挟まったままになっていた。3層右ルートで、私が立てたままだったものだ。


 破片は、誰にも片付けられていない。


「……だめ」


 レオが笑いながら扉を開ける。


『お、雰囲気あるじゃん』


 ハヤテさんの声。


『レオ、足元』


 リコさんが小さく言った。


『大丈夫。ここ、カメラ映えするから一回止まる』


 レオのブーツが、壁から突き出した獣像の影に入った。


 モニターの中で、奥の獣像の鎖が、かすかに鳴った。


 コメント欄が一瞬遅れてざわついた。


 《今なんか音した?》

 《罠?》

 《演出?》

 《獣像、動いた?》


 演出じゃない。


 廊下の大型モニターの前から、足が離せなかった。腕だけが反射的に動く。


 清掃バッグの口を開け、業務端末を引き出す。緊急用のダンジョン庁救助申請は、接続待ちのまま動かない。

 救助が来るまで、最短でも数分。最初の事故が起こるまでは、おそらくその半分もない。


 業務端末を握る指の関節が、白く浮いた。


 画面の中の4人が、もうじき動かなくなる。それが、私には分かった。


 今から走っても、最初の一撃には間に合わない。コメントを打っても、4人が読む前に事故は起きる。


 私は慣れない手つきで業務端末をタップして、長く放置していたアカウントを呼び出した。


 新人研修のときに作らされたきり、登録者ゼロのまま閉じてあった「掃除係」のアカウント名が、画面の隅に表示された。


 その通話先の一覧には、グリッター・ファングのパーティー通話がまだ残っていた。機材確認用に開きっぱなしだったチャンネルなので、契約解除のあとも私は抜かれていない。通話で話せば、声は向こうの端末から流れ、本配信のマイクにも拾われる。


 次に、私が準備していた右ルートの清掃ログを開く。昨日の残留物確認で記録したデータと、いまの配信画面の位置を重ねる。


 業務用の魔素マーカーが、機材確認時のまま残っていた。これがあれば、全員の画面へ、私の引いた線を出せる。


 私は通話ボタンに指を置いた。


 いける、はず——。


 押せば、私の声が8千人以上に聞かれる。


 ボタンの上で、指が止まる。


 手のひらが、清掃服の前で止まる。手のひらの内側が、じっとりと汗で濡れている。


 配信なんてしたくない。


 見られたくなんてない。


 でも、いま画面の中で歩いているのは、さっきまで同じチームにいた人たちだ。

 リコさんの手袋を握る指。アキトさんが踏まなかった白テープ。ハヤテさんのカメラの首ストラップ。レオのスポンサーボトル。

 全員、もう一度この控室に帰ってこなくちゃいけない人たちだった。


 事故対応が終わったはずの現場で、記録の更新時刻だけが動き続けていた、あの日。


 あの時、間に合わなかった人がいた。だから今度は、せめて、間に合うだけ間に合いたい。


 息を、整える。


 私は通話ボタンを押し込んだ。


 接続中の表示が回り続ける。端末のフチが熱くなり、指先に汗がにじむ。


 最初に罠が作動するまで、27秒、26秒。


 ——早回しのように、ここまでの50分が私の中で並び直した。


 意識が現在に戻ってくる。


 ◇ ◇ ◇


「ぜ、全員、動かないで。1歩も。今から、1人ずつ動く場所を伝えます」


 グリッター・ファングの本配信に私の声が流れる。接続一覧に「掃除係」のアカウントが表示された。


 配信画面上では、ハヤテさんが眉をひそめる。


『なんか通話に声入ってる。ノイズ?』


「ハヤテさん、ミオです。リコさんの後ろ、上の獣像を映してください」


『ミオさん?』


 コメント欄が跳ねた。


 《誰?》

 《ダンジョン凸は禁止やぞ》

 《なんかきた》

 《おっ、放送事故か》

 《掃除係?》


 画面の向こうの人たちを意識して、端末を握る指が固まった。……で、でも今見るべきは、コメント欄じゃない。


『とりあえず映したけど?』


 配信画面に、青い光に満ちた幻想的なダンジョンが広がる。一見なんともない綺麗な景色だが、清掃員の目からすると違う。


 巧みにカモフラージュされた罠。


 リコさんの肩の後ろで、壁から突き出した獣像の顎が少し開き、暗闇の奥で金属の歯がのぞいていた。


「リコさん、3秒後。左足だけ後ろに。1歩」


『え、後ろ?』


『リコ、何して』


 リコさんは眉を寄せた。それでも、言われた通りに下がる。


 次の瞬間、獣像の顎が閉じた。


 さっきまで彼女の肩があった高さで、金属の歯が鳴った。


 一気に状況が伝わる。


 グリッター・ファングの本配信が悲鳴で埋まり、同接が跳ねた。


 《は?》

 《危な》

 《リコちゃん!》

 《ドッキリ?》


 爆速で流れるコメントで、肝心の画面が見えにくくなる。私はもう1段、ギアを上げて、画面越しに背景を観察する。


 天井の獣像が1体、ほんの少し揺れていた。首輪の鎖が、小さく鳴っている。


 レオの背後には、別の獣像の影が壁面に伸びている。逃げ道に見える場所ほど、罠が待っている。


「次、天井です。レオさん、剣を抜かないで。魔物じゃありません」


 震えは残っていた。けれど、言葉は詰まらなかった。


「アキトさん、盾を上げないで。体の前で寝かせて。ハヤテさん、カメラを足元に固定」


『掃除係が何を言ってる……?』


「い、今だけ、掃除係の言うことを聞いてくださいっ!」


 画面の奥で、天井から獣像が1体、落ちた。


 アキトさんの頭すれすれの高さで、金属の顎が閉じる。


 鎖に引かれて獣像が横へ振られて、レオの背後の高価なメインカメラを噛み砕いた。


 配信画面が一瞬、真っ白に飛んだ。


『ミオ!』


 ノイズの向こうで、レオの声が裏返る。


 さっきまで余裕の笑顔で私をクビにした、あのレオが。


『よし、掃除係!指示を出せ!』


 コメント欄が爆発した。


 《出してください?》

 《掃除係≠指示係》

 《ツンデレで草》


 私は業務端末を握り直し、画面の中の4人の足元を、指でなぞる。


 なぞったあとに、白い線が浮かんだ。全員の画面に映る、デジタル上の薄い光。魔素マーカーが、獣像の顎が届かない床を白くなぞった。


「そこだけ、顎が届きません」


 ダンジョンの安全を保障する、掃除係の白線セーフラインだ。


「全員、その白い線の内側だけを踏んでください」


 《なにこの白い線》

 《それ踏めばいいの?》

 《これは清掃予定位置を示す作業マーカーでしょうね。見たことがない使い方ですが、声で指示を出すより分かりやすいですね》

 《ベテラン解説きた》


 ひとまず急場は凌いだ。でも画面越しだけじゃ限界がある。現場に向かわないと。


 私は清掃バッグのベルトを締め直し、廊下を走る。


 グリッター・ファングのメインカメラは、獣像の顎に噛み砕かれていた。ハヤテさんが予備カメラを起動したらしく、画面は斜めに傾いている。


 斜めの画面には、半開きの獣像の顎と、4人の足元だけが映っている。一時的に安全地帯に入ったことで、だいぶ余裕を取り戻していた。


 ただし、この白い線は細い。


 線の外では獣像の影がまだ揺れている。


「リコさん、アキトさん、その線の内側で止まってください」


 2人の足が、白線の内側で止まる。


「ハヤテさん。カメラを持ったまましゃがまないで」


『は?映像が』


「映像より首です。立って」


『でも視聴者が』


 ハヤテさんの声に、いつもの軽さが戻りかけた。数字を、見栄えを気にするあの声だ。


 私は、少しだけ強く言った。


「立ってください。あなたが今しゃがむと、首が獣像の口の前に入ります」


 沈黙のあと、ハヤテさんが立ちあがると——


 画面の奥で、別の顎が閉じた。


 金属の顎が噛み合う音が、配信越しにも聞こえた。さっきまで予備カメラがあった高さだ。


 そう、この罠は可動式だ。

 安全地帯が常に一定とは限らない。動き続ける必要がある。


 《今のも?》

 《線の外やば》

 《これ偶然じゃない》

 《白線の人だ》

 《ハヤテ礼言え》


『……くそ』


 ハヤテさんが、かすれた声で言った。


『ミオさん、助かった』


 さっきまで「掃除係」と呼んでいたハヤテさんの声から、いつもの軽さが消えていた。指先に余計な力が入ったが、私はすぐ画面へ目を戻す。


 安全圏を示す白線が、リコさん、アキトさん、ハヤテさんの靴先を囲んで点滅した。罠側から本配信の画面右上へ、攻略条件が同時に表示されていた。


 ——攻略条件

 全員を安全圏へ退避

 安全圏表示 白線

 対象者 3/4


 4人のうちの、1人。


 レオだけが、まだ白線の外に残っている。


『ミオ、俺はどうすればいい』


 いつもの配信用の声。レオはまだ、配信者としての顔を保とうとしていた。


 でもコメント欄は容赦がない。


 《追い出した相手に聞いてて草》

 《レオ様がんばれー》

 《ライオンってより子猫だな》


 本配信の同接、8万4千。

 掃除係はいらない、と言った人が、画面の中で私の次の指示を待っていた。


 私は業務端末を強く握り直し、走る足を緩めない。控室の前を過ぎ、機材ケースの並んだ廊下を抜け、17番扉の方向を目指す。深呼吸を1つ。


 清掃バッグのベルトが肩に食い込み、業務端末を握る手のひらに汗が滲む。足の裏が床を蹴るたびに、息が肺の底まで届いて、また出ていく。走る理由は、もう自分の中でひとつに撚れていた。


「レオさん。まずはその剣を捨ててください」


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