第1話 掃除係はいらない
画面の中で、天井が割れた。
罠が目を覚ました。
東京都第七ダンジョン、通称・深草迷宮。第三層右回廊は、青い結晶灯の光に満ちた人気の撮影スポットだ。湿った石壁を這う光る苔が、青い光を黄緑色に散らし、足元の石畳までが水底のような静けさに沈んでいる。
けれど、その幻想的な静寂には影があった。光の届かない暗がりから、低い唸り声と機械の駆動音が聞こえていた。暗がりの奥では、小型犬めいた獣像の半開きの顎と、金属の歯が、青い光を鈍く反射している。
人気探索者パーティー「グリッター・ファング」の生配信は、悲鳴とコメントで埋まっている。
《落ちる落ちる落ちる》
《これ演出じゃないだろ》
《誰か止めろ》
《右回廊まだ清掃中じゃなかった?》
《リコちゃん逃げて》
本配信の同接は七万八千。派手な逆転劇を待つコメントと悲鳴が入り混じる中で、いちばん早く危険に気づいたのは、もうこのパーティーにいない一人だった。
廊下の大型モニターの前で、私は端末に向かって叫ぶ。
「ぜ、全員、動かないで。一歩も。今から、一人ずつ動く場所を伝えます」
端末を握る指先が、じん、としびれていた。私には戦う力も、剣も、魔法も、配信映えする必殺技もない。けれど、私だけが見ていたものはある。獣像の半開きの顎、張り詰めた鎖、石畳に残った黒い擦れ跡。
その三つが重なった時、次にどこが危険なのかだけは分かった。
数分前、彼らは私を捨てた。
それでも、さっきまで同じチームにいた人たちが危険にさらされているのを、見過ごすことはできなかった。
そう、これまで数々の探索者がその餌食になってきた、あの凶悪な罠。
スーパーギガデスチワワかみくだき地獄に。
「掃除係はいらない」と追い出された。
その直後、なぜ私は彼らの命を預かることになったのか。
話は、配信開始五分前に戻る。
◇ ◇ ◇
『登録者五十万人記念、未公開ルート突入!』
控室の壁モニターでは、開始前の待機画面が派手に動いていた。金色のロゴ、赤いカウントダウン、スポンサー名、視聴者の待機コメント。危険な探索というより、人気番組の特番みたいに明るい。
その明るさの下で、私は灰色の清掃服のまま、テーブルの端に立っていた。
向かいに座っているのは、グリッター・ファングのリーダー、黒瀬レオ。銀縁の防具がいちばん映える角度に椅子を引き、カメラの赤ランプが点く前から、画面用の笑顔を作っている。
レオの隣では、カメラ担当の井狩ハヤテが機材チェックをしていた。アタッカーの藤堂リコさんは膝の上で手袋を握り、盾役の久我アキトさんは、控室の出入口に貼ってある私の白テープを踏まないよう、少しだけ足をずらしている。
東京都第七ダンジョン、深草迷宮の地下一階。配信者用控室には機材ケース、替えの防具、スポンサーのロゴ入りボトルが並び、その端で私の清掃バッグだけが置き場所を失っていた。
「ミオ。今日で契約、切らせてもらうわ」
レオは、待機画面と同じ笑顔でそう言った。
「……え」
返事が遅れた。こういう場では、いつも言葉がすぐに詰まる。
清掃員の仕事は、戦闘のあとに始まる。
残った汚染を取り、滑る石畳へ白テープを貼り、罠が動きそうな場所を記録する。撤収路を確保しても、配信画面にはほとんど映らない。映ったところで、コメント欄が盛り上がる仕事でもない。
それでも、今日の右回廊だけは画面の外に置いておけなかった。
「あ、あの。契約の話の前に、今日の三層、右回廊はやめたほうがいいです」
私はレオの前に置かれたルート表を押さえた。指先は少し震えていたけれど、赤丸をつけた場所だけは隠さない。
三層右回廊、十七番扉。
昨日、十七番扉の前に立てた黄色い清掃中の札が、戻った時には割れていた。その破片が、壁の獣像の口に挟まっていた。
「またそれ?」
ハヤテがカメラを肩に担いだまま笑った。
「ミオさんさあ、もうちょっと配信のことも考えようよ。右回廊は昨日から告知してるんだよ。『登録者五十万人記念、未公開ルート突入』って。未公開って言えば視聴者は来るけど、未清掃って言ったら開幕から空気冷えるでしょ」
「み、未公開ではなく、未清掃です。清掃ログにも、スーパーギガデスチワワかみくだき地獄の攻撃ラインを記録しています」
「視聴者には同じだよ。まだ誰も見てないルートってこと」
「同じにしたら、事故報告書の一行目が変わります。『未公開ルートで盛り上げた』じゃなくて、『未清掃区画へ入った』になります」
声は細かったと思う。けれど、そこだけは引けなかった。
リコさんが小さく顔を上げる。
「ミオちゃんの言うこと、前も当たったし」
「リコ」
レオが名前を呼ぶと、リコさんは手袋を握り直して口を閉じた。
アキトさんだけが、足元の白テープを見て、ブーツの位置をもう一度ずらす。
「ミオさんの線、踏むと本当に怒られますからね。前に俺、靴底まで拭かれましたし」
「あ、あれは、汚れを引きずると次の人が滑るので……」
言い訳みたいに返すと、アキトさんは少しだけ肩をすくめた。助かる、とは言わない。でも、避けてくれただけで十分だった。
レオは私の警告メモを二本指でつまみ上げる。赤丸、矢印、スーパーギガデスチワワかみくだき地獄の攻撃ライン。私が夜の二時まで残って書いたものだ。
その赤丸の先に、数分後、リコさんの肩が入ることになる。
「三倉ミオ」
急にフルネームで呼ばれて、背中が強張った。レオがこう呼ぶ時は、相手を仲間ではなく、契約相手として扱う時だ。
「君、探索者ランクDだよね」
「清掃資格は二種です」
「戦えないよね」
「……はい。でも、踏んでいい場所と、踏んではいけない場所なら分かります」
「そこなんだよ」
レオは笑顔を崩さなかった。けれど、視線は私ではなく、壁モニターの待機人数を見ていた。
「君の仕事が大事なのは分かる。滑落防止も撤収路も必要だ。でも今日は五十万人記念で、スポンサーも入ってる。スタッフも視聴者も、危険な未公開ルートを待ってる。そこで掃除係が横から『危ないからやめましょう』って言う絵を、出せると思う?」
その言い方は、優しかった。優しいぶん、私の仕事を画面の外へ押し出す形がはっきりしていた。
「盛り上がらなくても、生きて帰れます」
「生きて帰るのは前提。その上で、見てもらえるものにしないと次がない」
レオの指がメモを折る。
「グリッター・ファングは、今日からもう一段上に行く。必要なのは、強い絵を作れるメンバーだ。裏方の心配性じゃない」
紙が、くしゃりと潰れた。
私は潰された紙を取り返さず、机の隅の清掃ログ端末を手に取った。ケースの角が、指の腹に食い込む。
「契約終了なら、今日の三層右回廊の清掃責任は私から外れます」
「そうだね」
「なら、配信前にダンジョン庁へ未清掃申告を出してください。清掃員が外れた区画へ探索者が入る時は、管理者が未清掃区画として申告する決まりです」
「それは出せない」
レオは即答した。
「申告を出したら右回廊は閉まる。告知も案件も飛ぶ。分かるだろ、ミオ。安全確認はあとで入れる。今日は絵を撮る日なんだ」
「でも、事故が起きます」
「起こさない。起きても、俺たちなら立て直せる」
リコさんの肩が小さく揺れた。
レオはスポンサーのボトルを取り、ラベルがカメラに向くように置き直した。悪いことをしている顔ではない。配信前の段取りを、ひとつ済ませた顔だった。
「……分かりました。清掃ログは会社とダンジョン庁に提出します。未清掃申告も、私の権限で出します」
「好きにすれば。どうせ誰も見ないよ、掃除の記録なんて」
誰も見なくても、記録は残る。そこだけは、私の仕事だった。
ハヤテが扉を開けた。廊下の向こうから、配信スタッフの明るい声が入ってくる。
「グリッターさん、五分前です!」
「はいはい。行くよ、リコ」
レオが立ち上がる。リコさんは一度だけ私を見た。ごめん、と唇が動いたように見えたが、そのまま扉の向こうへ消えた。
控室には、私と清掃バッグと、丸められた警告メモだけが残った。
掃除係はいらない。
言われ慣れているはずなのに、丸められた警告メモを見るたび、その言葉が耳の奥に残り続けた。
私はバッグを肩にかけ、端末を開く。契約終了報告。未清掃申告。十七番扉、右回廊、スーパーギガデスチワワかみくだき地獄の攻撃ライン。
送信すると、受付番号が表示された。これで少なくとも、記録は残る。
ただ、受付番号は封鎖命令ではない。管理者が確認し、配信現場へ止めに入るまで数分はかかる。
今日はもう、私の現場じゃない。
そう思うのに、控室のモニターを消せなかった。画面の中で、私が赤丸をつけた右回廊が、配信用の青い光を浴びている。
そのまま控室を出た時、廊下の大型モニターがグリッター・ファングの配信開始を告げた。
◇ ◇ ◇
『昨日の告知見てくれた人、ありがとー! 今日は例の右回廊、行きます!』
レオの声、派手なBGM、流れるコメント。
《きたああああ》
《右回廊!?》
《危険って噂なかった?》
《グリファンなら余裕》
《リコちゃんかわいい》
画面の中で、彼らはもう十七番扉の前にいた。
扉の向こうには、青い結晶灯の回廊が広がっている。湿った石壁を、光る苔が帯のように這う。カメラ越しには何もかもが幻想的だった。
けれど、私は足を止めた。
配信用の照明が、壁に並ぶ獣像を横から照らしている。一番手前の獣像、その歯の間に、黄色い札の破片が、まだ挟まっていた。
別の獣像の鎖が、画面の隅で石壁をこすっている。その音は、派手なBGMにまぎれていた。
「……だめ」
レオが笑いながら扉を開ける。
『お、雰囲気あるじゃん』
ハヤテの声。
『レオ、足元』
リコさんが小さく言った。
『大丈夫。ここ、カメラ映えするから一回止まる』
レオのブーツが、壁から突き出した獣像の影に入った。
モニターの中で、奥の獣像の鎖がかすかに鳴った。コメント欄が一瞬遅れてざわつく。
《今なんか音した?》
《罠?》
《演出?》
《獣像、動いた?》
演出じゃない。
廊下の大型モニターの前から、足が動かなかった。指だけが動く。清掃バッグの口を開け、業務端末を引き出す。
緊急用のダンジョン庁救助申請は、接続待ちのまま動かない。救助が来るまで、最短でも数分。最初に顎が閉じるまで、三十秒もない。
今から走っても間に合わない。コメント欄に打っても、四人が読む前に顎が閉じる。
長く放置していたアカウントを、業務端末で呼び出す。新人研修のときに作らされたきり、登録者ゼロのまま閉じてあった「掃除係」のアカウント名が、画面の隅に表示された。
通話先の一覧に、グリッター・ファングのパーティー通話がまだ残っていた。機材確認用に開きっぱなしだったチャンネルなので、契約解除のあとも私は抜かれていない。私が通話で話せば、声は向こうの端末から流れ、本配信のマイクにも拾われる。
業務用の安全表示を出す枠も、外されないまま残っている。
通話ボタンに指を置いた。押せば、私の声が七万八千人に聞かれる。ボタンの上で、指が一瞬止まった。
配信なんてしたくない。でも、今はそれしかなかった。
私は通話ボタンを押し込んだ。
接続中の表示が回り続ける。端末の縁が熱くなり、指先に汗がにじむ。最初に顎が閉じるまで、二十七秒。二十六秒。
「ぜ、全員、動かないで。一歩も。今から、一人ずつ動く場所を伝えます」
グリッター・ファングの本配信を開く。画面の隅で、ハヤテが眉をひそめる。
『なんか通話に声入ってる。ノイズ?』
「ハヤテさん、ミオです。リコさんの後ろ、上の獣像を映してください」
『ミオさん?』
コメント欄が跳ねた。
《誰?》
《ダンジョン凸は禁止やぞ》
《なんかきた》
《おっ、放送事故か》
《掃除係?》
カメラが揺れた。リコさんの肩の後ろで、壁から突き出した獣像の顎が少し開き、青い光の中に金属の歯がのぞいていた。
「リコさん、左足だけ後ろ。一歩。走らないで」
『え、後ろ?』
『リコ、何して』
リコさんの肩が跳ねた。それでも、言われた通りに下がる。
次の瞬間、獣像の顎が閉じた。
さっきまで彼女の肩があった高さで、金属の歯が鳴った。
グリッター・ファングの本配信が悲鳴で埋まり、同接が跳ねた。
《は?》
《危な》
《リコちゃん!》
《今の指示?》
《次も動く?》
私は画面越しに回廊を見る。天井の獣像が一体、ほんの少し揺れていた。首輪の鎖が、小さく鳴っている。レオの背後には、別の獣像の影が壁面に伸びていた。
逃げ道に見える場所ほど、罠が待っている。
「次、天井です。レオさん、剣を抜かないで。魔物じゃありません」
震えは残っていた。けれど、言葉は詰まらなかった。
「アキトさん、盾を上げないで。体の前で寝かせて。ハヤテさん、カメラを足元に固定」
本配信の画面の中で、レオが通話表示を見た。
顔色が変わった。
『ミオ……?』
「ミオです。今だけ、掃除係の言うことを聞いてください」
画面の奥で、天井から獣像が一体、落ちた。
アキトの頭すれすれの高さで、金属の顎が閉じる。鎖に引かれた獣像が横へ振られて、レオの背後の高価なメインカメラを噛み砕いた。配信画面が一瞬、真っ白に飛んだ。
『ミオ!』
ノイズの向こうで、レオの声が裏返る。さっきまで私の警告メモを丸めていた、あの声だ。
『指示を出せ! いや、出してください!』
コメント欄が爆発した。
《出してください?》
《さっきの掃除係》
《当ててる》
《プライド折れてて草》
私は業務端末を握り直し、画面の中の四人の足元を指でなぞる。
なぞったあとに、白い線が浮かんだ。
全員の画面に映る、デジタル状の薄い光。
「全員、その白い線の内側だけを踏んでください」
「ハヤテさん、線を映し続けて。レオさん、次の一歩まで、私の声を聞いてください」
《掃除係、今の線なに》
《白線の人?》
《それ踏めばいいの?》
《いや今は聞け、足元見ろ》
レオの声が、残っていたパーティー通話の向こうで震えていた。
通話は切れていない。私の声はまだ、グリッター・ファングの配信に乗っていた。
間に合わなくても、近づけばカメラの外の音や揺れを拾える。白テープも、固定スプレーも、手元にある。
私は清掃バッグのベルトを締め直し、廊下を走った。清掃バッグが腿に当たり、業務端末の画面が手の中で揺れる。
グリッター・ファングのメインカメラは、獣像の顎に噛み砕かれた。ハヤテが予備カメラを起動したらしく、画面は斜めに傾いている。
斜めの画面には、半開きの獣像の顎と、四人の足元だけが映っている。白い線は細い。けれど、鎖の届かない隙間をつなげば、折れた機材と獣像の影の間にも線を伸ばせる。
「全員、その場から動かないでください」
私は言った。
《いまどういう状況?》
《動くなって言ってる》
《画面ななめ》
《掃除係って誰?》
本配信の同接は、もう八万を超えていた。
見られている。知らない人たちの文字が、画面の端で滝みたいに流れている。それでも今だけは、数字を追わない。画面の石畳と壁の影を追う。
「リコさん。右足のつま先を、白線の内側へ十センチだけ。十センチです。大きく動かないで」
『わ、わかった』
リコさんの声は震えていたが、従ってくれた。
右足が動いた分だけ、リコさんの右肩が金属の歯の前からわずかに外れた。
直後、白線の外側で、壁から突き出した獣像の顎が閉じた。
さっきまで彼女の肩があった高さだ。
コメント欄が一斉に流れた。
《二回目》
《また当てた》
《十センチって言ったぞ》
《これ予知?》
《清掃員ってこんなことできるの?》
「予知じゃありません」
思わず答えていた。
本配信に声が乗ったまま話すなんて、研修以来だ。
「鎖の張り具合、顎が届く位置、影の戻り方。カメラライトの当たり方と、つま先の向きです。カメラが傾いていても、それくらいは見えます」
《それくらい???》
《それくらいのレベルじゃない》
《掃除係とは》
業務端末を握る指から、少しだけ力が抜けた。
現場の十七番扉まで、走ってあと三分。次の獣像が起動するまで二十秒。
ハヤテが予備カメラを低く構えようとしている。予備カメラの広角の端に、ハヤテの肩越しの壁が映っていた。そこにある獣像の口が、彼の首の高さで開いている。
「ハヤテさん。カメラを持ったまましゃがまないで」
『は? 映像が』
「映像より首です。立って」
『でも視聴者が』
ハヤテの声に、いつもの軽さが戻りかけた。数字を気にする声だ。
私は、少しだけ強く言った。
「立ってください。あなたが今しゃがむと、首が獣像の口の前に入ります」
沈黙のあと、予備カメラが揺れ、ハヤテが立った。
画面の奥で、別の顎が閉じた。
金属の顎が噛み合う音が、配信越しにも聞こえた。さっきまで予備カメラがあった高さだ。
《三回目》
《うわ首》
《これ偶然じゃない》
《白線の人だ》
《ハヤテ礼言え》
『……助かった』
ハヤテが、かすれた声で言った。
『ミオさん、助かった』
さっきまで「掃除係」と呼ばれていた私に、ハヤテが初めて「さん」をつけた。業務端末を握る指先に余計な力が入ったが、私はすぐ画面へ目を戻す。
レオだけが、まだ前へ出すぎている。
彼の頭上で、天井の獣像を吊る鎖がぴんと張っていた。剣を構えたままなら、腕と首が獣像の口の前に出る。
『ミオ、俺はどうすればいい』
声は低かった。レオはまだ、配信者としての顔を保とうとしていた。
でもコメント欄は容赦がない。
《さっき捨てた掃除係に聞いてる》
《追い出した相手に聞いてて草》
《いいから言うこと聞け》
《声拾えててよかったな》
本配信の同接、八万四千。
掃除係はいらない、と言った人が、画面の中で私の次の指示を待っていた。
「レオさん。剣を足元に置いてください」




