最高神のコンプライアンス崩壊と、宇宙を癒やす極上ヘッドスパ
「さあ、冷たい麦茶です。遠慮せずにどうぞ」
『深淵の森』のボロ小屋の縁側。
天界最高監査局のトップであり、宇宙を星ごと初期化する権限を持つ『秩序と監査の女神』は、麦わら帽子の青年・ジンから、ガラスのコップを差し出されていた。
庭では、大魔王ゼアノスや勇者レオ、そして元・暗殺者のルミナたちが、依然として地面に額を擦りつけたまま、ガタガタと震え続けている。
彼らにとって、今の光景は『宇宙の創造主に対して泥水を飲ませようとする、神をも恐れぬ大逆罪』に他ならなかった。
「……ッ。き、貴様、この私を誰だと……。このような下界の濁った水など、神である私が口にするはずが……」
ヴェリタスは、氷のような瞳でコップを睨みつけた。
だが、その視線とは裏腹に、彼女の神としての肉体は、長年の酷使によって限界の悲鳴を上げていた。
何万年もの間、無数の星々のバグを修正し、エラーログと睨み合い続けてきた彼女の精神は、極度の渇きを覚えていたのだ。
「いいからいいから。本社からわざわざ出張してきて、喉も渇いてるでしょう? 毒なんて入ってませんから」
ジンが、まるで近所の子供をあやすような声で促す。
その底知れぬ(無自覚な)包容力に、ヴェリタスの手が、無意識のうちにコップへと伸びてしまった。
(……一滴だけ。一滴だけ舐めて、ただの泥水だと証明し、この愚かな人間を宇宙ごと灰燼に帰してやりましょう)
ヴェリタスは、恐る恐るコップに口をつけ、冷たい麦茶を喉の奥へと流し込んだ。
「…………ッッッ!?」
その瞬間。ヴェリタスの十二枚の光の翼が、ビクゥッ! と大きく震えた。
『な、なんだこの液体はァァァッ!?』
ヴェリタスの脳内(中央演算処理装置)に、雷のような衝撃が走った。
ただの麦茶ではない。ジンの無意識の『魔力最適化』によって淹れられたその一杯は、大宇宙の根源的なエネルギーを極限まで濃縮し、なおかつ胃腸に優しくブレンドされた『至高の霊薬』へと変貌していたのだ。
『美味しいぃぃぃッ! 乾ききった私の魂のコアに、猛烈な勢いで潤いが浸透していくぅぅっ! なにこれ、天界の神水より美味しいんですけどォォォッ!』
「ご、ゴクッ……ゴクゴクゴクッ……! プハァッ……!!」
ヴェリタスは、女神としての矜持も忘れ、コップの麦茶を一気に飲み干してしまった。
そして、コテン、と首を傾げ、うっとりとした表情で「おかわり……」とコップを差し出したのである。
「ヒィィィィッ!? ヴェリタス様が、ジン様の麦茶の虜に……ッ!」
庭で土下座していたクラリスが、信じられないものを見る目で悲鳴を押し殺した。
▼▼▼
「はい、おかわり。美味しいでしょう? うちの畑で採れた麦を煎ってるんですよ」
「……ッ! し、しまった!」
二杯目の麦茶を注がれそうになり、ヴェリタスはハッと我に返った。
いけない。私は監査に来たのだ。この星の致命的なバグ(ジン)を消去しなければ、宇宙のコンプライアンスが崩壊してしまう。
「だ、騙されませんよ! このような小細工で私を買収しようとしても無駄です! 貴様の存在は宇宙のルール違反! 勇者と魔王が馴れ合っているなど、ストーリー構成の根本的なエラーなのです! ただちに初期化のプロトコルを……!」
ヴェリタスが再び立ち上がり、背中の光輪を輝かせようとした。
だが、ジンの【全言語翻訳(Lv.MAX)】スキルは、彼女の『システムとしての怒り』の裏側にある、切実すぎる『本音』を完全に翻訳してしまっていた。
『騙されないわよ! 本社(天界)のマニュアルでは、勇者と魔王は戦うって決まってるの! なのに貴方の支店(星)が勝手にルール変えるから、本社のエラーログが鳴り止まなくて、私が三日徹夜で対応する羽目になったんじゃない! 私の睡眠時間を返してよォォォッ!』
「…………」
ジンは、涙目になりながら(心の中で)激怒している女神を見て、深く、深く頷いた。
「……ヴェリタスさん。本当にお疲れ様です」
「えっ……?」
ジンのあまりにも優しい、すべてを包み込むような声に、ヴェリタスの言葉が詰まる。
「本社のマニュアル、厳しいですよね。でも、現場(下界)には現場のやり方があるんです。勇者くんも魔王(社長)さんも、みんなここで仲良くやってますから、エラーじゃないんですよ。……それより、三日も徹夜してるなんて、絶対に体に毒です。目の下にひどいクマができてますよ」
「な、なぜそれを……ッ!」
ヴェリタスは息を呑んだ。完璧な神衣で覆い隠しているはずの自分の『疲労』を、なぜこの人間は正確に見抜いているのか。
「立ちっぱなしだと疲れるでしょう。ほら、少し楽にしてください」
ジンは、立ち上がっていたヴェリタスの背後にふわりと回り込むと、彼女の肩に両手を乗せた。
「き、貴様! 神の体に気安く触れるなど……ッ!」
ヴェリタスが抵抗しようと、絶対的な防御を誇る『絶対神衣』のバリアを展開する。触れた者を原子レベルで分解する、神の盾だ。
だが、ジンの手は、そのバリアを「ちょっと硬い服だな」程度の感覚でスルーし、ヴェリタスの首の付け根、眼精疲労からくる『宇宙で最も硬い肩こり』のツボへと、スッと親指を押し込んだ。
「ひぃんッ!?」
ヴェリタスの口から、女神らしからぬ、ひしゃげた悲鳴が漏れた。
「やっぱり。側頭部から首にかけて、バッキバキですね。パソコン……じゃなくて、世界の監視モニターの見過ぎですよ。少し揉みほぐしますから、目を閉じてください」
「あ、アアァァッ……! ま、待ちなさい……ソコハ、システムの基幹部分……ッ! イジラレルト、初期化コードガ……アァァッ!!」
グッ、グギュッ。
ジンの指が、ヴェリタスの頭皮を包み込み、絶妙な力加減で円を描くようにマッサージを始める。
『極上ヘッドスパ』。
それは、かつて天界の監査官エリエルを数秒で陥落させた、ジンの持つ最強の物理的洗脳技であった。
『あひぃぃぃぃぃッッ!! なにこれ、なにこれェェェッ!! 何万年も溜まっていた星屑みたいな眼精疲労が、一気に溶けて宇宙の彼方に飛んでいくぅぅぅッ!! 脳髄が直接癒やされてるみたいだぁぁぁッ!!』
「どうですか? 力加減、痛くないですか?」
「はわぁぁぁ……っ……最高……デス……もっと、もっとヤッテェェェ……」
天界最高監査局のトップにして、宇宙の秩序を司る女神ヴェリタスは。
ボロ小屋の縁側で、だらしなく口を開け、目から歓喜の涙を流しながら、完全にスライムのように液状化してしまったのである。
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(…………本日の、三錠目)
庭の隅で、ルミナは完全に光を失った虚無の瞳で、胃薬を口に放り込んでいた。
「終わりました……。エルディア王国、魔界、帝国に続き……ついに、宇宙の創造主の右腕すらも、ジン様の『ヘッドスパ』の前に陥落しました……。ジン様は、物理的なマッサージで宇宙のシステムを書き換えてしまわれたのです……」
もはや、ルミナの胃壁は宇宙の危機よりも先に限界を迎えていた。
数十分後。
「ふぅ。こんなところですね。ヴェリタスさん、視界がクリアになったんじゃないですか?」
「ハッ……!?」
ジンの手が離れると、ヴェリタスはハッと我に返った。
信じられない。何万年も彼女を苦しめていた頭痛と肩こりが、完全に消滅している。羽のように体が軽く、世界が色鮮やかに見えた。
「ど、どうですか? 監査の書類、まだ書けそうですか?」
ジンが麦茶のおかわりを差し出しながら尋ねる。
ヴェリタスは、手元のシステム画面を震える手で確認した。
ジンという『バグ』を消去しに来たはずが、彼女自身の内部システムが、ジンのマッサージによって「この空間は宇宙で最も正常で、最も癒やされる特異点である」と完全に書き換えられてしまっていた。
「……ジン、殿」
ヴェリタスは、頬を真っ赤に染め、モジモジとしながら立ち上がった。
「こ、今回の監査は……『問題なし』として、本社に報告しておきます。勇者と魔王が仲良くしているのも、多様性……そう、宇宙の新しい多様性として、私が特例で認可しましょう!」
「おお、本当ですか! それはよかった。みんな、営業停止にならなくて済んだよ!」
ジンが振り返ると、ゼアノスやレオたちが「おおおおおっ!」と歓喜の涙を流して抱き合っていた。
「で、ですが……ッ!」
ヴェリタスが、顔を真っ赤にしたまま、ジンの服の袖をキュッと掴んだ。
「わ、私は監査局のトップです! 今後も、定期的にこの支店(ボロ小屋)のコンプライアンスが守られているか……そ、その、抜き打ちで『視察』に来なければなりませんからね! 決して、貴方のマッサージと麦茶が目当てというわけではありませんからッ!」
典型的なツンデレ(お局様バージョン)の台詞を吐き捨てると、ヴェリタスは光の翼をバサァッ! と広げた。
「また来ますからね! 次は、お茶菓子も用意しておくように!」
ドゴォォォォォォンッ!!
ヴェリタスは、来た時よりも遥かに凄まじい速度で天へと昇り、黄金の魔法陣と共に宇宙の彼方へと帰っていったのである。
「……帰っちゃった。本社の人って、忙しいんだなぁ」
ジンはのんきに手を振りながら、空を見上げた。
かくして。
宇宙を滅ぼすはずだった天界の最高監査は、ジンのヘッドスパによって完全に骨抜きにされ、ヴェリタスは『ボロ小屋に頻繁に癒やしを求めに来る、ツンデレの常連クレーマー』という新たなポジションに収まったのであった。
天界の神々すらも顧客に取り込んでしまった『お悩み相談所』の明日は、果たしてどこへ向かうのか。




