応接間の密談
「私、異世界から転生してきたんです」
僕は声を潜めてヨハンに告げた。いきなりトップシークレットをぶつけられた彼はしばらく固まっていたが、やがてその細い喉から、
「え?」
と声が漏れた。ヨハンは何かを言いたげに口をあうあうさせはじめたが、いくら待っても二の句が出てこない。
……うまく伝わらなかったらしい。
まあいきなり異世界とか転生とか言われても、10歳くらいの王子さまにはわからないよな。僕はテーブルの上に身を乗り出してもう一度ヨハンの耳に顔を近づけようとしたが、その首根っこを後ろからぐいと捕まれた。
振り返って見上げると、笑顔を浮かべながら青ざめているリディアさんがいた。その背後から数人の手練れの気配が近づいてくる。どうやら、お嬢様としての一線を越えた僕は自室にボッシュートされるらしい。
せめてお別れの挨拶を。ダメですよ。と目で会話していた僕たちに向かって、
「ニーナ嬢」
とイェルド氏のバリトンボイスが飛んできた。それと同時に、謡うような、唱えるような声がした。首をひねって振り返ると、ヨハンは自らの膝の上で眠るパーチに向かって、何かをささやいていた。
パーチのまぶたがゆっくりと開き、その黄色い瞳から金色の光が放たれた時、ヨハンとパーチの存在が消えた。
二人が目の前にいるのはわかる。けれど、音も匂いも、色も気配もしないのだ。彼らを見つめることができない僕は、ただただ戸惑っていた。背後のリディアさんも驚いたのか、襟首をつかんでいた手が離れる。
ヨハンらしき存在は、音もなく立ち上がると、僕に向かって近づいてきた。目の前に立ったそれは、しばらくまごまごと揺らいでから、ゆっくりと身をかがめた。左の手の甲に細い指が添えられたのと同時に、目と鼻の先に、ヨハンの整った顔が現れた。
「いきなり、すみません」
と、申し訳なさそうに彼は言った。
「こうしたほうが、良いと思いましたので」
彼の言葉に、僕は「はひぃ」とうなずいた。
いやはや、彼の兄貴もすごい魔法を使ってきたが、ヨハンも負けず劣らずである。というか、今の透明人間もどきも魔法なんだろうか。問いかけようとした僕を制するように、ヨハンは口を開いた。
「さきほどのはなし、ぼく以外の、誰にも伝えないでください」
……『さきほど』って、なんだっけ。僕は記憶をさかのぼってみる。『ニーナ嬢』とか『ボッシュート』とかを乗り越えた先に、『異世界転生』が姿を見せた。僕は「えっと……」と言って、ヨハンの翠色の瞳を覗き見た。
「信じて、くれるんです?」
「……理解はできませんが、納得はしました」
と、彼は年齢にそぐわない小難しいことを言ってから、こう続けた。
「あなたがこの世界の人間でないのなら、間違いなく、『リオン』が攫いに来ます」
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僕の左手とヨハンの右手が握るか握らないかという微妙なつながり方をしたまま、僕たちは来客用のソファに並んで腰掛けた。ヨハンの左腕の中で、パーチが眠たげに目を輝かせていた。
目の前では、突然のお嬢様消失ショーに慌てふためくメイド軍団を、イェルド氏が言葉少なになだめていた。
「これ、ヨハンさんの魔法なんですか?」
「……あぁ、ぼくのというか、パーチの力なんです」
それよりも、とヨハンは言った。
「あまり時間がないので、話を進めましょう」
僕はうなずいた。
「ええと、ニーナさん、というか、あなたは……」
「あ、前世では『加藤ハル』という名前でした」
「か、カトゥ、ファル……?」
すごく言いにくそうである。
「ニーナでいいですよ」
「……いえ、大丈夫です。あの、カトゥさん」
ヨハンは困惑の表情を、真面目な表情に戻した。
「この国にはリオンという魔法使いがいます。彼は、とても優秀なのですが、面倒な人でもありまして……」
ヨハンの話をまとめると、こういうことになる。
フリーディア王国の宮廷魔術師に、『リオン・ウォルター』という男がいる。卓越した魔法の知識と技術を持つ彼だが、その人格には大きな問題があるらしい。いわく、貴族の子供をモンスターに変えてすぐに戻したとか、貴族からの依頼をガン無視してパン作りに勤しんだとか、王様からの依頼をガン無視して貴族の大人をモンスターに変えてすぐに戻したとか、とにもかくにもろくなことをしない男だという。
その彼は常々、『世界のすべてに飽きた』と宣っているらしい。
「もしもリオンが『異世界からやってきたあなた』の存在に気づいたら……」
ヨハンの顔が青ざめた。
「……大変なことに、なります」
その言葉には、聞くものを納得させるような迫力が込もっていた。もしかしたら、彼もリオンによってモンスターに変えられたことがあるのかもしれない。
……確かに、と僕は考える。
仮にここが地球だとしても、周囲に異世界人であることが知られたら、マッドなサイエンティストたちが『解体させてくれぇ!』と叫びながら押し寄せてくるだろう。
ましてやここは、わけのわからない魔法の世界である。ある日突然、マッドなウィザードに捕まって、
『これより、魂の分解に入る。ぺス』
『ワン!』
『ぐぇえ!!』
みたいなことになるかもしれない。いや、自分でも意味が分からないが、意味の分からない目に遭わされる可能性があることは確かだ。
「わかりました」と僕は言った。「異世界から来たことは、私とヨハンさんだけの秘密にしましょう」
そう言って、僕は右手の小指を突き立てると、ヨハンに向かって差し出した。
「……?」
「ああ、これは『ゆびきり』と言って、約束を誓う儀式です」
僕は先ほどから触れていたヨハンの右手をつかみ上げると、その小指に自分の小指を絡めた。目の前の少年から、ひぇ、と声が漏れた。
「こうして、小指同士をひっかけて、こう唱えるんです」
僕は右腕を上下に揺らしながら、『ゆびきりの呪文』を唱えた。少々子供っぽいかとも思ったが、僕も彼もいまは子供である。それに、こういう一見わけのわからない風習は、『異世界人アピール』としてふさわしいとも思ったのだ。
呪文を唱え終わった僕は、小指を離した。
「はい! これで、約束は完了です」
これからよろしくお願いしますね、と言って、僕はヨハンの顔を覗き見た。彼の陶器のように白く、天使のように品の良い顔が、ぷしゅーと湯気を立てながら真っ赤に茹で上がっていた。
まずい!
高貴な箱入り息子に、過度な接触をしてしまった!
思春期の少年というものは、女性に対して豆腐よりもナイーブで雑草のように純朴なのだ。僕もかつてそうだったからよくわかる。
頬を染めながらもじもじとうつむくヨハンを落ち着けるために、僕はこう告げた。
「安心してください。私の、というか、僕の前世は『男』なので」
「…………おと、こ?」
そう言って、ヨハンは固まった。彼の膝の上で、パーチが「にぃ」と鳴いた。
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――その後、ヨハン・ウィード・フリーディアは約二カ月間にわたり、夜な夜な「おとこ…、おとこ…」とうなされることになる。
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うつむきながらなにかをつぶやいているヨハンをよそに、僕はこれからについて考えていた。
――この先、腹を割って話せるのはヨハンだけになる。僕は、『私』という一人称やお嬢様言葉をやめることにした。
「あのさ」
「は、はぃ?」
「これから二人きりの時は、ヨハンって呼んでもいいかな」
「ふたり……。あ、だいじょうぶです」
「ありがとね。僕のことは、ニーナでも加藤でも、好きに呼んでよ」
ヨハンはあいまいな顔をしたままうなずいた。
「時間って、まだあるかな」
「ああ、えっと」
そう言って、ヨハンはパーチを見下ろした。瞳から発せられる金色の光が、さっきよりも弱々しくなっていた。
「あと、ほんの少しなら、大丈夫です」
そう言ったヨハンに、僕は慌ててこう問いかけた。
「僕、アーベルにめちゃくちゃ恨まれてるっぽいんだけど、なんでか知らない?」
ヨハンが息を呑んだ。彼はうつむいて、言葉を選ぶように間を置いた。
そして、
「兄さんは、あなたの従兄と親友でした」
言い終えたとき、周囲の光景がゆがみだした。パーチの瞳から急速に光が消えていく。僕たちが世界に姿を晒す直前、ヨハンはこう言った。
「その人は、あなたの父親に殺された」
数舜後、メイドとイェルド氏の視線が僕たちに注がれた。
眉をひそめる僕に、ヨハンは小さな声でささやいた。
「――兄さんは、そう確信しています」




