表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

小さなコック「な」

小さなコック「な」


国語辞典の247ページには、小さな厨房があった。


誰も知らない。


学者も知らない。


先生も知らない。


辞典を作った人ですら知らない。


その厨房で働いているのが、


ひらがなの「な」だった。



なは小さかった。


他の文字と比べても小さかった。


だからよく見失われた。


文章の中でも、


みんな主役にはならない。



「愛」は強い。


「夢」は美しい。


「死」は印象に残る。



でも「な」は違った。



なに。


なぜ。


なんとなく。


あなた。


みんな。


さよなら。



いつも誰かの隣にいる。


でも誰も気づかない。



なは、それが少しだけ不満だった。



ある日。


厨房に一通の注文書が届いた。



『本日、人類に一つだけ言葉を届けてください。』



なは首をかしげた。


そんな注文は初めてだった。



普段は違う。


大量生産だ。



会議。


恋愛。


喧嘩。


謝罪。


告白。


別れ。



毎日何億もの言葉が厨房を通っていく。


だが今日は違った。



一つだけ。


たった一つ。



なは考えた。



「ありがとう」か。



違う。


良い言葉だ。


でも今日は違う気がした。



「愛してる」か。



違う。


少し重い。



「頑張れ」か。



違う。


疲れている人もいる。



なは考えた。



一時間。


十時間。


三日。


七日。



ついには厨房の床で寝始めた。



その時だった。



扉が開いた。



入ってきたのは「ぬ」だった。



ぬは辞典の中でもかなり暇な文字だった。



「何してるの?」



「人類に届ける言葉を考えてる。」



ぬは笑った。



「そんなの簡単じゃん。」



「そうか?」



「うん。」



ぬは厨房の窓から外を見た。



窓の向こうには現実世界が見える。



学校。


病院。


電車。


会社。


公園。



人間たちが忙しそうに動いていた。



ぬは言った。



「みんな難しいこと考えすぎなんだよ。」



なは黙った。



その言葉は、


な自身にも刺さった。



その夜。



なは厨房に一人残った。



そして一枚の紙に言葉を書いた。



翌朝。



その言葉は世界へ送られた。



誰に届いたかは分からない。



社長かもしれない。


子どもかもしれない。


失恋した人かもしれない。


病室の誰かかもしれない。



だが、その日。



世界中で少しだけ肩の力が抜けた。



理由は誰にも分からなかった。



仕事を辞めようとしていた男は、


コーヒーを飲んだ。



受験で泣いていた少女は、


窓を開けた。



夫婦喧嘩をしていた二人は、


少し黙った。



何が起きたのか。


誰も知らない。



247ページの厨房で、


なだけが知っていた。



その日、


人類に届けた言葉を。



それは、


たった四文字だった。



「まぁいいか」



全然四文字ではなかった。



五文字だった。



だが、なは気にしなかった。



三文字でも。


五文字でも。


六文字でも。



そんなことは、


どうでもよかった。



大切なのは、


その言葉を聞いた誰かが、


少しだけ楽になることだった。



ぬが聞いた。



「それが正解だったの?」



なは首を振った。



「分からない。」



「じゃあなんで選んだの?」



なは少し考えた。



そして言った。



「だってさ。」



「世界って、思ったより壊れやすいから。」



ぬは黙った。



なも黙った。



厨房の時計だけが動いていた。



コチ。



コチ。



コチ。



やがて朝が来る。



また新しい注文が届く。


新しい言葉が生まれる。


誰かが笑う。


誰かが泣く。


誰かが恋をする。



そして今日も、


国語辞典247ページの小さな厨房で、


コックの「な」は働いている。



疲れた人のスープに、


ほんの少しだけ


「まぁいいか」を入れながら。



その味は薄い。



けれど、


人生には時々、


それくらいがちょうどいい。



(終)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ