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小さなコック「な」

小さなコック「な」


国語辞典の247ページには、小さな厨房があった。


誰も知らない。


学者も知らない。


先生も知らない。


辞典を作った人ですら知らない。


その厨房で働いているのが、


ひらがなの「な」だった。


⸻


なは小さかった。


他の文字と比べても小さかった。


だからよく見失われた。


文章の中でも、


みんな主役にはならない。


⸻


「愛」は強い。


「夢」は美しい。


「死」は印象に残る。


⸻


でも「な」は違った。


⸻


なに。


なぜ。


なんとなく。


あなた。


みんな。


さよなら。


⸻


いつも誰かの隣にいる。


でも誰も気づかない。


⸻


なは、それが少しだけ不満だった。


⸻


ある日。


厨房に一通の注文書が届いた。


⸻


『本日、人類に一つだけ言葉を届けてください。』


⸻


なは首をかしげた。


そんな注文は初めてだった。


⸻


普段は違う。


大量生産だ。


⸻


会議。


恋愛。


喧嘩。


謝罪。


告白。


別れ。


⸻


毎日何億もの言葉が厨房を通っていく。


だが今日は違った。


⸻


一つだけ。


たった一つ。


⸻


なは考えた。


⸻


「ありがとう」か。


⸻


違う。


良い言葉だ。


でも今日は違う気がした。


⸻


「愛してる」か。


⸻


違う。


少し重い。


⸻


「頑張れ」か。


⸻


違う。


疲れている人もいる。


⸻


なは考えた。


⸻


一時間。


十時間。


三日。


七日。


⸻


ついには厨房の床で寝始めた。


⸻


その時だった。


⸻


扉が開いた。


⸻


入ってきたのは「ぬ」だった。


⸻


ぬは辞典の中でもかなり暇な文字だった。


⸻


「何してるの?」


⸻


「人類に届ける言葉を考えてる。」


⸻


ぬは笑った。


⸻


「そんなの簡単じゃん。」


⸻


「そうか?」


⸻


「うん。」


⸻


ぬは厨房の窓から外を見た。


⸻


窓の向こうには現実世界が見える。


⸻


学校。


病院。


電車。


会社。


公園。


⸻


人間たちが忙しそうに動いていた。


⸻


ぬは言った。


⸻


「みんな難しいこと考えすぎなんだよ。」


⸻


なは黙った。


⸻


その言葉は、


な自身にも刺さった。


⸻


その夜。


⸻


なは厨房に一人残った。


⸻


そして一枚の紙に言葉を書いた。


⸻


翌朝。


⸻


その言葉は世界へ送られた。


⸻


誰に届いたかは分からない。


⸻


社長かもしれない。


子どもかもしれない。


失恋した人かもしれない。


病室の誰かかもしれない。


⸻


だが、その日。


⸻


世界中で少しだけ肩の力が抜けた。


⸻


理由は誰にも分からなかった。


⸻


仕事を辞めようとしていた男は、


コーヒーを飲んだ。


⸻


受験で泣いていた少女は、


窓を開けた。


⸻


夫婦喧嘩をしていた二人は、


少し黙った。


⸻


何が起きたのか。


誰も知らない。


⸻


247ページの厨房で、


なだけが知っていた。


⸻


その日、


人類に届けた言葉を。


⸻


それは、


たった四文字だった。


⸻


「まぁいいか」


⸻


全然四文字ではなかった。


⸻


五文字だった。


⸻


だが、なは気にしなかった。


⸻


三文字でも。


五文字でも。


六文字でも。


⸻


そんなことは、


どうでもよかった。


⸻


大切なのは、


その言葉を聞いた誰かが、


少しだけ楽になることだった。


⸻


ぬが聞いた。


⸻


「それが正解だったの?」


⸻


なは首を振った。


⸻


「分からない。」


⸻


「じゃあなんで選んだの?」


⸻


なは少し考えた。


⸻


そして言った。


⸻


「だってさ。」


⸻


「世界って、思ったより壊れやすいから。」


⸻


ぬは黙った。


⸻


なも黙った。


⸻


厨房の時計だけが動いていた。


⸻


コチ。


⸻


コチ。


⸻


コチ。


⸻


やがて朝が来る。


⸻


また新しい注文が届く。


新しい言葉が生まれる。


誰かが笑う。


誰かが泣く。


誰かが恋をする。


⸻


そして今日も、


国語辞典247ページの小さな厨房で、


コックの「な」は働いている。


⸻


疲れた人のスープに、


ほんの少しだけ


「まぁいいか」を入れながら。


⸻


その味は薄い。


⸻


けれど、


人生には時々、


それくらいがちょうどいい。


⸻


(終)


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